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繋がる声  作者: 有未
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第二章【絡む糸】

 誰しもに環境があり、生活がある。仕事、家庭、学校。それぞれに、それぞれがある。だから私一人、つらいわけではないだろう。だが、自分と他者を比較することに何か意味があるのだろうか。人の幸不幸と自分のそれと、何か関係性はあるのだろうか。私がつらいと感じている。それが全てではないだろうか。


 こうして稼いだお金の一部を母親に送金し、年に一度はお金を持って彼女に会い行く。その途切れない親子という名前の二重螺旋は二重に私を苦しめた。私は実家を出た時点で、もう二度とこの人の顔は見たくない、この人と関わりたくないと思った。だが、引っ越して数ヵ月後に会いたいと彼女からメールが入った。理由を聞くと、一人でちゃんと生活出来ているか気になるというものだった。私は何故、これに引っ掛かってしまったのだろう。空を飛ぶ翅を手に入れた蝶は蜘蛛の巣に捕らわれてしまった。きっと私は期待してしまったのだ。曲りなりにも「母親」という存在に。ああ、私のことを心配してくれているという甘い祈りを見出してしまったのだろう。会いになど、行かなければ良かった。お金が欲しいなら、そうだとメールで言ってくれたら良かったのに。


 私の雇用形態は準社員で、同年代の正社員よりも給料は劣るかもしれない。だが、体調の揺らぎやすい私にとってそれは働きやすい形態であった。最初は、ただお金が入ることが嬉しかった。衣食住に関わる自分の好きな物を買うことが出来た。貯金も出来た。一人暮らしは大変なこともあったが、気楽だった。実家でずっと息の詰まるような思いをして来た私にとって、自分一人の為だけの家、一人だけの生活というものは新鮮で安堵するものだった。大袈裟ではなく、私はようやく呼吸が出来たような心持ちでいた。 


 だが、ある日にふと気が付いた。好きな洋服、好きな家具、好きな紅茶。色々な物を買い揃えても何かが満たされなかった。増えて行く私物の数に比例して私は幸せになれると思っていたが、どうも反比例しているような気がして来ていた。私の買った物に囲まれている生活をしているのに、私一人が家に馴染まず異物のような気がした。映画のセットの中にいるようだと思った。鍵を開けて現れるのは私の家、私の部屋。それなのに私だけが空虚だった。そう気が付いてから私は極力、物を買うことをやめた。


 今日は会社の帰りにスーパーに寄った。トマトが安かった。買った食材を持って自宅に帰る途中、手を繋いだ親子らしき二人組とすれ違った。子供は大体五、六歳くらいだろうか。見上げる目の先には父親であろう人物がいた。私はそれを知らず目で追っていた。


 ――今日が雨ならば良かったのに。雨だったなら傘で隠れて見えなかっただろう。まあ、どうでも良いことか。そう思い、私は荷物を持ち直して家へと向かった。


 買って来たものを冷蔵庫に入れて、私はいつものように洋室のソファに座り込んだ。いつものようにスマートフォンを見ると、深見さんから丁度電話が掛かって来ていた。いつもならばすぐに出る電話だ。だが、私は今回出ることを少し躊躇った。嫌な予感がしたからだ。だが、着信を知らせ続ける画面を無視出来ず――また私自身の彼に対する期待もあり――私は電話に出た。


「もしもし」


「もしもーし」


「こんにちは」


「うん、こんにちは。げんき?」


 元気……その彼の言葉に何故、私は黙り込んでしまったのだろう。


 私がしばらく押し黙っていると、彼が不意に聞いた。


「どした」


「どう、というわけでもなく」


「うん」


「うん……」


 嫌な予感がした。電話を切った方が良い。何か理由を付けて。私はそう思いながら意味もなく髪を解いた。十月の冷気に晒された私の髪は思ったよりも冷えていた。手の中に収まった赤いシュシュを私はやはり意味もなくゆっくりと握り締めた。


 深見さんと話した回数は増えて来ている。だが、私は彼の下の名前も顔も知らない。彼について知っていることは少ない。東京に住んでいて、営業の仕事をしていて。それから――それから?


 私と彼はすれ違っただけの他人だ。私はそんな彼に何を期待しているのだろう。私は、もう大人だ。いつまでも子供ではない。そうではいられない。雨が降れば傘を差せば良いだけの話だ。皆、一生懸命に頑張って生きている。私一人がつらいわけではない。そう、私一人が――。


「今、忙しい?」


「忙しくは、ない」


 黙っている私を見兼ねてか、深見さんがそう尋ねた。私が答えると、そっか、とだけ彼は返した。それに対して私は、うんとだけ返した。そこで私は、ああ彼は風邪っぽかったなあと思い出した。


「風邪、どう?」


「へーき。昨日よりマシ」


「だいじょうぶ?」


「うん、ありがとう」


 ありがとう。その五個の音に私は泣きそうになった。それを気取られないようにして私は言葉を織った。


「最近、急に冷えたもんね。それでかもね」


「ねー、それあると思うわ」


「ちゃんとごはん食べてる?」


「まあまあ」


 私は、なるべく自分の感情を悟られないようにして言った。スマートフォンを持つ手に少しだけ力が入ったような気がする。


「ちょっと聞いてみたいことがあってさ」


「なーに」


「深見さんはさ、たとえばさ。自分がつらいなって時とか、何でこうなったのかなって思う時ある?」


「あるよー」


「そういう時、どうするの?」


「どうする? うーん、自分がつらいなーって時だと、まあつらいなーと思いながら仕事して家に帰ったら忘れちゃうかな」


「忘れちゃうの?」


 私の問い掛けに、うん忘れちゃう、と彼は明るく言った。


「これねー、僕の良い所だと思うんだけどね。まあ営業で色々な人に会ってると、色々あるわけですよ。その中に、いやだなーっていうこともあるわけでね。僕も落ち込んだりするわけですよ。でも引き摺っても仕方ないのでね。仕事終わって家に帰ったらスイッチ切れるので気にならない。忘れる」


「それで翌日は仕事行くの?」


「行くよー」


「思い出して、あーあとかならないの?」


「ならないなあ。もう過ぎたことなんでね。考えても意味ないからね」


「そうか、凄いな」


「そう?」


「うん」


「どうも」


「うん」


 そこまで話した時、「あ、ごめん仕事先から連絡来た」と彼が言った。


「分かった、ありがとう話してくれて」


「いえいえ。では、またね」


「うん、またね」


「はーい」


 切断音がして電話が切れた。瞬間、彼の声は部屋から消え失せ、私一人の家に私一人だけが残った。


 ――今日は雨が降らなかった。雨だったら、良かったのに。


 


 


 その日は深見さんから連絡がなかった。彼と話すのは週に五日で、残りの二日はきっと彼は休日を過ごしているのだろうと思う。私は彼の言葉を思い返す。仕事と休日のオン・オフを分けていると。家に帰ったら夜は一人で過ごしていて、スマートフォンはスリープ・モードにしていると。だからきっと夜に私からメッセージを送っても彼が応じることはない。


 これまで彼と話して来て、私から彼に電話を掛けたのは最初の一度だけだった。後は全て彼からの電話だった。彼は仕事の移動時間中に私と話していると言っていたので、私から電話を掛けることで仕事中の彼の邪魔をしたくなかった。というのは建前で、私は彼に嫌われたくなかったのかもしれない。迷惑を掛けたくなかったのかもしれない。彼にとって都合の良い人間――というのは語弊があるかもしれないが――であれば、私は飽きられない限り彼から連絡を貰えるだろうという考えが私にはあった。お互いの都合の良い時間に都合の良いことだけを話せる関係でいれば、私と深見さんは続いて行けるだろうと。そう、私は思っていたのだ。


 また、これは彼に対してだけ言えることではないが、私は人に嫌われることがとても怖かった。鬱陶しい、迷惑だと思われて人が私から離れて行くことが怖かった。しかし、自分を抑え込んで他人と付き合っても結局は破綻するか、本当の自分ではない自分が好かれるだけで虚しいだけだった。私にとっての彼氏、友人はその範疇に入ってしまうことが多かった。私が幼いのかもしれない。もっと上手な遣り方があるのかもしれない。だが、未だに私はその方法を見付け出せずにいた。


 私はソファに身を沈めながらスマートフォンの画面を見ていた。何のメッセージも着信も来ない端末は、ただただ皓々とした光を放つだけで何も言わなかった。それを不意に寂しいと思ってしまった自分は何か間違っている気がした。


 顔を上げて窓の方を見ると、夕方になりかけの薄暗い雲が張り出しているのが見えた。こんな時に「誰か」が傍にいてくれたら良いのにと思う。仕事も家事も趣味も何もかもにおいて、すぐ隣に感じられる体温があったら良いのにと思う。何故、私はこんな現実しか築けなかったのだろう。もういっそ仕事を辞めて何処か遠くへ行ってしまいたかった。私のことを心配する人など一人もいないだろう。それは私の独りよがりが過ぎるのかもしれないが、本当の意味で私を案じてくれる人など決していない気がした。私は友人を遠ざけている節があるからだ。どれ程に仲良くしても私はふとした瞬間に我に返り、どうして私は此処にいるのだろうとか、この子と一緒にいる意味は何なのだろうとかを考えてしまうことがあった。その自分の中での違和感をきっと私は表に出してしまうのだろう。気が付いたら私の周りには通り一辺の友人しかいなくなっていた。


 私は立ち上がり、私一人分の紅茶を淹れた。温かいそれは私を癒すようでいて、私は一人だということを私に思い知らせているようにも感じた。スマートフォンを充電コードに差して、私は浴槽にお湯を張った。お湯に浸かっている間だけでも何も考えなくても済むように。私は祈った。


 


 


 


 十月の下旬。その日は冷たい雨が細く降っていた。私は傘を持ち、会社へと出勤した。いつものようにいつもの仕事を終えて、いつもの電車に乗る。見慣れたはずの景色が窓越しに流れて行く。その時、私は自分の思考に違和感を覚えた。


 ――見慣れた「はず」の景色。


 少し暗くなった窓の外。夕刻。午後四時半の外の景色。それはもう何度も何度も見て来た景色のはずだった。少しばかり暗くなったからと言って、何だか見たことがないようななどとは私はそれに対して思わない……と思う。何かがおかしい。何か感覚がずれているような気がする。そして、この感覚は以前にも味わったことがあるような気がする。あれは一体、いつ頃のことだったのか……。


 ――ふと時間が止まったかのような錯覚に陥りながら私は電車が停車している駅名を確認した。私が降りる駅のような気がした。多くの人が降車して行く。それにつられるようにして私も電車を降りた。一番近い階段を上り、何となく右に曲がって階段を下りる。すると改札があった。ぼんやりした思考のまま、改札を抜けて目の前に広がる街並を目に映した。薄暗い景色に沈む街。その街は私の知らない街だった。否、厳密には「知らないような気がする街」だ。良く考えて良く見れば、私の住む街だとは思う。だが、確信が持てない。あのコンビニ、ビル、信号。見たことがあるような気がする。しかし、見たことがないようにも思う。どちらが自分の正しい記憶なのか分からなくなり、私は混乱していた。


 とりあえず家に帰ろう。そう思い、私は一歩を踏み出した。けれど、はたと立ち止まった。家までの道のりが分からない。それどころか、ふと考えた自分の年齢が分からなかった。混乱だけがどんどん加速して行く。私は手に持っているバッグの中から身分証を探し当て、書かれている住所にタクシーで行ってみようと思った。ただ、このバッグが本当に私の物なのかどうか見当が付かなかったのでこれは賭けでもあった。タクシー乗り場に行き、目的地の住所を運転手に告げる。走り出したタクシーに不安を覚えながらも私は外の景色を見ていた。初めて見る回転灯篭のように景色が移り変わって行く。暗くなって行く空も不安を掻き立てた。


 やがてタクシーがマンションの前に着き、料金を支払って私はタクシーを降りた。見たことのあるような。そんな気持ちで私はそのマンションを見上げ、何となく階段を上った。三階まで上った後、少し廊下を歩いて此処だろうかという勘のようなものを頼りに扉の前で立ち止まった。バッグから鍵を探し、扉に差し込む。かちゃんという音がして鍵は開いた。中に誰かがいたらどうしようという恐れを抱きながら私は中へと進んだ。真っ暗な部屋の全てを見て回り、誰もいないことを確認した後、私は持っていたバッグを床に置いた。そのまま私はそこに座り込んでしまった。私は此処にいてもいいのだろうか、此処は私の家だろうか。そんな疑問がぐるぐると頭の中を廻っていた。そもそも、このバッグは私の物だろうか。そう思い、バッグの中を確認した。スマートフォンがあったので何とはなしに開いてみると電話が着信しているようだった。画面には「深見さん」という名前が表示されていた。ふかみ、さん。文字を読んでみても私にはそれが誰だか分からなかった。文字であることすら完全に認識しているとは言い難かった。読めるものの、良く分からない文字の羅列に思えた。やがて着信を知らせる画面は消え、不在着信一件という表示がされた。私は何だか疲労を感じていた。立ち上がり、台所の隣の部屋に置いてあるソファに横になって目を閉じた。このまま何処かへ溶けて行きそうな気がした。私は、もう二度と目が覚めなくても構わない。そんな気持ちで眠りに落ちた。


 ――細く糸のような雨が降っている。


 


 


 十月の給料日が来た。私はその日の仕事の帰りに銀行に寄り、五万円を母親に振り込んだ。数年前から続けているこの行為に一体何の意味があるのか、私には分からなかった。ただ、私の母親が私にそうしてくれと言ったから。私は、そうしているだけだ。


 秋の夕刻は既に薄暗い様子を見せており、私はその空気を感じながら家へと帰った。着替えて水を飲んだ時、深見さんから電話が来た。


「もしもーし」


 彼は、いつも明るかった。明るくて、気さくで、優しくて。彼と何十回となく話すようになって私は思う。これは本当の彼の姿なのだろうかと。そんなことを思うのは彼に対して失礼な気がした。それでも私は、その考えを拭えなかった。


「もしもし」


 私は、いつものように洋室のソファに身を沈めて応えた。


「やー、げんき?」


「まあまあ」


「うんうん。ところでさ」


「うん」


「僕さ、来月から有休取るんだけど」


「へー」


「良かったら遊ぶ?」


「え?」


「良かったら会って遊ぶ? と思って」


「え」


「ああ、嫌なら別に良いんだけどさ。そういえば何処に住んでるかも知らないや」


「え、千葉だけど」


「僕は東京」


「うん、知ってる」


「うん」


 そこまで話して私は頭の中を整頓した。深見さんと――会える?


「どうー?」


 いつもの通りの彼の声は、まるで明日の天気でも話すかのように私の中に響いた。それは現実的であるようにも思えたし、そうでないようにも思えた。私は何か言わなくてはと思って頭を働かせた。


「え、でも会うの嫌じゃないの?」


 こんなことを聞きたかったわけではないのに、私の口から出た言葉はこれだった。


「嫌じゃないよー」


「そう、なんだ」


「うん」


 私の心の中は、でも洋服どうしようとか、そもそも会って良いのかどうかとかがくるくると廻った。


「えっと、来月のいつ?」


「そうだねー、下旬の水曜日とか金曜日とか適当に」


 私は緊張を抑えて言った。


 ――会いたい、と。


 それに対する彼の返事はシンプルなものだった。良いよー、の一言だった。そして、じゃあ日付とか時間はちょっと考えておくねと付け加えた。都合良くない時とかあったら後で教えてね、とも。私は、うんと返した。


「好きな食べ物ある?」


 彼が私に聞いた。私は何となくソファに座っていた身を起こして答えた。


「オムライスとかグラタンとか」


「分かった。じゃあまた連絡するわ」


「うん」


「またね」


 そこで今日の私と彼との電話は終わった。


 私は電話の切れたスマートフォンをぼうっとしたまま見ていた。たった今に行われた深見さんとの遣り取りに現実感が湧かなかった。


 ――深見さんと、会う?


 私はスマートフォンをソファに置いて考えた。私にとって深見さんは、電話の向こう側の人だった。最初から最後まで、きっとそうなのだと思っていた。だからこんな風に降って湧くように会う話が出て、動揺しないわけがなかった。だが、とも思う。私は心の底では彼に会ってみたいと思っていたはずだ。だからあの時、私は彼に住んでいる場所を尋ねたのだろう。最初から最後まで彼が電話の向こうの人で良いのであれば、場所なんて関係なかったはずだ。話が出来れば良いのだから。二人の間ではそれが全てなのだから。彼にとって私は、私にとって彼は、都合の良い話し相手でしかないのだから。ずっと私はそう思って来た。これからもそう思って行くはずだった。


 私は立ち上がり、冷蔵庫から牛乳を出してコップに注いだ。冷えた牛乳は喉を通り過ぎ、私の頭に冷静さを促した。コップをシンクに置くと、思ったよりも大きな音が鳴った。それもまた、私を現実へと引き戻した。


 私は何を期待しているのだろう。私は何も期待してはいけない。ちょっと仲良く話せるようになった人と、ちょっと会うだけだ。ただ、それだけの話。


 何となく使ったコップ一つを洗い、丁寧に拭き、私はそれを食器置き場に置いた。食器置き場には二十個近くのガラスコップやマグカップが静かに並んでいる。並べ過ぎなようにも思うが、私はその日の気分で此処からコップを選んで使うことが好きだ。過ぎて行く日々も、これくらい気軽だと良いのにと思う。


 私は今日も湯船にお湯を張った。お湯に浸かっている間だけでも、私は何も考えたくなかった。それでも、私は考えてしまう。日々の全てが煩雑だった。その中でどうしてだろう、深見さんとの電話だけが私の中で小さな明かりのようになっていた。その明かりを頼りにして進んで良いのか、そんな光などないものとして振る舞った方が良いのか、私は迷っていた。そもそも私は今一歩、深見さんに踏み込むことが出来なかった。彼はまるで私にとって偶像で、彼にとって私もまた偶像であるように思えていたからだ。お互いに都合の良い相手に都合の良い話をしているに過ぎず、そこに現実が入り込めば、この淡い関係性は音もなく消えてしまうように思っていた。しかし、私側の考えはそれで良いとしても、深見さんにまでそれを当て嵌めてしまうことは彼にとても失礼なような気もした。私の短い人生の中で出会って来た人達を参考に考えてみても、深見さんは嘘は一つも言っていない――というのは私の強い思い込みなのかもしれないが――ような気がした。彼の経験、彼の思い。それらを私に伝える言葉は偽りではないと思った。だから私も嘘は言わなかった。だけど私という人間の蓋を開けてみると、きっと私は人に好かれにくいのではという棘のような引っ掛かりがあった。なので、私はあまり内面的なことは彼に話すことはしなかった。彼にとって私は都合の良い話し相手、そこそこに明るく話しやすい人間でありたかった。それによって私は何も得るものがなかったとしても。


 私はお風呂から上がり、洗面所の前の鏡を見た。ゆっくりと曇って行く鏡の中に、何処か困った顔に見える私がいた。これは本当の私だろうか。そんなことを考える。このまま彼にとって都合の良い話し相手を「演じて」行けば、少なくとも通話相手としては好ましく思って貰えるかもしれない。しかし、そうすると結局の所、好かれるのは「演じた」私だ。本当の私ではない。


 不意に思った。だが、深見さんは私のそんな虚像など、とうに見抜いているかもしれないと。営業職に就いていると彼は言っていた。それならば私よりもきっと沢山の人と接し、沢山の人の考えに触れて来ただろうと思う。ならば嘘偽りはないとは言え、私の上辺だけの態度などもう分かっているのかもしれない。しかし、もしそうだとしたら何故、彼は私に会ってくれる気になったのだろうか――。


 やがて鏡は蒸気で完全に曇ってしまった。本当の私は一体、何処にいるのだろう。


 

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