第二章
つい先程のことだ。
とにかく今日はものすごく暑い日だ。
私は築五十八年になる六畳のぼろアパートの自室で、畳の上に寝ころび、アパートの裏の茂みの木にへばりついた蝉たちの送ってくる唸り声を、聞くともなく聞いていた。
まだ正午前であったが、テレビの載る台の隣に置いた温度計の針は三十八度の気温を示し、湿度の方も、私がその計測器のすぐそばで腕立て伏せなどの運動をして、そのあたりの空気中の水分量に若干の上乗せを試みるだけで、いよいよそれは百パーセントの大台に達するのではないかという、まさにそんな寸前のところに針は位置していた。
まったくそんな、おそろしく蒸し暑い日なのだ。今日は。
そして私は、首を左右に振りながらぬるい空気をかき回している扇風機に目をやった。
扇風機は部屋の隅にあったので、私のいたあたりまで送られてくる風は微かなものだった。
実は最初私は部屋の真ん中あたりに寝そべっていて、そこだと扇風機の風は十分に届いていたのだが、網戸だけ閉めガラス戸を開け放った窓から入ってくる外からの日の光が、時間が経つにつれ徐々に私の寝そべるあたりに迫って来て、とうとうそれが私の顔の右半分を焼くようになったころ、私は部屋の、扇風機を置いてあるのとは逆の隅に移動したのだった。
私はその時扇風機を持って行かなかったわけなのだが、もちろん、私がそうしなかったのにはちゃんとしたわけがあった。なにも、私がそれをするのも億劫なほどものぐさな気分であったからだとか(まあずいぶんものぐさといえばものぐさな気分ではあったのだが)、そういう理由からではなかった。まあ言ってしまえばそうしなかったのには実はいたってシンプルかつ合理的な事情があったのだ。そしてそれはつまりこういうことだったのだ。そう、その事情とは、私が部屋の隅に移動をしたその時間帯においてはだ、そう、その扇風機の風はもう、すでに、私を心地よく、快適にさせてくれるような代物では、もはやまったくなくなっていた、という、まさにそういう事情だったのだ。だから私は扇風機を持って行かなかった。無駄だからだ。まったくの。そう、つまり、正直この扇風機のクソバカヤロウはだ、いったいなんのつもりなのか、ただアホみたいにくそ熱い空気をビュインビュインくそ無神経にぐるぐるかき回しやがるだけの、まったくそれだけの、まったくあってもなくても似たり寄ったり、いやむしろそれどころか肌にさわさわと触れてくるアホみたいなこそばったいぬるい風はだ、妙に俺の神経を苛立たせやがる!実にまったくのくそ憐れな、そしてどうにも癇に障りやがる、そんなバカ、アホな、頭のたりないまさにリアルガチのノータリン!木偶の坊! 憐れ!ああまったく憐れ!
くそっ!
私はいらいらしながら、それからまたしばらく寝そべり続け、そしてなにげなくふと、ふたたび、扇風機の方に目をやったのだった。
すると私の視線の先で、扇風機はなおも健気に首を振り、羽根を回しているのだった。
私はそんな扇風機を畳にへばりつきながらしばらく見つめた。
私は立ち上がると扇風機の方までゆき、「もういいよ!おい!」とがむしゃらに働いている扇風機に言い放ち、前かがみになって停止ボタンを押した。首の振りが止まり、回っていた羽根もゆっくりと速度を落とし、やがてゆるゆるとそれも止まる。それから私は、またさっきの隅に戻り寝転がった。
今日はいわゆる創立記念日とやらで会社は休みだ。
そして特に予定もなく、とても暇だった。それからなによりも、ものすごく暑かった。
蝉が鳴いていた。
膝から下が、真っ白な光に染まっていた。
灼けつく日差しが肌を刺激し、私はかゆみを感じて左右のつま先で互いのふくらはぎの上の皮膚を搔いた。
大粒の汗が、膝下の皮膚のあちこちから吹き出し、それはだらだらとその上を伝い、ぽとり、と、畳の上に落ちた。
私の寝転がった、低い目線に広がる畳の湿気が、突き刺す日差しによって蒸発せられ、その乾いてゆく匂いが、私の鼻に届いた。
膝から上、つまり私の身体のほとんどはというと、それは部屋の隅に直角三角形の形に追い詰められた陰のなかにあった。しかし猛烈な暑気は、その陰のなかでさえも勢いを弱めず、私の全身から汗を絞り出していっていた。私はそのように、概ね八割の面積が白い熱射に支配された六畳間で、およそ避難所とも呼べぬような直角三角形の形に焼け残ったひそやかな暗がりに身を横たえ、汗を吹き出し暑さに喘ぎながら、蝉どもの唸りに耳を傾けていたのだった。
入道雲が天高く突き上げ、
太陽の熱が大地に突き刺さる。
勢いを増す草木の繁茂。
それら最高潮に達した世界の真っ赤なエネルギーが、
蝉どもを包み込み、増長させている。
己がなぜ鳴いているのかもわからぬまま、腹を震わせ、力の限り鳴き続ける。
目を閉じ、想像する。
一匹の鳴き声が、ミ…、と、電池が切れたように唐突に止まる。
あたりの相変わらずの猛烈な大合唱のなかで、彼の周囲には、深い沈黙が降りる。
ぽとり、とそれは幹からはがれ、地面に落ち、その物言わぬ亡骸は、私に、亡くなって数時間後に対面した祖母の、ぽかんと口の開いた亡骸を思い起こさせる。
その完全なる沈黙、静寂の前で、私の頭には生前の祖母の、台所に立ち、ぱたぱたとよく働く姿、そして私が帰るときにはいつも「これ持っていき」となにかお惣菜なりなんなりを持ち出して来て私に押し付ける姿が浮かぶ。
私の前にはぽっかり口の開いた完全なる沈黙。
この沈黙こそが真実なのだと知る。
いずれ私もこの沈黙に沈み込む。
この沈黙こそが、世界なのだ。
そして私は、座布団に座って何かを見たり神妙な顔になってうつむいたりおばさんとしゃべっている父が、母が、あたりの賑わいが、喧騒が、空騒ぎが、すべてが、
さあーっと吹く風の前に、消え去る、泡のような、
ひとときの夢であることを、その時知ったのだった。
私は暑さも忘れて、仰向けになって天井を見つめた。
一場の春夢という言葉が浮かび、口にしようとしたが、頭の中で一場の春夢一場の春夢と繰り返されるだけで、舌と唇は微かに動くだけで、声にはならなかった。
しばらく見るともなくぼんやりと天井に目を向け、それからごろっと体を横にした。
目の前の畳の上に、うちわがあった。
それにぼんやりと目を向けながら、三回ほど呼吸の音を聞き、それからおずおずとそれに手を伸ばし、手に取った。
それを胸元において、また三回ほど呼吸の音を聞いた。
そして、それの面に目をやった。
水彩絵の具で描かれたような色合いの金魚が、白い無地の上を涼し気に泳いでいた。
その金魚のまわりには、筆ですっと押したような感じの、薄い水色の塊が上下に二か所あって、それはおそらく水を表現していたのであろう。裏も見てみた。そちらにも、今度は逆を向いた金魚が、同じように描かれていた。
私はなんとなくそれをひっくり返したりまた元に戻したりして、交互にぼんやりと眺めた。
そうしているうちに金魚たちはうちわを抜け出して、外の世界を泳ぎ始めた。
ひらひらと。
とても涼しげだ。
喫茶室。
喫茶室のなかを。
私はうちわをばしっと床に叩きつけるように置いて、畳の上に正座で座りなおした。
向こうの隅の薄暗がりのなかに、機能を停止した先ほどの扇風機が少し体を斜めにして、ぼんやりと佇んでいるのが目に入った。
私はうつむいて目を閉じ、金魚たちの泳いでいた先程の喫茶室を思い浮べた。
あれは、
あの、喫茶室だ。
入ったことはないが、
間違いない。
なんてことのない喫茶室に見える。
だけど外からその喫茶室に差し込む光は、特別な光だ。
喫茶室。
あそこは特別な場所だ。
唯一の場所だ。
そこに行けば、すべては、成る。
地下鉄のいつもの出口を出た。
通りは猛烈な熱気に包まれている。
私はそんな通りに踏み出し、あの喫茶室に向かって歩き出した。
しばらく歩き、私はいつも渡る、喫茶室に面した歩道の反対側、車道を挟んだ向こうの歩道に出る横断歩道のところに辿り着いた。
そして、しばらくそこに佇んだ。
いつもならもちろん、その横断歩道を渡って向こうの歩道に出た。
いつもなら、川がその地形に沿って流れるように、私は車道の向こう側に、流れていっていた。
しかし今、私が向かう先はこの横断歩道の向こう側ではなかった。私の目的は、あの○○銀行○○支店の前で首をひねり、車道を挟んだ向こうの喫茶室を見ることではなかった。
足を踏み入れることだった。
私は喫茶室に向かって歩いた。
そして喫茶室のあるビルが遠くの方で、私の視界に入ってくるのがわかった。
どんどん近づき、もう喫茶室は目の前に迫っている。
喫茶室は大きな交差点の角にあった。
そして対角線上にある向こうのビルの、屋上の電光掲示板が目に入り、そこに気温が表示されている。
49.7度。
視界は降りおりる熱線で真っ白になっている。
人もビルもその白い光のなかでぼんやり霞んで、そしてその光に、その実在性を半分ほど、いや、あらかたを、奪われているように見える。そして憐れな概形だけが残され、それが、その白いなかを、意味もなく滑っていくのが見える。
蝉の鳴き声が聞こえる。
どこから聞こえるのだろう?
グワァーグワァ―グワァ―グワァ―と。
その蝉の声だけが、確かな実在性を帯びている。
49.7度。
私はもう一度「49.7度」に目をやった。
空の真ん中の白い塊から降りおりる猛烈な熱が、私の頭をぼんやりとさせる。
私は目を閉じて、動かぬ頭の中で思った。
「49.7度」というのはどんな温度だっただろう?
日本の最高気温はそれぐらいだっただろうか?
つまり今、ここは、その最高気温のあたりにあるわけだ。
もしかすると更新するかもしれないな。
そんなふうなことを思いながら、また顔を上げて、あの電光掲示板を見やった。
49.8度。
また上がった。
私はうつむき、しばらくしてまた顔を上げた。
49.9度。
あと0.1度。
またうつむき、顔を上げた。
50度。
……
……
ん?
50度?
えっ?
50度?
……
……
私は、おもわずあたりを見回した。
さきほどと同じ、白い世界。
蝉が鳴いている。
もう一度目をやる。
50度。
ぞくりと、背筋に冷たいものが走る。
違う。
50度は、違う。
日本の気温ではない。
数値は、なおも上がり続ける。
51,52,53……
蝉どもが、苦しみに喘ぐように鳴き声を強める。
まわりの景色は湧き立って、今にもすべて蒸発してしまいそうだ。
白い巨大な太陽の熱はどんどん増してゆき、私の体からは汗がとめどなく流れ続ける。
?
真っ黒な
雲が
……
ドロドロと……
私の頭に「ゲリラ豪雨」という言葉が浮かんだ。
あの黒さは猛烈な雨水を含んだ、豪雨を降らせる雨雲にちがいない。見ると、70度を超えていた気温は、53度にまで落ち着いていた。蒸発したはずの世界も、薄暗いなか、元の形に収束していた。そしていつのまにか、蝉の声はどこかへ消えていた。
雲は、真っ黒だった。
まるで黒そのもののように黒かった。
53度で止まった電光掲示板のうえに、それは大きく身を横たえていた。
東の空に目を向けると、まだそちらには明るい空があったが、黒はその空もどんどんと塗り潰していく。
どうやら終わるらしい。
あの黒雲から猛烈な雨が降り注ぎ、世界は水の中に沈むのだ。
私はもう一度東の空に目をやった。
ずっと向こうの端の方にほんのすこし残っていた明るい空も、とうとう塗り潰された。
私はあたりを見渡した。
53度のうえに、黒そのものがあった。
私はそれを見上げた。
吸い込まれそうな、黒。
夜空よりも暗い、黒。
それを見つめていると、まるで私自身も黒になってしまったような、私のなかにその黒が入り込み、食い尽くされ、すべてが黒になり、黒こそが世界になってしまったような、そんな感慨にふと襲われそうになり、軽いパニックを覚えて、私は反射的に目を閉じてそれから顔を背けた。
頭上を、世界を、それは遍く覆い尽くしている。
薄闇のなかの、ビルや人や車や、それらこの世の住人たちに目をやった。
頼りない。
あの黒の黒さに比べて、なんと彼らの色は薄いのか。
まるで吹けば飛ぶようではないか。
青白い暗さのなかで、なんときみらは頼りないのだ。
きみらは滅ぶのだな。
猛烈な雨の底に沈み、骨のように白っぽくなったきみらは、まるで何かちょっとしたきっかけで、寒天のように固まっていた白墨が溶けるように、その水のなかに消え去るのだな。あとには、ほのかな、具体的な形を持たぬ、漠然とした、夢の感慨だけを残して。
喫茶室。
それだけが、水の底を漂い、その向こうの、新世界へと私を運ぶ、箱舟だ。
神は人間どもに愛想を尽かしたのだろうか?
いや、ただ単に世界は終わるのだ。
そう思った刹那、私は目前に広大な世界を感じた。
ひゅーっという、乾いた風の音を感じた。
あまりに広すぎる。
私の内側はからっぽになり、意味不明な世界。
神?
そんなものはこの私と同様、ちっぽけなゴミに過ぎない。
思わず膝が折れそうになり、いや、実際に私は膝を折って、地面の灰色のコンクリートの道を見た。
それから顔を上げて、すぐ十数メートルほど先の喫茶室を見やった。
私は立ち上がって、ふらふらとそれを目指して歩いた。
入口のガラス戸の前に立ち、それを押し開けた。