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力いっぱいに引いた洗面所の扉。むっと濃くなる血の匂い。洗面台に凭れ掛かって何とか立っている状態の宏人が、丁度その口から血を吐き出した。
「ぅ、げ、ぇぇ……ぐ、はぁっ……なに、しにきた……」
口の端から赤い液体を垂らし、こちらを見もせずに吐き捨てる。その光景を、どう処理すれば良いのか、トオルは分からなかった。
ツンと鼻を刺す匂いは、間違えようもない血の匂い。それは目の前の、その光景から、宏人から、匂って来ていて。
それはどう見ても吸血している様子ではなかった。好んで飲んでいる様子ではなかった。初めて宏人と会った時のような、あの姿では、ない。
ガツンと頭を殴られたかのような衝撃がトオルを襲う。思い出すのは、度々血の匂いを漂わせて現れた宏人で。
あの時も、あの時も、あの時も?
宏人は、吸血をしていたのではなかったのだろうか?
では、
ではいったい、何故血の匂いを漂わせていた?
その答えが、これ、なのだろうか?
「どう、したんです、か? なん、なんで、ち、血が? え、だって、宏人さんは吸血人間で、血は、飲むもので、だって、なんで、なんで?」
「はっ、落ち着けバカ! くそ、だから隠してたってのに」
ずるりと洗面台に凭れたまま床に腰を下ろした宏人は、口元を袖で拭ってからようやく入口で立ち尽くすトオルに目を向けた。
その瞳は暗く、何かを諦めてしまったかのような、何かに呆れているかのような。
どこか遠くを見ているかのようで、どこも見ていない。
その目は確かにトオルに向いているのに、その瞳のどこにもトオルは居なかった。
「……ディロの奴から、どこまで聞いた?」
「えっと、政府が吸血人間で実験していたとか、異端性吸血人間がどうやってできたのかとか。あと、ディザストロさんが政府に捕まって実験させられていたとか」
「……自分で言えってことかよ。あの災厄」
苛立ちをそのまま表すように舌打ちをし、宏人は一度深く溜息を吐いた。
そうして立ち上がると出しっ放しだった水を止め、入り口を塞ぐトオルを押し退ける。無言のままリビングに指を向けた。
戸惑いつつも電気を消し、その背中を追う。暗闇に沈んだ鉄錆びの匂いが、そんな二人を静かに見送った。
「もう隠す意味も無いから言うが、俺はもう長くない」
「……へ、え? 長くないって、なにが? なんのこと、ですか?」
「分かるだろ? ……寿命だよ。良くてあと二ヶ月ってところらしいぜ」
「寿命? 二ヶ月って、そんな! 何でですか? やっぱり、血を飲んでいるから?」
そもそも人間の体は血液を摂取するようにできていない。血液から栄養を取り入れることは不可能なのだ。
それなのに吸血人間は血を飲まないと生きていけない。そういう風に、無理矢理体を作り変えている。
それが一体、どれだけの負担を体に強いているのか。
「半吸血人間は、言わば表面だけだ。血液を摂らなきゃ生きていけないと体に上書きされただけの状態。かなりの苦痛が伴うし下手すりゃ飢えて死ぬが、元に戻ろうと思えば戻れるんだ」
「……かなりの苦痛、それに死ぬかもしれない、ですか?」
「そりゃな。一度作り変えたモノをまた戻すんだ。リスクがあって当然だろ」
ことりと音を立て、カップが置かれる。中には湯気立つ黒い液体が、机に置いた衝撃で波紋を広がらせていた。
ふわりと湧き上がるのはコーヒーの香り。独特のその香りが、血の残り香を掻き消していく。
「だが俺は違う。生まれる前からその遺伝子を取り込まされて、全く別の種族とされた。ならば当然、人間とは違う。感覚も、思考も、体の組織も。そして寿命も」
「でも、残り二ヶ月なんて! だってさっきまで宏人さんは、ずっと元気だったのに!」
「そりゃ病気や怪我じゃねぇんだ。発作以外は通常と変わんねぇよ。そんなんじゃねぇんだ。俺が長く生きられないのは生まれた時から決まっていて、変えることはできない」
ふっと自嘲する宏人に、何と声をかけるべきなのだろう。
彼は完全に諦めている。生きることを、寿命を延ばすことを。
そんな彼に、何も知らないトオルが何を言える?
生きて、も。生きよう、も。なんて無責任な言葉。トオルには宏人を生かすことはできない。
きっと宏人も今まで何とかしようと色々調べてきた。その上での諦観なのに、医者でも学者でも何でもないトオルの無責任な言葉では、宏人を余計に傷付けるだけだ。
それは決められた運命なのだろうか。それはどうしようもないのだろうか。少なくとも今は、その答えは出ない。
「俺は今まで取り込んだ血液が体に馴染まず、その反発としての短命だと思っている。だとしたら、血液を摂取しなければならない俺らには、どうにも逃れられない」
それは、どうしようもないこと、なのだ。
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