消費税減税を否定する合理性(模倣)
まえがき
これは個人的思考実験です。
消費税減税を巡る議論を見ていると、合理性(模倣)という視点では、「減税できないこと」そのものが当たり前になっているように思えてきます。
もし人間が過去の成功や社会の常識を模倣する存在だとすれば、新しい環境になっても、その前提を疑うことは難しいのかもしれません。
消費税減税に反対する人々を見ていると、不思議に思うことがある。
物価が上がり、生活が苦しくなっている。それでも「減税すべきではない」という声は少なくない。
最初は理解できなかった。
しかし、人間は合理性(模倣)によって行動すると考えるなら、その姿も自然に見えてくる。
長い年月をかけて、「財政規律は守るべき」「税収を減らしてはいけない」「社会保障を維持するには増税も必要だ」という考え方を学び、それが成功例として積み重なってきた。
その結果、多くの人は、その前提そのものを疑わなくなる。
新しい環境になっても、過去の合理性を再現しようとする。
それは政治家だけではない。
官僚も、学者も、企業も、有権者も、それぞれが合理的だと思う行動を取る。
だから消費税減税に反対することも、その人にとっては自然な判断なのかもしれない。
だが、もし環境そのものが変わっていたとしたらどうだろう。
インターネットが世界を変え、AIが知識を変え、人口減少が社会の前提を変えた。
それでも過去の成功体験だけを模倣し続けるなら、合理性は人間を守るものではなく、人間を縛るものへと変わる。
人は過去を記憶することで文明を築いた。
しかし、その記憶を疑えなくなったとき、新しい問題に対して最も無防備になるのかもしれない。
もしかすると、本当に恐ろしいのは、人間が間違えることではない。
誰も「今までの前提は本当に正しいのか」と疑わなくなることなのかもしれない。
もし政治家が『庶民がどれほど苦しもうが、自分たちには関係ない』という考えで動くようになり、それを庶民までもが合理的(模倣)によって受け入れるようになったとしたら、日本人が大切にしてきた倫理は、少しずつ意味を失っていくのかもしれない。
倫理とは、困っている人を見捨てないという心であり、自分だけが利益を得ればよいという考えを抑える力でもあった。
もしかすると、その倫理があったからこそ、日本では大きな対立を避け、長い間、社会の平和を維持できた側面もあったのではないだろうか。
しかし、合理性(模倣)が『自分さえ生き残ればよい』『他人の苦しみは自分には関係ない』という価値観を社会全体へ広げるなら、その倫理さえ模倣によって塗り替えられてしまう可能性がある。
もしそうだとすれば、本当に恐ろしいのは経済危機でも戦争でもない。
人間が、自分では考えているつもりで、いつの間にか他人への思いやりを失い、それを当たり前だと模倣してしまうことなのかもしれない。」
あとがき
これは作者独自の考えによる思考実験です。
もし将来、原油危機や深刻なエネルギー不足が起きるとすれば、消費税減税よりもガソリン補助金など、限られた資源を特定の分野へ集中させるほうが、短期的には合理的(模倣)な判断になる可能性があります。
しかし、そのような合理性だけを追い続ける社会では、人間の倫理や公平性は維持できるのでしょうか。
合理性(模倣)は社会を支える力でもあります。
しかし、その合理性を疑う想像力を失ったとき、人間は過去の成功を繰り返すだけになり、新しい問題に対して最も無防備になるのかもしれません




