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日々の想い(日記?)  作者: otu
小説って、アニメ化される30ぐらいがちょうどいい?
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素顔

――なぜ、フルフェイスのヘルメットで銀行に入ると警備員が飛んできたのに、

今では同じように顔を覆ったマスク姿が、何のお咎めもなく出入りしているのだろう?


マスクは感染症のためだ、と皆は言う。

でも、私のマスクはただの医療用じゃない。

皮膚の問題? それもある。けど、本当は…顔を見られたくないんだ。


――「顔を見せないのは不信の証です」

駅の掲示板にそう書かれた日、私は口を閉ざした。

マスクを外せ、素顔を見せろ。

それが誠意だと誰が決めた?


不思議なことに、いまや素顔を晒している人間ほど怪しく見える。

うさんくさい営業スマイル、嘘くさい政治家の顔。

あの整った顔面が、「私は信用に足る人間です」と言いたげに笑うのを見るたび、

なぜか私の手は、マスクの端をもっと引き上げたくなる。


一方で、素顔を見せることが「安心感」を与えるとされ、詐欺師たちはその理屈に飛びついた。

なぜなら、人は顔の見える者を信じたい。

それはもはや、本能に近い。

魂に刻まれたごとく、「顔が見える=安心」という感覚が社会に根を張ってしまったのだ。


詐欺師である政治家たちも、まるで何事もなかったかのように、自分を信頼してもらうためにマスクを外した。

そこには、選挙に勝利するという明確な意図があった。

「顔を見せている私を信じてください」と言わんばかりに、彼らは素顔を武器にした。

犯罪者も、フルフェイスマスクを被る必要などなかった。素顔こそが、最強の偽装だった。


けれど――マスクをしていて、誰が誰を信頼できるのか、私には不思議でしかたがない。


――信用って、本当に顔で判断していいものだったっけ?


いや、そもそも「顔」とは何だろう。

私たちは相手の目を見て、口元を見て、そこに「誠実さ」や「嘘」を読み取ろうとする。

でも、それは本当に読み取っているのではなく、そう信じたいだけなんじゃないか。


心理学者は言う。

「人はたった数秒で他者の信頼度を顔から判断するが、その多くは誤認に過ぎない」と。

哲学者は言う。

「真実とは、見えるものではなく、隠れているものの中にある」と。


だったら、顔が見えるという理由だけで人を信じることは、ただの慰めでしかないのかもしれない。

むしろ、隠されたものの中にこそ、誠実さが潜んでいることだってあるのに。


そう思うと、私はますますマスクを外せなくなる。

本当の信頼は、顔ではなく、言葉と沈黙のあいだに宿るのだと、信じていたいから。


思い出すのは、かつて読んだ『千里眼』という小説。

顔の一瞬の変化から感情を読み取る異能の持ち主の話だった。

だが、それは並外れた動体視力と、膨大な知識と経験があって初めて成立する能力だった。

ましてや、トラウマを抱えた者にとっては、顔の表情すら歪んで見えることがある。

つまり――「顔を見ること」と「真実を知ること」は、必ずしも一致しない。


夢の中で同じ恐怖を繰り返すように、身体に染みついた反応はそう簡単には消えない。

私の中の“信頼のセンサー”は、時に顔ではなく、むしろ沈黙やまなざしに反応する。

だから私は、信じることよりも、疑いながら共にいることを選びたい。

顔よりも、その人が黙っているときの呼吸のリズムを、信じたいと思うのだ。


けれど──

もしかしたら、私たちが「マスクを外した顔」を見て安心するのは、

誰かを信じたいというより、自分の中に“信用の基準”を持っていたいからなのかもしれない。

不確かな世界のなかで、自分だけでも納得できる判断軸を作るために、

私たちは“顔”という仮の指標を信じようとしているのだ。



物語の中では、『千里眼』という小説の話を思い出した。


顔の一瞬の変化から感情を読み取る力──それは驚異的な動体視力と、長年の蓄積による知力があって初めて可能になる。

けれどそれは“読める者”の視点だ。

一方、トラウマを持つ者にとっては、その「顔の変化」すら歪み、時に恐怖として再生されてしまう。


夢の中で同じ体験を何度も繰り返し、身体に染みついた反射がもう拭えないように、

「顔」を見ることは、安心よりも先に、反射的な警戒を呼び起こすことだってある。

つまり、“顔を読む”ことと、“真実を感じる”ことは、同じではないのだ。


そして、私には今も拭えない疑問がある。

本当に、顔って安心感を与えるものなのだろうか?


赤ん坊のころに見た母の笑顔。

テレビの中で「安全」を語る政治家の表情。

裏切った誰かの、あのときの笑顔──。


私たちが顔を見て安心するとき、それは本当に「その顔が安心だから」なのか。

あるいは「安心できると信じたい過去の記憶」が、私たちの中で繰り返されているだけなのかもしれない。


顔とは、記号であり、記憶のトリガーであり、そして演出の道具にもなる。

だったら、顔に安心を求めることは、時に危うい幻想なのではないか。


私は、信じたいと思う。

けれどそれは、相手の「顔」ではなく、

沈黙の中にある呼吸のリズムだったり、言葉の選び方だったり──

そんな目に見えないところに、そっと宿っているのかもしれない。


だから、マスクをしている私は、もしかすると、

「顔が信用の証である」という世界の常識に、少しだけ抵抗しているのかもしれない。

安心は、顔の中ではなく、私の中にあるものだから。

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