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「ひぃっ」
紅を塗ったかのように赤い男の口端が吊り上がり、にたりと笑う。三日月に歪む瞳は、まるで見つかってしまった獲物を憐れんでいるようだった。
ざりっと、男の靴底が地面を擦る。その音を耳にした瞬間、トオルは走り出した。男に背を向け、ただ恐怖に任せて。
声は最初の引き攣った悲鳴以外出なかった。恐怖に喉の奥が引き攣り、誰かに助けを求めたくとも何も言葉にならない。
しかしいくら意識が先走ろうとも、恐怖に固まった体で上手く走れるはずもなく。
トオルはさして公園から離れることもできずに、後ろから男に腕を掴まれた。
「はっ。犯罪者が現場見られて、みすみす逃がすかよ」
「ひ、ぃ……ご、ごめん、なさ、たす、たすけ、け、や……」
掴まれた腕を乱暴に引かれ、トオルの背中が男にぶつかる。
頭上から聞こえる舌なめずりをするような声に、本能的な恐怖に、体ががくがくと震えた。舌が絡まって言葉が出ず、命乞いすらできない。
力が入らない。掴まれている腕にそこまでの拘束力はないはずなのに、動けない。逃げられない。もがくように腕が、目の前のなにも無い空間を掻いた。
やがて男の頭が下がり、トオルの首筋に生暖かい吐息が吹きかかる。気持ち悪い。ぞわりと鳥肌が立った。
「目撃者必殺」
瞬間、ズキリとした痛みが走る。
そして次に訪れたのは、だんだんと力が抜けていくような、頭が上に持ち上げられているような、不安定な浮遊感だった。
「いっ、あ? あぁ、ぁ……?」
ぞくぞくとした痺れと痛みが背中を駆け巡る。
見開いた瞳。その目尻から、ボロボロと生理的な涙が零れ落ちた。
足から、腕から、体から、全身から力が抜けていく。思考がふわふわと浮ついて纏まらない。
「ぁ……ぁ……?」
もしかしたらこのまま、俺もあの女と同じように死ぬのかもしれない。
女のような虚ろな瞳で、女のように口端から唾液を滴らせて。そんな風に、俺の人生はここで終わるのかもしれない。
耳のすぐ近くで、ごくりと液体を嚥下する音が聞こえる。貧血のような血の気が引く気持ち悪さと、しかし同時に襲うのは。
不思議なほどの、高揚感だった。
「………ぅげ」
白く染まる頭の中で、トオルが無意識に死を受け入れたその時。嫌そうな声と同時に突如腕の拘束が外れて体が傾く。
崩れ落ちた膝がアスファルトに叩き付けられ、次いで上体が落ちる。頬を決して柔らかいとは言えない地面に打ち付け、俯せに倒れた。
未だ頭はぼんやりしているし、体に力も入らない。
けれどそれでも、確かに自分は生きている。呼吸をしている。目が見えて、耳が聞こえている。
解放されたのだと、遅れてトオルは気付いた。
「うえ。さっき食事したばっかりなのにまた食えるかよ。あー、腹苦しい」
気だるげな声が、どこか意識の遠くから聞こえる。
俯せのまま動けないトオルは格好の的だろう。殺すのだって、きっと一瞬だ。抵抗する力も無い今なら、鼻と口をそっと塞ぐだけで終わる。
それでも何を思ったのか、男は小さく溜息を零すとトオルに背を向けた。ぼんやりとした意識のトオルなど、もう既に見えていないかのように。
足音が、少しずつ遠ざかる。男の姿がどんどん小さくなる。
そしてそれと比例するように、トオルの意識も遠ざかっていった。
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