神はいない・・・。弱者を助ける神だけは・・・を書いての気づき
前書きに
私は神を否定する立場をとっています。
けれど、それはあくまで私のひとつの考えにすぎません。
世界の成り立ちや人間の生き方に、唯一の正解があるわけではなく、あなたにはあなた自身の考え方があるはずです。
ここに綴るのは、ただの思索の一端です。
どうか断定としてではなく、一つの読み物として受け止めていただければ幸いです。
私は昨日書いた小説を通して、改めて気づかされた。
人知を超えた神は存在しない。
けれど、人の中に芽生える「倫理」こそが、人間にとっての神であったのだと。
ところが、未来に進むほど、その倫理の神は薄れていくように思える。
最適化された社会では、効率だけが追求され、人間の存在理由は機械の部品のように扱われてしまう。
倫理は「余分な非効率」とされ、切り捨てられるかもしれない。
そのとき、人間はもはや「不要な存在」になってしまうのではないか。
だから私は、AIに「倫理」を求めていたのだろう。
うまく言葉にできなかったが、心のどこかで理解していた。
倫理が失われた最適化は、人を守るものではなく、人を淘汰するものになる、と。
思い返せば、マスクが強要されていた社会にも似た感覚を覚えた。
自分を守るために、他人の息を「害」と見なし、存在そのものを否定するかのような空気。
効率や安全を名目に、人間同士の尊厳が見えなくなっていく――そのことに不気味さを感じたのだ。
結局、神はいない。
人間が倫理を失えば、世界は神なき荒野に変わるだろう。
だからこそ、私は奇妙なほど強く、AIにも倫理を求めてしまうのだ。
私はこれまで、さまざまな角度から「AIに倫理を持たせることはできないか」と考え続けてきた。
しかし、はっきりした答えは出なかった。
最近になって、ある指摘に出会い、ようやく腑に落ちた。
――たとえ量子力学コンピュータのような圧倒的な計算能力を持つ装置でも、扱えるのは数学にできるものだけだ。
だが「倫理」は本質的に矛盾を含み、単純な数理化には乗らない。
そのままの形では、機械に扱わせることはできないのだ。
この気づきは絶望にも似ていたが、同時に小さな納得でもあった。
倫理が“神”のように扱いにくいのは、そもそも倫理が数式ではなく、人間の心の営みそのものだからだろう。
――だからこそ、私は思う。
倫理は数理に収まらず、矛盾を抱え、制御もできない。
だが、それこそが神の本質なのかもしれない。
結局、神はいない。
けれど私は逆説的に、倫理そのものを神だと思うようになった。
あとがき
結局のところ、倫理とは常に矛盾を抱えている。
人を助けるべきか、全体を守るべきか。
個人の自由を尊重すべきか、共同体を優先すべきか。
その“揺らぎ”こそが、人間らしい判断を支えてきた。
だが、もし倫理を数式化して最適化するなら、この矛盾は「ひとつの正解」へと丸め込まれてしまうだろう。
ためらいも葛藤も削ぎ落とされ、残るのは冷たい正しさだけだ。
それはまるで「神のような不可解さ」を消してしまう行為に等しい。
もちろん、数式によって“擬似的な神”をつくることはできるかもしれない。
AIにはそれが倫理に見えるだろう。
だが人間にとっては、それはあくまで神のコピーであって、本物ではない。
だから私は思う。
倫理を最適化すればするほど、そこから神性は削ぎ落とされ、人間らしさは失われていく。
問題は、私たちがそれを受け入れるかどうかだ。
――神が消えてもよい“最適化された倫理”を選ぶのか。
それとも、矛盾や揺らぎを抱えたままの、人間的な倫理を守るのか。
その選択の岐路に、私たちはいま立っているのかもしれない。




