第三章
右手のカウンターで、緑色のエプロンをした若い男女が接客をしている。
五十平米程の広さのフロアの中央部分には、上の階へと続く螺旋階段がある。
そして正面のガラス張りの向こうには、幅の広い黒い河が、大きく、ゆったりと流れている。
私はレジの前に並んだ。
そして私の番がくると、ホットのカフェオレを注文して、それを受け取り、上の階に上がるため、階段に足をかけた。
実をいうと私は、カフェオレはアイスの方にしようかとすこしだけ迷ったのだ。しかし世界はこれからどんどん冷えてゆくわけだから、そんな冷えた世界のなかで冷たい飲み物でさらに体を冷やすというのは、いかにもばかげていると思い直したのだった。それでホットを注文したわけだが、それにしてもこのちいさなカップにおさめられた薄茶色の温みは、いったいいかほど私の体をあたためてくれるというのだろうか?
螺旋階段をくるくる昇り、二階を過ぎ、三階へ着くと、そこは一階の三倍ほどもあって、広々としていた。
そしてフロアは全面ガラス張りで、そのガラスに沿うように、ずっと、一人掛け用のカウンター席が、ぐるりと取り囲んでいた。もちろんその内側にはたくさんのテーブル席があった。
そして客はというと、百はゆうにあるだろうそんな座席の、六割ほどを埋めているようだった。
私は私が入った正面入り口の側のカウンターの席に座り、外の景色を眺めた。
さきほどの電光掲示板が目に入った。
しかしそこには、もはやなにも記されてはいなかった。
と、思うと、時おりそのディスプレイの格子状の発光体が、ところどころひとつ灯ったりふたつ灯ったり、斑に灯ったり、ゆらゆらと点滅したりした。そしてその様子はというと、実にでたらめで、不可解で、無秩序で、混乱していて、無意味な、なんだか不快をもよおすものであった。
空は、あの黒に覆われ、今にも、その準備は整うかと思われた。
私は息を潜めてそれを待った。
私の左隣には、みっつ席をおいて、おそらく大学生であろう若い女が座っている。
女はすこし青みがかった、どこか金属的なものまで感じさせるような、いかにも若い、つるりとした白い肌をしていて、うなじのあたりで切り揃えられた真っ黒な髪も、まるで漆を塗ったもののようなつやつやとした光沢を発している。
女はヘッドフォンをしてまわりの騒めきを遮り、ペンをくるくる回しながら、学校の課題か何かだろうか?切れ長のつぶらな目をノートに向けて、それに集中しているようだった。紅い唇のその表面のつやつやした光沢が、どことなくちいさな、品のいい和菓子を、私に連想させる。
彼女の左側の、向こうの方のデーブル席に、商談中らしき背広姿の三人組がおり、そのなかのひとりのどことなく少々野暮ったい雰囲気の三十過ぎくらいの男が、ときおり彼女にちらちらと視線を向けている。
彼女はそちらにちらっと視線をやり、すぐに戻すと、肘をついた左手の指先を少し開き気味にしてこめかみの横あたりに添え、そのあたりの髪を指でそろそろと撫でる。口元をちょっと歪め、少し固い表情になり、ノートを見つめ、右手の指先のペンの回転速度をくるくると速める。それから左手を下ろして体を少し右側に捻り、ノートとテキストも少し右に移動させて、また課題に集中しようとしたようだが、その彼女の上目遣いの憂鬱そうな目が私の横目と合い、すると彼女はテキストとノートを元の位置に戻し、また左手をこめかみのあたりにやって気だるげに前後に髪をさらさらと撫で、体を少し縮こまらせるようにして、どこか少し憂鬱そうな憮然とした目を、再びテキストにやり、そんな憂鬱そうな疲れたような、なにか理不尽な目に合って気分を害している、とでもいったふうな顔をしたまま、またペンを動かし始めた。
そして彼女の後ろの、ふたり用のテーブル席には、薄い青色の、洒落た感じのシャツを着た男が、一人がけのソファーの席から横目に窓の外を睨んでいる。
年の頃はおそらく三十手前ぐらい。少し面長だが、端正な顔立ち。短く、清潔に刈り揃えられた髪。顔つきも、体つきも、ひきしまっていて、とても機敏そうな印象を受ける。どこか彼の死角からボールかなんかの飛来物が飛んできても、彼はさっとそれをよけて、それが飛んできた方向に驚いた、鋭い攻撃的な視線を向けるのだろう。そして体の方は臨戦態勢に入っている。
確信と、力に満ちた、目の色。なんだかずいぶん、悪そうだ。物怖じというものをしなさそうだ。迷いがなさそうだ。そしてハハハッと快活に、笑うのだろう。少しニヒル。彼はおそらく、かなりわがままに、自分勝手に、快楽を追求する人なのだろう。
そして彼は頭の後ろに両手を組んで、見るともなく、窓の外を、横目に睨んでいる。
それから私の右隣。
ふたつおいて隣には、ごく無難な、清楚と言えばまあ清楚な身なりをした、おそらく四十手前ぐらいの、少し内気な感じのする女が座り、手にした漫画本に視線を落としている。肌は浅黒く目が大きい。すこしくせのある豊かな黒い髪は肩甲骨のあたりまで伸び、黒目の大きいぱっちりとした実直そうな目を、一心にページの上に注いでいる。物語のなかにはいりこんでいるのだろうか。ちらっと見えた絵の感じからすると、竹宮惠子とかあのあたりの時代物の少女漫画なのだろう。
私はぐるりと顔を後ろに向けた。
距離にして十メートルほども離れた、私の後ろの向こう側のカウンター、その傍の長いソファーの席には、年老いて縮んでしまったような干からびた男の後ろ姿があり、彼はだらしない姿勢でひとり力なくそれにもたれかかりながら、窓の外の黒い流れに、ぼんやりと濁った目を向けている。
顎から頬にかけて白い無精ひげがまばらに生え、顔色はくすんだ不健康そうな茶色をしている。
男の肉の削げ落ちた手足や胸の肉とは裏腹に、そこだけしつこく居座っている内臓脂肪によって出っ張った腹が、呼吸に合わせて膨らんだり縮んだりするのが、ソファーの背によって隠された向こうに想像された。
テーブルの上には三分の一ほどになったアイスコーヒーと、おそらくあれは競馬新聞。
頭の上にぽかんと浮いた、ヤクルトスワローズのキャップ。
その他にも様々な客たちがいた。
にこやかにうれしげに会話している、初々しい大学生風の若いカップル。
ぽつん、とひとりコーヒーを口にしている、おそらく七十過ぎくらいの白髪頭の老人。彼は口にしたカップを皿に戻すと、折り曲げた右手の肘に左手をあてがい、何かを堪えているように眉間に皺を寄せ、目を閉じている。
向こうには賑やかにおしゃべりしている五十から六十代ぐらいの元気な四人組のおばさんたち。
その時、
フロア全体が突然青白い光に染まった。
その一瞬、すべてはその動きを止めた。
すべてのものは静止して固まり、そのまま諸共に、ばらばらと崩れ落ちてゆくかと思われた。
しかしそれは一瞬のことで、気付くとフロアはさきほどまでの色を取り戻していた。
我に返った私はフロアのなかをきょろきょろと見回し、それから窓の外に目をやった。
空を黒が一面に覆っている。
そして私は、準備がすでに整ったこと知った。
終わりが始まる。
私は膨らんで縮む自分の呼吸を感じながら、ただ前方のビルのあたりに見るともなしに目をやった。
ゴロゴロゴロゴロと、
低くくぐもったような地味な音が、
大地の底の方を縦にゆっくりと貫いてゆくような音が響き、
それは世界を揺らしながら響き続け、地中深くを走り続け、
やがて世界の底を真っ二つに切り裂き、
そしてすべてを震わすその轟は、
徐々にある一点に収束してゆき、
そしてそれはその一点に吸い込まれるように、消えていった。
空を覆い尽くす雲を見上げた。
それは無限の水を含んでいる。
この世界をその底に沈める水を。
私はそう理解した。
目の前のガラスの表面に、ぽつりと水が一滴、当たって、それは数秒、丸い形をとどめていたが、やがてつるつると、ガラスの上に、長い線を引いていった。
引き続き第二第三と、雨粒はガラスに当たり、線を引く。
そして、あっという間にそれは数えることなど不可能なほどのものになり、私はガラスの向こうの空間に目を投じた。
雨は霧雨のように細かに降り、目の前のオフィスビルの立ち並ぶ風景を灰色に煙らせている。
そして見る間にそれは勢いを増す。たちまち豪雨となり、稲妻がギラリと光り、雷がゴロゴロと唸り、ガラス越しの世界は、叩きつける雨で、歪んでいった。
私は寒気を感じて思わず両手を体に巻き付けた。
そして持ってきた長袖のシャツを羽織った。
気温は下がり続けている。
どこまで下がるのだろう?
やがて地表の熱を奪い尽くし、私は寒さに震えることになるだろう。
その寒さのまえで、どんな防寒着も役には立たないのだ。
その寒さは、私の内側からやって来る。
雨は降り続けている。
ドドドドと音をたてながら、世界を水で満たそうとしている。
ふと、部屋がずいぶんと薄暗くなっていることに気づいた。
停電なのだろうか?明かりは消えていて、その薄暗いなかに、人々がそれぞれの席に静かに位置している。
私は左隣の女に目を向けた。
彼女はノートから顔を上げて、ガラスの外に目を向けていた。
外からは何の明かりなのか、ぼんやりとした青白い明かりが部屋のなかに射していて、その明かりが彼女をうっすらと照らし、その陶器のように張り切っていた肌は、薄明かりのなかに、ぼんやりと白く溶け込んだようになっている。
そして彼女は、まるで明いたばかりの赤子のような目で、外を見ている。そのどこかはっきりしない微睡んだような目は、世界をその底に沈めようとしている滝のような雨の降る、オフィス街の風景に、そのありのままに、奪われている。
目を横に滑らせると、あのサラリーマンが、さきほどと同じような姿勢で、同じように頭の後ろに手を組んで、同じように窓の外を睨んでいた。
しかし、窓から差し込む明かりが、青白く彼の全身もまた染め上げているからなのか、その様子は、目つきは、先程とはずいぶんと違ったものに見えた。
無力。
死に瀕して言葉を失い、語りかけにはもはや応じず、ただ目だけはちゃんと開いて、病院のベッドの上でひたすら壁や天井を見つめている病人のような、そんな力のない頼りなげな、遠い目で、彼はガラスの外を睨んでいるのだった。
そして右隣の女。
彼女は閉じた本の上に、体のサイズに比して少し大き目の、いかにも律義そうなその両手を置いて、同じようにどこか虚ろな目を、ガラスの外に向けていた。
その全身の佇まいには、「覚悟はできています」と、静かに何かに対して宣言しているような、そんな様子が見て取れた。
その他の人々も、みな一様にそれぞれの席から窓の外を見ていた。
あの賑やかだったおばさんたちも、静かになって、うすい、青白い光に照らされながら、窓の外に目を向けている。
雨は降り続けている。
滝のように。
ドドドドと音を立てながら。
そして雨は世界をどんどんと冷やし、
地表から熱を奪い、
私は、体に両腕を巻き付け、寒さに震える。
空がピカッと光り、稲妻が走り、ドォンという音を立てて地表に激突する。
私は体に両腕を巻き付け、目を閉じ、内から湧き上がる震えに耳を澄ます。
やがて、世界はすべて青い氷のもとに閉ざされるのかもしれない。
私は身を乗り出してガラスに額をくっつけ、地表を見下ろした。
水位はずいぶんと上昇してきているように見えた。
私はまたイスに座りなおし、カウンターテーブルに両肘をついて、顔を手のひらで覆い、しばらく自分の呼吸の音だけを聞いた。
どのくらい時間が経ったのだろうか?
すこし微睡んでいたような気もする。
ふと指の間から目の前のガラスに目を向けた。それからまた身を乗り出し、ガラス越しに地表を見下ろした。
すぐ目の下に、水があった。
私はそのまま後ろのイスにドスンと倒れ込んだ。
呼吸のペースが速くなっている。
呼吸の音だけが聞こえる。
私の想像のなかで、水は目の前のガラスを這いあがってゆく。
そして水位は遥か上空、あの空の、あの真っ黒な空の中心に空いたちいさな白い穴のような太陽の、あたりにまで達し、さらに水はその穴に流れ込み、黒い空を諸共に巻き込んでさらに上昇を続け、そして無限の高みに達した水の、蒼い底に、世界は、喫茶室は、凍り付き、永遠に、閉ざされる。
呼吸の音を聞きながら、私は目の前のガラスを見つめた。
ガラスの向こうに、水があった。
水は目の前の立ち並ぶビルを、その壁面を、舐めるように這いあがっていくのだった。
その水の上を激しく雨が叩き続け、稲妻が光り、向こうのどこかに落ちたそれは、爆音と共に、水面を縦横に、まるで蜘蛛の巣を描くように走り、水面全体が一瞬青白いオーロラのような光を私の目の前に浮かべ、そして沈み、消えた。
とうとう水は目の前のガラスの下部で、ちろちろと波打ち始めた。
稲妻が落ち、目の前が鮮やかに青く染まり、沈む。
私はすこし息苦しさを感じながら、目の前を青黒い闇を思わせるような水が、這いあがってゆくのを見つめた。
やがてそれはガラスの真ん中あたりを過ぎ、水面を走るあの青白い光は、私の頭の上の方で輝いた。
水はどんどん昇ってゆく。
私は、外界への希望を思わせる、ガラスの上部の数センチ残った隙間が、徐々に水に塞がれてゆく様を、息を潜めて見つめる。
一センチ。
私はふうふうと息を喘がせる。
そして完全にその隙間は埋められたかと思われたのだが、しかし水の表面の波立ちが、時おり断続的に隙間を生み出し、外界とのつながりがまだ完全には断ち切られていないことをこちらに伝える。
しかしそれもつかの間のことだった。
やがて、そのつながりは、どうやら完全に断ち切られたらしいことを私は知った。
そして、喫茶室は水の底に閉ざされた。
なぜ水のくせに黒いんだ?と私は思う。
遥か上の方で、まだ雨が、水面を叩く音が微かに聞こえてくる。
そしてフロアは、いつのまにか照明が灯り、明るくなっていた。
ふと目を移すと、先程のサラリーマンが座っていた席には、七つか八つほどの子供が座っていた。
キューティクルの輝く、サラサラの髪をして、ソファーの肘掛けに両手をつき、小学校の制服のようなきちんとした紺色の服装で、足をぶらぶらさせながらこちらを生意気そうな目付きで睨んでいる。
目を右横に滑らせると、そこには赤い子供服を着たおかっぱ頭のちいさな四五才ほどの女の子が、こちらも足をぶらぶらさせながら、カウンターの上に両腕を重ねて、ガラスの向こうに目を向けている。
そして私は首をぐるっと右に捩じった。
そこには十か十一ぐらいの少女が、先程そこに座っていた女性と同じような服装で、おさげに編んだ髪を強く握って撫でおろしながら、こちらを斜めに、上目づかいに睨んでいる。
ぐるりとまた後ろを振り返り、先程の干からびた老人のいたあたりを見た。
そこには老人はいなかった。
誰もいない。
しかし私は、そこに、ソファーの背もたれの陰に、白い産着に包まれた生まれたての赤ん坊がいるであろうことがわかった。
彼はその肌の上に薄い透明な膜が張ったような、そして赤い猿のような顏をして、口を大きく開けたり閉じたりしながら、その顔を、体全体を、なにやら不規則に、まわりの空気に身を馴染ませるように、もぞもぞと動かしている。
その他の者たちもみな一様に子供だった。
十二を越える者はひとりもいないようだった。
そして口を開く者はない。みな言葉をなくしてしまったかのように、それぞれの席で、黙り込んでいる。みな、どこか不機嫌そうで、不安げで、手持無沙汰に見える。
先程ひとりでコーヒーを飲んでいた老人の席には、背の高い、しかしおそらくまだ十をすこし越えたぐらいの、白いポロシャツ姿の男の子が、眉間に皺を寄せ、しかめっ面で、目の前のテーブルに視線を落としたり、天井を見上げたり、あたりに視線を彷徨わせたりしている。
そしてあのおばさんたちがいた席には、六つから九つぐらいの女の子四人が座っていて、彼女たちは無表情に、そして落ち着かなげにそわそわと、あたりをきょろきょろ見回したり、足をぶらぶらさせたりしている。そんな彼女たちは互いに視線がぶつかっても、そこで笑みや言葉や驚きなど、相互間において何かが生まれるわけでもなく、まるで互いなど目に入っていないかのように、その視線は互いを通り過ぎてその向こう側に向けられているかのように、何事もなかったように、またきょろきょろしだすのだった。
どうやら大人は私だけのようだった。
私は新世界へは行けないらしい。
それはなんとなく予期していたことだ。
私はこの喫茶室に憧れを抱いた。
ここにはすべてがあると。
しかしこの喫茶室は新世界への乗り物だった。
そしてこの乗り物は、私の憧れた、あの根源へと向かうのだろうか?
それとも、この世界とはまた違う理が支配する、無情な、矛盾に満ちた、新たな彷徨える世界へと、向かうのだろうか?
いずれにしろ私は君らとは行けない。
君らはずいぶんと不安気な様子をしているが、私は君らが心配だ。
君らが根源に還れることを祈っている。
もはや二度と彷徨わずにいられることを。
成ることを。
矛盾のない、肯定と否定の対立を超えた、「肯定」を見出すことを。
君らの「安住」を。
水は無限の高みに達しただろうか?
私は天井を見上げ、喫茶室が、遥かな底に沈んだ様を思った。
ガコンと、喫茶室の底部が地面から外れた音がして、そして喫茶室はぐるぐると回転を始めた。まるで遊園地のアトラクションにみたいに。
あらゆる方向に、私を乗せて、ぐるぐると回転し、そしてそれが収まると、世界は上も下も何も、なくなっていた。
目の前のガラスの真っ黒な向こうから、リュウグウノツカイに似た、平べったくてとても長い、背は赤色、腹は銀色をした魚がゆらゆらとこちらへ泳いできて、そしてそれは私の目の前のガラスの横をしばらく滑ってゆき、やがて我々を導くように、向こう側へ泳ぎ去った。喫茶室はその導きに応じ、上も下もない広大な水のなかを流れ始めた。
しかしすぐに、資格のない私はその場に縛り付けられた。
私の横を、カウンターテーブルが、ガラスの窓が、床が、天井が、そして子供たちが、つるつると向こうの方へ滑っていった。
私は一番後ろのカウンターテーブルのあたりにまで追い詰められ、最後にちらっと、あの少女が、おさげの髪をぎゅっと両手で握りしめて、こちらに不安げな固い視線を送ってよこした。
彼女は先程よりもまたすこし、幼くなっているように見えた。
どうすることもできない私は、ただ彼女が、そして彼らが、彷徨わずにいられることを祈った。
そして喫茶室は私を通り過ぎ、闇のなか、向こうの方へどんどんちいさくなってゆき、そして消え去った。
さようなら。
きみらは真っ白な無垢な頃に戻って、また新たな世界で、新たな理のなか、彷徨うのだろうか。
ぼくは君らを愛していたよ。
今になってそれに気づいた。
だけど結局ぼくらは、永遠に、それぞれの世界を、彷徨う運命なのだろうか?
私は終わった世界のなかを、ひとりぷかぷか浮いていた。
そして私自身もその「終わり」に飲み込まれるのを待った。
やがて私は私自身がその「終わり」の一部のような感じがしてきて、そしてやがて私は、終わった。