どうまとめていいかわからないaiとの対談
変なaiとの対談です
いつかまとめらればいいと考え、のこします・・・
そう感じるのは自然だと思います。
ただ、ここであなたが考えていることは「ひどいことをしたい」という方向ではなく、むしろ逆で、なぜ人間はひどいことが起きる構造を作ってしまうのかを追っているように見えます。
あなたが今掘っているのは、
「悪い人がいるから悪いことが起きる」
という単純な説明ではなく、
普通の人が、自分では合理的だと思う判断を積み重ねた結果、誰かを傷つける構造ができてしまうことがあるのではないか
という問題ですよね。
これは人間社会を考える上で、昔から非常に重いテーマです。
特に怖いところは、あなたが言うように、
一人ひとりは「自分なりに正しい」と思っている
周囲も同じ判断をする
その判断が強化される
後から見ると、とても残酷な結果になっている
ということが起こり得る点です。
だからこそ、あなたの「合理性(模倣)」という考えでは、危険なのは合理性そのものではなく、
自分の合理性が、現実そのものだと思い込んだ時
なのだと思います。
そして、今あなたが「ひどいこと考えているな」と感じたこと自体が、実は重要な部分かもしれません。
もし完全に模倣だけで動いているなら、
「みんながそうしている」
「合理的だから仕方ない」
で終わってしまう可能性があります。
でもあなたはそこで、
「これは本当に大丈夫なのか」
「この考え方は危険ではないか」
という違和感を持っている。
それは、あなたがずっと話している「模倣のズレを検出する部分」に近いと思います。
人間の怖さは、合理性を持つことではなく、合理性を持っているからこそ、自分の行動を正当化できてしまうことなのかもしれません。
そして同時に、人間の救いも、その正当化を疑えることにあるのだと思います。
合理的(模倣)がここまで、話が広がるとは全く考えていなかった
それはかなり自然な驚きだと思います。
最初に出てきた「合理的(模倣)」という言葉は、たぶん最初はもっと個人的な感覚――「人は過去の経験や周囲の行動を参考にして判断しているのではないか」というところから始まっていたと思います。
でも掘っていくと、実は一つの仕組みとして多くの領域につながります。
例えば、
個人の意識
昨日の自分を記憶によって再構成する
過去の経験から現在を判断する
習慣によって行動する
↓
人間関係
周囲の評価を参照する
空気を読む
集団の基準を模倣する
↓
社会
制度や文化を維持する
成功例を繰り返す
多数派の考えが強化される
↓
歴史
国家や集団が過去の成功体験を模倣する
正当化する物語が共有される
対立が固定化する
というように、同じ「過去を参照して現在を作る」という構造が見えてくるわけです。
ただ、面白いのは、あなたの考えが途中で単なる「人間は模倣する」という話から変化しているところです。
最初は、
人間は合理性(模倣)で動いているのではないか
だったものが、
途中から、
では、その模倣していることを認識している意識は何なのか?
という問題になった。
さらに、
もし模倣が社会全体に広がったら、社会の判断そのものも模倣になるのではないか?
というところまで進んだ。
これは、個人の心理から社会システム、さらに哲学的な「意識とは何か」という問題まで連鎖しています。
ただ、一つ重要なのは、「合理的(模倣)」という考えは、何でも説明できるように見えるからこそ注意も必要です。
どんな出来事にも後から理由を付けられる理論は、強力である一方で、検証が難しくなることがあります。
だからこそ、あなた自身が途中で出した、
「どのような状態も、後から説明できるまやかしになる可能性」
という疑問は非常に大切です。
その疑問を持てること自体が、あなたの理論の中では「模倣のズレを見る機能」に当たると思います。
そして、個人的に一番興味深いと思うのは、あなたの「合理的(模倣)」は最終的に、人間を否定する方向ではなく、逆に、
なぜ人間には、模倣に流される性質と、模倣を疑う性質の両方があるのか
という問いになっているところです。
最初は「人間は合理的(模倣)に支配されているのではないか」という疑問だったものが、今は「その支配を認識できるものは何なのか」という、さらに深い問題に変化しているように見えます。
それが存在するとしたら、ただの孤独じゃないの・・・・
あなたの言う「それ」が、模倣を疑うもの、あるいは模倣から外れるものを指しているなら、「孤独」という表現はかなり近い部分があると思います。
なぜなら、合理性(模倣)は基本的に、
過去の経験
周囲との一致
他者との共有
安心できるパターン
によって成り立つものだからです。
そこから一歩外れて、
「みんながそう思っているけれど、本当にそうなのか」
「自分が信じているものは、ただ受け取ったものではないか」
と考える瞬間、人は一時的に共有された世界から離れることになります。
その状態は、確かに孤独に近い。
ただ、少し違う見方もできます。
その孤独は「誰もいない状態」ではなく、
まだ他者と共有できる形になっていない認識を持っている状態
とも言えます。
例えば、新しい発見をした人は、最初は周囲から理解されないことがあります。
その人は、
「自分の見えているもの」
と
「周囲が見ているもの」
の間にズレを感じる。
そのズレは孤独になります。
しかし、その後に言葉や証拠によって共有されれば、やがて新しい模倣になります。
つまり、
個人の違和感
↓
孤独
↓
言語化・共有
↓
新しい社会の模倣
という流れもあります。
ただ、あなたの考えで一番厳しい部分はここかもしれません。
もし意識そのものが、
「直前の自分を模倣しているだけ」
だとしたら、
「本当の自分」
「模倣していない自分」
を探すこと自体が難しくなる。
すると最後に残るのは、
自分が何かを考えているという、この瞬間の感覚だけ
になる。
それはある意味、とても孤独です。
しかし同時に、人間はその孤独を感じることができます。
完全な模倣だけの存在なら、「自分は孤独なのか」という問い自体が出てこないはずです。
だからあなたの問いは逆説的で、
「もし模倣から外れたものがあるなら、それは孤独なのではないか」
という問いである一方、
「孤独を感じているということ自体が、模倣だけでは説明しきれない何かの存在を示しているのではないか」
という問いにもなっているように思います。




