覚書:「記憶の手前」2
これは事実で、自分の心の葛藤を描いています・・・
自分が加害者でないと信じたい反面信じられない・・・
そんな思いです
記憶を取り戻せないまま数日が過ぎたころ、ふと胸の奥に重いものが残った。
――もしあのとき、誰かを巻き込んでいたとしたら?
もし私の無意識の判断が、他人の生活を壊していたのだとしたら?
その疑念は、眠りの縁に浮かぶ黒い影のように、何度も私の意識に現れては消えた。
事故のあとも、私はただ「生き延びた」ことだけを事実として抱えていたが、
その生の確かさが、逆に不安の証拠のようにも思えた。
この覚書を書いた翌日、警察に行こうと決めた。
「もしあの時、何かあったのなら、確認だけでもしてもらおう」と。
同時に、脳外科に残されたバイクを引き取りに行く必要もあった。
家族も心配していた。そのためスクータを引き取った後、車で後をついてきてくれるという・・・
ありがたい
自分でも信じられなかった。
あの状態で、どうやってハンドルを握り、信号を判断していたのか。
まるで、誰か別の人間が、私の身体を借りて運転していたような感覚。
バイクのモトカム――車載カメラ――に、
あの瞬間の映像が残っているかもしれないと思い、USBメモリを手に取った。
事故の衝撃でデータが壊れている可能性は高い。
それでも、確認せずにはいられなかった。
AIに相談した。
「電源を入れずにデータを抜く方法はありますか」と。
画面越しのやり取りは無機質だったが、
その無機質さが、むしろ救いのように思えた。
AIは感情を持たない。だからこそ、事実に寄り添う。
私が信じることのできる“静かな他者”は、いまや機械の声だった。
それでも、どこかでわかっている。
その映像には、何も写っていないだろう。
記録が失われたのは、データの破損ではなく、
私自身の“記憶という記録装置”の方だったのだから。
それでも、確かめずにはいられない。
何も写っていなかったとしても、それが「何も起きなかった証」になるかもしれないからだ。
命が助かったことを感謝しながら、
同時に、どうして記憶だけが置き去りにされたのか――その理不尽が悔しかった。
まるで、私の中の“過去を持つ私”だけが、事故の中で死んでしまったような気がした。
けれど、それでも生きている。
不安を抱えたままでも、現実は前に進む。
だからこそ、私は次の行動を選ばなければならない。
記憶を失った私が「生きている証」を取り戻すために。
事故後のバイクの状況も、静かに考えざるをえない。
私のスクーター、SR30BCに搭載されたモトカムのことだ。
事故直後、私はおそらくバイクのエンジンを再起動しており、
そのためUSBメモリから取り出せる映像は、脳外科に向かうまでのわずかな時間だけだろうと想像できる。
それ以上の映像は、おそらく失われている。
USBを差してデータを吸い出すこともできるが、事故直後の衝撃や再起動によって、
残っているのは部分的な断片かもしれない。
こう考えると、事故の全体像を確認するには限界がある。
それでも、少しでも確認できる方法を模索するしかないのだろう。
もし、ほかにもっと確実な手段があるのなら――誰かに教えてもらいたい。
これを投稿している今も、その方法を探している。
2025/11/9の10時までに、何かひとつでも希望が見えるだろうか。
望みは薄いかもしれない。けれど、知りたいのだ。
なぜなら、この状況をここまで冷静に記している自分が、
「もう受け入れている」ことを、どこかで理解している気がするからだ。
失われた映像も、記憶も、私の一部として――。




