合理性(模倣)と自己・意識についての仮説
ここから述べる内容は、現時点で私が考えている一つの仮説であり、科学的な事実を主張するものではありません。
私は当初、人間の合理性(模倣)は、他者の成功例を取り入れ、生存に有利な選択を繰り返す性質だと考えていました。
しかし考えを進めるうちに、模倣とは単に他者を真似ることではなく、最終的には「自己を模倣すること」ではないかという考えに至りました。
人は幼い頃、他者から言葉や行動を学びます。
しかし、それは体験を通して自分のものにならなければ、単なる知識のままです。
経験を重ねることで、その知識は自己の一部となり、やがて人は他者を模倣しているのではなく、「昨日までの自分」を自然に再現するようになります。
私は、この「自己を繰り返し再現する働き」こそが、合理性(模倣)の本質ではないかと考えています。
もしこの仮説が正しいなら、自己とは固定された実体ではなく、絶えず再生成され続ける関係性なのかもしれません。
さらに、この考えを進めると、意識についても一つの可能性が浮かび上がります。
私たちは意識を、脳の中に存在する何か特別なものとして考えがちです。
しかし、意識とは実体ではなく、自己を連続的に再生成し続ける過程そのものを、私たちが主観的に経験している現象なのではないでしょうか。
つまり、意識とは「自己を保つ働き」であり、その働きを支えている根底に合理性(模倣)が存在している可能性があります。
もしそうだとすれば、自己とは記憶だけで成立しているわけではありません。
身体との相互作用、環境との関係、言語による意味づけ、そして過去の自分との連続性を絶えず再構築することで、「私は私である」という感覚が保たれているのかもしれません。
この仮説から、さらに一つの疑問が生まれます。
もし自己が脳の記憶だけではなく、このような自己再生成の関係性によって成り立っているのであれば、仮に将来、医学が進歩し、拒絶反応もなく神経接続も完全な脳移植が実現したとしても、それだけで「自己」が移植できるとは限らないのではないでしょうか。
身体との長年の相互作用の中で形成された自己再生成の関係性が失われるなら、医学的には成功していても、「自己」は成立しない可能性があります。
もちろん、これは現時点では科学的な根拠がある話ではありません。
しかし、合理性(模倣)という視点から人間を考え続けた結果、私は「自己」や「意識」もまた、固定されたものではなく、絶えず自己を再生成し続ける関係性なのではないかという考えにたどり着きました。
この仮説が正しいかどうかは分かりません。
それでも私は、経済、AI、社会、そして人間そのものを見つめる中で、合理性(模倣)という一つの性質が、それらを結びつける共通の鍵になっている可能性を、どうしても捨てきれずにいます。




