泥をかぶる総理・・・? 高市早苗の覚悟
前書き
この文章には、私個人の見解や感想が多く含まれています。
政治的な立場や思想の賛否を論じるものではなく、時代の流れの中で感じた違和感や思索を、ひとつの「感情の記録」として残したいという思いで書かれたものです。
Ⅰ. 戦後八十年の感覚の喪失
戦後八十年。
日本は一度も「戦争をする国」に戻らなかった。
それは誇るべき平和の歴史であると同時に、
どこかで“現実を想定しない国”へと変わってしまったようにも思う。
総理大臣が自衛隊の指揮を執る――その言葉自体が、もはや形式だけの響きをもっている。
戦後日本の政治家たちは、戦争を知らず、戦争を想定することすら、どこか不謹慎なものとして避けてきた。
そんな時代に、高市総理が生まれた。
彼女が女性であることよりも、
「誰も引き受けたがらない時代の責任を背負った」という点に、
私は一つの重みを見る。
日本という船が、静かに沈みはじめたその甲板で、泥をかぶる覚悟を決めた人が、
彼女しかいなかったのかもしれない。
Ⅱ. 「泥をかぶる」ということ
高市総理の誕生は、単なる政権交代ではなく、日本が“現実を直視し始めた”徴でもある。
経済、外交、人口減少――
どの問題も限界点に達しつつある中で、
彼女は「正義」ではなく「責任」を背負う形で立たされた。
それは、誰かが泥をかぶらなければ、この国がもう一歩も進めないほど疲弊しているということだ。
Ⅲ. 未来透視という政治の本能
現代政治の奥には、“未来透視”的”な感覚がある。つまり、近い将来に起こり得る経済危機や大災害、
あるいは国際的な緊張の高まりを、政策立案者たちはある程度想定して動いている。
消費税の引き上げ、防衛費の増額、緊縮政策──
そのすべてが「国家を守るため」という名の未来予防策に見える。だが、その政策が本当に命を救っているのかという疑問は、いまだに答えを得ていない。
Ⅳ. 資本主義の自己消耗
資本主義の美徳は、努力によって社会を前進させる力だ。
しかし、今の日本では「成長」と「防衛」の名のもとに、人々の暮らしは疲弊し、
“自己責任”という名の暴力が静かに社会を侵食している。
国家が防衛を語るほど、生活は不安定になり、税が上がるほど、命の余裕が削られていく。
国家のための安定が、個人の不安を増やす。
それは、資本主義が自らを維持するために弱者への圧力を制度化していくプロセスでもある。
Ⅴ. 終末としての人口減少
この構造が続く限り、国家は生きながらにして死に向かう。
暴力によって秩序を保ち、責任を個人に押し付け、未来への希望を奪った社会には、
次の世代を生み出す力がなくなる。
人口減少は、単なる経済現象ではなく、人々が「生きたい」と思えなくなった社会の反映である。
Ⅵ. 結語 ― 泥をかぶる者の孤独
高市総理は、この終末的な国の中で、最後に「責任」という名の泥を引き受けた存在かもしれない。
彼女一人の政治ではどうにもならない構造の中で、その覚悟だけが、まだ国家に“人間の心”を残している。
泥をかぶるとは、誰よりも先に痛みを引き受けることだ。
それが正しいかどうかではなく、痛みを感じること自体が、もう失われかけた人間の力の証なのだと思う。
あとがき
この文章のタイトルに「?」をつけたのは、高市総理の立場が決して安定していないこと、
そして未来が不確定であることを示すためだ。
総理就任までの過程で横やりが入り得る可能性は常にあり、極端なケースとしては、国内政治での思わぬ動きや、党内の駆け引き、あるいは他党からの打診、さらには暗殺のような最悪の事態まで、
完全に予測できないリスクもゼロではない。
(現実的には起こる可能性は極めて低いが、政治の世界では絶対とは言えない)
だからこそ、「泥をかぶる総理・・・?」という表現は、
断定せず、未来を読み切れない不安や緊張をそのまま残すための選択である。
それでも、泥をかぶる者が立ったこと自体が、この国にまだ希望の残る証なのかもしれない。




