考えることをやめた職場で、思考を取り戻すということ
業務効率化という言葉は、ときに思考停止の別名になる。
現場が改善策を自発的に提案し、工夫する──そんな理想は、実際にはあまり見かけない。多くの場合、効率化とは上層部の判断として降りてくる命令だ。そして、それが日常化した職場では、一つの風景が現れる。「自分で考える」ことが、どこか面倒なことのように扱われ始めるのだ。
ただし、これは怠慢とは違う。現場が考えを放棄しているのではない。「考えることが許されていない」「考えても報われない」──その蓄積が、人を沈黙させていく。判断は上から降りてくる。慣例が正論をねじ伏せる。そうなれば、意見を言う意味も、考える意味も、徐々に失われていく。考えないのではない、考える癖を失っていくのだ。
上司の立場もまた苦しい。小さな判断でも逐一、上層部にお伺いを立てなければならないような職場では、もはや中間管理職ではなく、ただの中継装置になってしまう。そんな状態が続けば、会社の機動力は死に、やがて倒産が現実味を帯びてくる。
一方、少数精鋭の組織には、そうした“余白”がない。誰かが考えなければ、前に進まない。判断を他人に委ねれば、そのまま全体が止まる。だからこそ、こうした組織は、発展か衰退のどちらかにしか進まない。中途半端な惰性では、生き延びることすらできないのだ。
もしあなたが「もっと頭を使いたい」「考えることをやめたくない」と願うなら、その手段は一つしかない。**自分で何かを始めること、試行錯誤をすること。**組織の仕組みに期待するのではなく、自分自身の癖を、自分の手で取り戻すことしか道はない。
では、「改善」とは何だろう。
昨今は、どこもかしこも“TOYOTA式”を標榜する。業務の無駄をなくし、現場から知恵を引き出し、日々の改善を積み上げる──。その文化は確かに、多くの現場で成果を出してきたのだろう。だが、それを**表面だけなぞった“なんちゃって改善”**が、今やそこかしこに溢れている。
多くの職場では、改善とは「何かを足すこと」と勘違いされているようだ。チェックリストを増やす。ツールを導入する。報告書のフォーマットを変える。会議の目的を明文化する──そういう“何かを増やす”ことが、なぜか改善と呼ばれている。
だが本来の改善とは、何が不要かを見極め、それを捨てることから始まるべきではないか。
何かを足すのは簡単だ。だが、引くのは怖い。責任が問われるし、慣れ親しんだ無駄には、なぜか人は居心地のよさを覚えてしまう。しかし、本当の意味で思考を伴った改善とは、「削る勇気」からしか生まれない。
**そして、引き算のできない改善は、やがて“改善されたこと”すら忘れられ、誰にも使われない慣習として埋もれていく。**それは名ばかりの改善、形式だけの改革にすぎない。だれも使わないフォルダ、開かれない手順書、形だけの週報──そうしたものは、むしろ新たな非効率として積み上がっていく。
TOYOTA文化が本当に意味していたのは、そういうことだったはずだ。ただ、型だけ真似て、「何か新しいことを始めました」と言いたいがための“改善ごっこ”に成り果てているのなら、現場の思考はむしろ鈍化していく。
結局のところ、考える力とは「やらないことを選ぶ力」でもある。そして、その力は、自分自身で鍛えていくしかない。
あとがき
「改善ごっこ」という本がある。
『業務改善の問題地図 ~「で、どこから変える?」~ 進まない、続かない、だれトク改善ごっこ』(沢渡あまね・元山文菜/技術評論社)。その本では、“形だけの改善”がいかに現場の時間と労力を奪っているかが語られているという。
私はまだ読んでいないが、表紙の言葉だけでもなんとなく伝わってくる。
本当に効く改善をしたいなら、まず「何をやめるか」「何を捨てるか」から始めるべきだ。
TOYOTA文化の本質もまた、足し算先行の安易な改善ではない。削る勇気を持ち、使われる仕組みへと再構築する。そのプロセスにこそ、思考が宿る。
……とはいえ、会社がすべてじゃない。
思考を止めて生きる日があってもいいし、思考を取り戻すきっかけが、ふとした瞬間に見つかれば、それで充分なのかもしれない。




