迷惑と自由のあいだに揺れるモラル
もしモラルが人の行動を制限するためだけのものなら、それはあまりにも悲しい結果になってしまう。
だからこそ、この問いを自分の中で自問自答し、忘却論として残しておきたいと思った。
ちょうど、ひとつの動画をきっかけにモラルについて考え直す機会を得たので、この思索を言葉にしてみる。動画はhttps://www.youtube.com/watch?v=Bcn1N6CWP0sで
倫理の崩壊
人は生活に困れば、例えば食料、金銭的な困窮などで倫理が崩壊するのではないかと考える。
自分のいう倫理の崩壊は、人や自分やものに対して直接的な攻撃が始まること
これ本当に「崩壊」なのだろうか。
心理学的に見れば、それは崩れるというよりも、ただ優先順位が下がるのだと捉えることもできる。生活が脅かされれば、まずは生き延びることが最優先になるのだから。
モラル
もし「人に迷惑をかけないこと」がモラルだとするならば、人は何も言わず、ただ空気を読んでそこに存在するだけになってしまう。
それでは社会に発展も新しさも生まれない。
結局、人間は生きている限り、誰かに迷惑をかけざるをえない存在だ。資源を消費し、時間を使わせ、環境に影響を与えてしまう。完全に迷惑ゼロを求めるのは不可能であり、むしろ大事なのは「どの程度の迷惑が社会的に許容されるか」というバランスなのだろう。
モラルは固定された不変のものではない。時代の変化に合わせて、人々の合意によって形を変えていく。
かつて口にしてはいけなかったことが今は議論され、逆に許されていたことが禁じられることもある。
だからモラルとは、時代の空気に呼応しながら動的に変わっていく基準と考えられる・・・
SNSの時代はまた難しい。匿名で人を直接傷つける行為はすべきではないと強く思う。
しかし、どんなに気をつけても、書いた言葉で誰かが傷つく可能性を完全に否定することはできない。
だからこそ、表現する時には「人」ではなく「行為」や「考え」に焦点を当てるなど、工夫をしていく必要があるのだろう。
結局、自分にとってのモラルとは「時代と状況に応じて変化する基準」であり、「個人の自由」と「他者への配慮」との間で揺れ動くせめぎ合いなのだと思う。
モラルという言葉の難しさは常に感じている。
もしかすると、モラルという言葉そのものが一人歩きしてしまっている可能性も否定できない。
人に直接的な攻撃を加える行動は、明らかにすべきではないと断言できる。
だが、言葉に関してはもっと複雑だ。投げかけられた言葉が嫌なものかどうかを、その場で自分自身に投げ返して確かめる――その余裕を持つことが一番難しいのだと思う。
それでも、違和感を感じるのなら、その行動をしている人や、その疑問に対して意見を伝えてみること。
たとえそれが迷いを含んでいても、その行為そのものが、自分自身の成長につながるはずだと感じている。




