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繋がる声  作者: 有未
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第三章【踏み込めない心】

 十月最後の日が訪れた。キンモクセイの香りともそろそろお別れなのだろうか。そんなことを考えながら私は仕事帰りの道を歩いていた。流れて行く日々の中で、私はいつしか深見さんとの会話を心待ちにしている自分に気が付いた。特に家に用事があるわけでもないのに、仕事が終わると私はほとんど何処にも寄らずに帰るようになった。彼と話した後でお風呂に入るようになった。夜は彼から連絡があることはないので、私はその時間に家事をしたり趣味をしたりするようになった。緩やかに廻る日々は深見さんからの電話を軸にしているかのようだった。


 夕刻の冷え込みが目立つようになった。もうすぐ吐く息も白くなり、冬が来るのだろう。私は、こうして巡る季節の中に身を置いていても何処か置き去りにされているかのような気持ちに良くなった。空虚だった。仕事をしてお金を得れば生活はして行ける。趣味の読書も紅茶も楽しむことが出来る。だが、私の現実はそこ留まりだった。寂しさだけが目立った。しかし、どうやって人を求めたら良いのか、もう私には分からなかった。このまま流れ押されるようにして生きて行くのだろうか。暗くなって行く秋の夕方の空を見上げて私は思った。それは思っても仕方のないことかもしれない。


 家に帰り、水を飲んだ。着替えてソファに座り、いつものようにスマートフォンを見た。すると、見計らったかのようにして深見さんから電話が来た。灯る光の向こう側にいるのであろう彼のことを考えると、何となく嬉しくなった自分がいた。


「もしもし」


「やあ」


「やあ」


「どう、げんきー?」


 彼は飄々としているという表現がしっくり来る気がした。いつ話しても、何にも捉われない風船のような印象を私に与えた。それは少し羨ましい気がした。


「まあまあ、げんき」


「そっか。今日で十月も終わりですね」


「ね。キンモクセイも終わりかなあ」


「キンモクセイ?」


「うん、花の名前」


「あー、あれか。オレンジ色の小さい花」


「そう、それ。良い匂いするよ」


「そうね。この季節の花だったのか」


「うん」


「花の名前とか、良く分からんな」


「チューリップとヒマワリが好き」


「それは分かるわ」


 私はソファに沈み込むようにしながら彼と話した。まだ開けたままの水色の遮光カーテンを私は見るとはなしに見ていた。レースのカーテン越しの景色はもう薄い暗闇に染まっていた。


「最近、ごはん食べてる?」


「たまに食べてる」


「ちゃんと食べた方が良いよ」


「食べるの忘れてる時あるわ」


「今日は何を食べたの?」


「メロンパン」


「だけ?」


「いや、それは昼で夜はこれから食べる」


「そっか」


「うん」


 電話の向こうで彼が一つあくびをしたのが聞こえた。


「眠いの?」


「眠い。雨が降ったせいかもしれん」


「確かに雨降ると眠たくなるよね。気圧の問題なのかな」


「そうだろね」


「まだ外?」


「そう」


「気を付けて帰ってね」


「はーい。ああ、そうだ。来月の下旬に会えたら会うって話。希望の日ある?」


 急に話を振られて私は少し動揺した。その内容のせいもあるだろう。私は身を起こした。


「金曜日と土日なら何処でも平気」


「お、じゃあ金曜日にしよっかな」


 やはり彼はまるで明日の天気でも話すような気軽さで以てそれを話した。私はそれを本当に明日の天気でも聞くような気軽さで以て聞いて良いのかは分からなかった。


「じゃあねえ、来月の第三金曜日はどう?」


「うん、良いよ」


「何処で待ち合わせようかなー。千葉だよね?」


「うん。でも東京でも良いよ」


「そ? 池袋とかにする?」


「うん」


「昼くらいで良い?」


「うん」


「じゃー、十二時に池袋にしよう」


「分かった」


「決まった」


「うん」


 私は現実感のない頭で考えていた。私と深見さんの関係性は何だろう、と。


「オムライスとかグラタン好きって言ってたよね」


「うん、好き」


「それのお店、調べとくわ」


「わー、ありがとう。深見さんは好きなの?」


「うん、割と好きよ」


「良かった」


「うん」


 私と深見さんは友達なのだろうか。そればかりが私の頭の中を廻った。


「今日は早く寝ようかなー。すごく眠い」


 彼が二つ目のあくびをした音が聞こえた。


「昨日、夜遅くまで映画観てたんだよね」


「映画とか観るんだ」


「観るよー。アニメも観ますよ」


「何か意外」


「そう?」


「うん。何て言うか、深見さんってプライベートが謎という感じがね」


「ああ、なるほどね」


「そうそう」


「夜、何してるか分かんないしね?」


「ねー」


「何もしてないよ、夜とか休みの日。暇」


「そっか」


「そういえばこの間、和菓子食べたくなって買いに行った」


「和菓子、好きなの?」


「好き」


「羊羹とか?」


「好きだなー」


 来月に会う時に何か和菓子でも持って行こうかなと私は考え始めた。しかし、とも思う。何となく彼は距離を詰めると逃げて行くような気がしていた。考え過ぎかもしれないが。ひょいと近付くと、ひょいと一歩遠ざかるような気がする。


「あの。パーソナル・スペースって知ってる?」


「知ってるよー。あれでしょ、円でしょ」


「そうそう。広い円の人ほど、人が近付いて来ると敏感だという」


「あれな」


「個人的に深見さんは円が広そうだなと思うんだよね。人が距離を詰めて来るとすぐに気が付いて距離を取りそう」


「あ。分かる?」


 そこで彼は、はははと笑った。


「営業やってるせいかは分からんけど、そういうのは敏感な方だな。営業って相手との心理戦だから、こうかな? って探ってお客様に近付いて行く節あるしね。それで、お客様が興味を持って近付いて来てくれたらお話をするみたいなね。まあ僕はプライベートでも気が付きやすいね」


「へー。やっぱり」


「良い線、行ってますね」


「さんくす」


「さんくす?」


「ありがとうって言い過ぎるらしいから言い換えた」


「なるほど」


 そこまで話した時、彼が家に着いたわと言った。


「じゃあ、またね」


「はーい、またねー」


 私の言葉に軽快に彼は返した。私は電話を切り、元の通りにソファに身を沈める。


「来月の、第三金曜日」


 独り言が洩れた。ぼうっと宙を見ながら当日のことをイメージしようとしてみたが、それは叶わずに終わった。まるで現実味がなかった。羊羹でも持って行こうかな、やめた方が良いかな。そんなことを私は考えていた。


 明日、病院の日だったな。私は眠る前にそう思った。いつもの通りに薬を飲んだのに、もう一時間くらい眠れないままだった。お昼くらいに起きれば良いけど今、何時だろう……薄暗がりの中、手探りでスマートフォンを探して見てみると時刻は午前一時半だった。眠ろうとしている時に眠れないというのは存外、つらい。私は寝返りを打ち、医者に何を話そうかなとぼんやりと思考した。


 しかし何を話そうと、もう無意味のようにも思った。たかだか十五分くらいの診察時間で私の一ヵ月分の日常を話すのは無理があるし、要点だけかいつまんで話すにしても何が医者にとって重要な情報なのかが私には判別が付かない。結果、私の主観で判断して話をするしかないけれども、本当に医者が欲しい情報を私が非意図的に話せていない場合もあるだろう。聞かれたことには正直に答えているものの、この通院して十五分間で医者に日々のことを話して薬を処方して貰う流れに、私はこの頃、辟易していた。


 薬を飲むと大体において眠たくなることも嫌だった。夜に薬を飲むと基本的に三十分くらいで眠気がやって来て、すぐに寝てしまう。一体、私は何をやっているのだろう。冷静に考えて、飲んで眠たくなる薬というものが恐ろしい気もした。それを服薬している私は、もっと恐ろしい気もする。私はこれからも薬を飲んで行くのだろうか。何の為に?


 天井のオレンジ色の小さな明かりを見ながら私は考え続けた。私の病気が治らないと言われたのは、つい最近のことだ。私は治ると思ってずっと通院して来ていたので、私の「治りますか」という問いに対して「病気とうまく付き合って寛解というのを目指して行った方が良いと思う。治るのは難しいだろう」と医者から返って来た時、何だかもうどうでも良いやという投げ遣りな気持ちになったことは記憶に新しい。


 寛解とは、病気の症状が表に出て来なくなるが根底にそれが眠っている状態を言うそうだ。そんな不安定な状況を抱えてこれから私は生活して行くのかと思うと、どうせもう治らないのならば通院も服薬もやめようかなと思った。面倒だし、億劫だ。飲んで眠くなる薬にも、もう飽きた。また今日、病院に行って自分の状態を話して薬を処方して貰う……考えただけで憂鬱になった。


 精神の病気は風邪のようなもので誰でも罹る可能性があると聞いたことがあるが、本当にそうならば何故、私の病気は治らないのだろうか。誰でも罹る可能性がある割に、一生涯無縁の人もいるだろう。何故、私は病気になったのだろうか。一説には家庭環境が関係しているとも言われるが、無関係であるという説もある。ただ、もしも家庭環境に起因するとしても今更の話だ。私はもうそこにはいないのだから、過去にどうだったからと言って分析は出来ても無意味なような気がした。


 父が早くに亡くなり、母親は私にお金を要求して来るようになった。私を育てるまでに掛かったであろうお金を思うと、少しでも返した方が良いのではという思いはあった。


 だが、それは義務感のようなもので感謝から来るものではなかった。一方的に考えを押し通す母親とまともな会話が出来たことはほとんどなく、母親が優しかった記憶は私がすごく小さい頃の話だ。私が学生の頃、小遣いも昼食代もなくという毎日を過ごしていたことを思い出す。別に今更、それをどうこう言うつもりはない。ただ、母親に特別な思いは持てなかった。そんな人の為にどうして私は少ない給料の中からお金を送金しているのだろう。母親に頼まれたから? それは勿論あるだろうが、此処に来てまで私は母親に嫌われることが――或いは攻撃されることが――とても怖いのだろうと思う。お金さえ渡しておけば、母親は私に対して怒ることはないだろう。


 其処まで考えて私は目を閉じた。暗い瞼の裏で不意に浮かんだ考えがあった。お金で私は母親の愛情を買おうとしているのかもしれないと。だが、真実など最早、どうでも良かった。

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