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一体自分はどうしたというのだろう。トオルは震えそうになる指を、ペンを強く握ることで誤魔化す。
顔が上げられなかった。口の中に唾液が溜まっていて、ひどく気持ち悪い。
例えるなら、そう、吸い寄せられたのだ。まるでそうすることが当然のように、視線が傷口に、赤に、惹き寄せられた。
わずかな出血量にもかかわらず、トオルの所まで届いた血の匂いがとても甘美で。欲しい、と、無意識に目が向いていた。
保健医に呼ばれてそろりと顔を向ける。トオルが混乱している間に帰ったのか、女生徒はすでに居なかった。
残されたのは湿布を出そうと棚を漁る保健医と、膿盆に置かれた血の付いたティッシュと綿。
それを再度目に映した瞬間、トオルは堪らず廊下へ駆けだした。
保健医の驚く声が聞こえた気がするが、気にしていられる余裕なんてない。噛み締めた口内で唾液がぐちゃりと不快な音を立てた。
授業中にもかかわらず全力で走って、走って、同じ階の一番遠くにある男子トイレに駆け込む。走るたびに腰が痛むのも気にならなかった。
休み時間はある程度の人が居るそこは当然無人で、トオルは駆け込んだ勢いもそのままに個室に入り……思い切り吐いた。
唾液と共に胃液や、どろどろに溶けつつも何かしらの固形の形を残したものが口の中から溢れ出す。
恐らくそれは朝に食べた物で。口に入れる前とは全く違う形のそれを認めた瞬間に、また胃から競り上がる衝動に耐えきれず吐き出した。
つんと刺激臭が鼻を刺す。
「はっ。ひ、ぃあ、あ……」
自分の吐いたものなんて当然見たくはない。荒い呼吸の合間、力の入らない腕を持ち上げて何とか水洗レバーを動かす。
便座の中で吐瀉物が流れる間にも吐き気は何度か襲ったが、しゃくりあげるような悲鳴と唾液が漏れるだけでそれ以上は出なかった。
汚いと思いつつも、冷たい床に腰を下ろして壁に凭れ掛かる。ぽたりと床に投げ出された手の上に水が垂れて、トオルは自分が涙を流していたと気付いた。
これは、何の涙だろうか。
口の中が苦かった。マラソンをした後のように心臓が早鐘を打っていて、それに比例するように呼吸が荒い。
視界がぼやけて滲んでいく中で、今自分が何を見ているのか、トオルには分からなかった。
この涙は、吐いてしまったことによる生理的な涙なのか。それとも、別の感情によるものなのか。だとしたらそれは何なのか。苦しい。胸が苦しい。それは吐いたから?
自分は先程、何を思ったのだろう。
トオルは保健室で、女生徒の傷口を見た時。そして血に塗れたティッシュを見た時。何を考えただろう。どうして口内に唾液が溢れた?
霞がかった答えが形になろうとした瞬間、また競り上がって来た衝撃に嘔吐く。気持ち悪い。気落ち悪い。
それでもあの時に浮かんだ感情を、口内に溢れた唾液の意味を、分からないはずがなかった。
「はぁ、はっ、ぐ、うう、うう」
ボロボロと頬を伝う涙が競うように床へ落ちた。喉の下、鎖骨の間の辺りがぐっと詰まったように苦しくて、噛み締めた歯の隙間から呻き声が漏れる。
喉の奥が詰まったように息が上手くできない。頭が鉛のように重くて、凭れた壁からずるずると滑り落ちていく。目の奥が熱くて、じんと痺れた。
だって、信じたくないではないか。思い出したくもない。
自分があの時、何を思ったかなんて。何を望んでしまったのかなんて。
バタバタとこちらへ走って来る足音が聞こえる。トオルはもう何も見たくなくて、涙の溢れる目を静かに閉ざした。
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