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第四章



 天井が見える。


 どのくらいの間見ていたのだろう。


 真ん中には白い丸い笠に覆われた電灯。


 蝉の声。


 ずいぶんと、さきほどよりも勢いをなくしている。




私はゆっくりと起き上がり、剥き出しの冷たい二の腕の上を、両手の手のひらで包んだ。


開けっ放しになっていた、木枠のガラスの引き戸の向こうには、一面濃い靄が立っている。


 そして窓の付近の畳の上は、濡れて、濃い茶色に変色している。


 私は寒さに身をぎゅっと縮めて、ぐるっとテレビのある方に首を捩じり、温度計に目をやった。


 針は、二十二度を指している。


 どうやら夕立があったらしい。


 いや、夕立どころではなく、いわゆるゲリラ豪雨が直撃したのだろうか? 私は外の靄を見やり、雑巾で畳の上の水をふき取りながら思った。


 時間は午後三時五分。


 たったニ三時間ほどで気温は十六度も下がり、向かいの立ち並ぶ古い民家もそこの庭の木々も白い靄に霞み、そして畳の上は水浸し。


 いずれにしろ寝ている間に相当な豪雨が降ったのだろう。


私は畳の上に横になり、肘をついて頭を支え、考えた。






世界は終わったのだろうか?


外の靄に霞む世界や控えめな蝉の声、肌寒い空気を感じながら、私は思う。


終わったような気もするし、終わってない気もする。


私は畳の目を爪の先でひっかきながら、しばらくぼんやりと何も思わず、まわりの空気に身を馴染ませた。


そしてひと心地つくと、畳の上に起き直り、胡坐をかいた。


湿った靄のなか、数匹の蝉が、ミンミンジジジッと、とぎれとぎれに鳴く声がする。いずれ落ち着けばまた猛烈な大合唱が始まるのだろう。


開けた引き戸から、湿ったひんやりとした微風が入ってきて、私の二の腕を冷たくひやした。





終わったのかもしれない。


でも、いつ終わったんだろう?


始めっから、始まってなど、いなかったんじゃないか?


私はずっと、生まれた時から、終わった世界のなかを歩いていたのではないか?




彼らはどこに去ったのだろうか?


今も彼らは、どこかを彷徨っているのだろうか?



水の底に沈んだ世界が、私のまわりでゆらゆらごぽごぽ揺れる。


終わった影たち。




私はあの喫茶室で、世界が水の底に沈むのを見た。


しかしほんとうは、それよりずっと前に、世界は終わっていたのではないのか?


ただあの豪雨は、終わった世界の夢が、消えゆくうえでの単なる過程だったのではないか?


しかし「夢」は終わっていない。


私はまた、今こうして終わった世界の夢のなかに生きている。


夢は終わることはないのかもしれない。


 ならばもしかすると世界も終わっていないのだろうか?


 世界とは、根源。


 彼らはそこに還れただろうか?       






 








私はあの喫茶室に向かった。


時間はちょうど午後一時を過ぎたばかりだ。


会社を休んでしまった。休みの次の日に熱が出たなどと言って欠勤したわけだから会社の連中もいい顔はしていないだろう。


ガラスのドアを押し開けて、緑色のエプロンをした店員にホットのカフェオレを注文し、螺旋階段をくるくる回って三階まで上り、入り口がある側のカウンターのイスに腰を掛けた。


カウンターに左の肘をつき、手のひらで顎を支え、右手の親指と人差し指でカフェオレの入ったカップの取っ手部分をつまみ、それから目を閉じた。


目の前のガラスの向こうを、猛烈な雨が、滝のように、ドドドドと音を立てながら、降り続ける。


私は顎に手をつき、コーヒーカップの取っ手を親指と人差し指で強く挟んで前後に細い楕円を描くように撫でまわしながら、水が遥かな高みに達するのを待つ。


やがて雨はすべてを水で満たし、喫茶室の内部も、そのうっすらとした緑色の水は、満たしている。


私は顎に手をつき、コーヒーカップの取っ手を指の腹で撫で回しながら、呼吸に合わせてぶくぶくと泡を吐く。


フロアのあちこちで、客たちの吐く泡が、ぶくぶくとちいさく上がっているのを感じる。


喫茶室はくるくると回転を始め、そして上も下もなにもなくなる。


そして喫茶室はゆっくりと、目の前の黒い穴に向かって進んでゆく。


私は左手の拳をこめかみに当てて頭を支え、いつのまにか水のなくなった部屋の中で呼吸の音に耳を傾けながら、目を閉じて、喫茶室が黒い穴に向かって進んで行く様を思う。


私は吐いて吸われる呼吸を感じ、こめかみに当てられた拳の固さを感じ、少しの胃の重さを感じ、太ももの軽い筋肉の強張りを感じる。




ひとつだけ確かに言えることは、




私はここにいる。




それだけだ。








目を開けた。


そしてカフェオレを喉の奥に流し込んだ。


熱い流れが喉を通り、胃のなかに流れ込む。


私はまた目を閉じて、その喉を通り胃のなかにある(ぬく)みにしばらく耳を澄ました。


それからガラスの向こうを見やった。


外には、人や車が行き交っていた。


電光掲示板には三十二度と表示されていた。


空には雲が斑にかかっていた。


地下街の入口を人が出たり入ったりするのが見え、その傍の川の(おもて)が太陽の光を反射して白く光っていた。


私はもう一度カフェオレを喉の奥に流し込み、カウンターに両肘をついて顔を覆って目を閉じ、体の中心にあるその温みにじっと耳を澄ました。


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