なぜアメリカの核は正当化され、ロシアの核は“悪”とされるのか
ーー二重基準に対する違和感と、現代の欺瞞について
ロシアとウクライナの戦争を見ていると、どうしても「ロシアを排除したい勢力が戦争を仕掛け、追い詰めているのではないか」という印象を拭えない。NATO諸国による包囲網のような拡大と圧力。これではロシアが脅威を感じて当然だと思うし、それに反応する形での軍事行動がすべて一方的に悪とされている現状に、強い違和感を覚える。
もっと言えば、報道のされ方も偏っている。ロシアが何かすれば大々的に非難されるのに、ウクライナ側の攻撃や犠牲には沈黙が貫かれる。この構図は、集団で誰かを吊るし上げる“いじめ”にすら見える。なぜここまで一方的なのか。戦争とはそもそも殺し合いであり、そこに綺麗な正義も汚い悪も、そう単純には割り切れないはずだ。
その中で特に気になるのが、「核」に対する世界の反応だ。多くの報道では、ロシアが核を使う可能性を“脅し”として非難する。しかし実際には、ロシアを追い込んでいるのはNATOやアメリカではないのか。現代の核を巡る議論を聞くたびに、どうしても第2次世界大戦の「原爆投下」を思い出さざるを得ない。
あのときアメリカは、広島・長崎に原爆を落とし、何十万人もの民間人を殺した。それを「戦争を早く終わらせるため」という理由で正当化した。ならば今、もしロシアが「自国の人民を守るため」「NATOの脅威から生き残るため」に核の使用を“検討”するなら、それも同じ論理で語られるべきではないのか?
にもかかわらず、ロシアが核を使う可能性に触れただけで「悪の帝国」と断定されるこの世界の反応には、どうしても納得できない。まるで“アメリカの核は正義”、でも“ロシアの核は悪”と言わんばかりのダブルスタンダードがあるように思える。
それでもロシア、いやプーチン大統領は、実際には核を使っていない。追い詰められてなお踏みとどまっているようにも見える。自分がその立場なら、とっくに使っていたかもしれないと思うほどに、厳しい状況だろう。それでも踏みとどまっている彼に対して、なぜもう少し冷静に国際社会は対話できないのか。
一方だけを悪と決めつける構図は、結局戦争を長引かせる。そして私たちが「核を使ってはいけない」と言うのであれば、それは“誰であっても使ってはいけない”という普遍的な倫理であるべきで、決して相手や立場によって使い分けるべきではない。
私は、このダブルスタンダードが許される世界に、どうしても憤りを覚える。
なぜ私はプーチン大統領を“悪”と感じなかったのか
誤解してほしくはない。私はプーチン大統領を賛美したいわけ ではない。だが、戦争が始まったあの瞬間から、どうしても彼が「一方的な悪者」には見えなかった。
ちょうどその頃、世界中がコロナで混乱し、人々の不安と緊張が極限に達していた。ワクチンの強制、情報統制、社会の分断──そんな中で、ロシアだけがどこか異なる道を歩んでいるように映った。あれは自国の主権を守るため、自国民を守るための決断だったのではないか。そう感じてしまった。
西側の報道が何を語ろうと、私の目には「国を背負って立つ者の覚悟」が映った。その姿に、どこか英雄的な印象を抱いたのは否定できない。もちろんそれが幻想である可能性もある。けれど、誰かを一方的に悪と断じる世界の空気には、違和感があった。
ただ、だからといって、戦争を肯定するわけにはいかない。そして何より、核兵器だけは決して使われてはならない。それだけはどんな理由があっても超えてはならない一線だ。誰かの正義が、すべてを焼き尽くしてしまうような破壊の引き金になってはならない。
願わくば、どんなに追い詰められても、どんなに孤立しても、プーチン大統領がその最後の一線を越えないことを、私は心から祈っている。




