第一章【繋がる電話】
――私の探し物を探す旅は、これで終わりを迎えるのだと思った。いつかに読んだ絵本にあったように、足りない何かはようやく見付かってこれで幸せになれるのだと。だが、実際はそんなことはなかった。その人のことを知れば知るほどに私は不安になって行った。彼は浅瀬に立っているようで深い所にいて、私はこの人の海で溺れているのかもしれない。そう思った。彼は言った。僕よりも違う人を選んだ方が君は幸せになれると。それは事実、そうなのかもしれない。私は幸福を追い求めて此処まで来たのだから、それが遥か遠くにあるのかもしれないという高い可能性を感じた時点で引き返すべきなのかもしれない。
しかし、本当にそうだろうかとも思う。私は幸せになりたくて誰かを追い求め、選ぶのだろうか。そもそも幸せとは一体、何なのか。愛だろうか。私自身、誰でも良いから傍にいてほしいと思ったことは何度もある。その「誰でも良い」にこの人が当て嵌まりはしないかと私は自分に自信がなかった。それでも私はこの人の傍にいて、この人の役に立ちたいと思った。彼が喜ぶ全てのことをしたいと思った。それは一種の自己陶酔や自己犠牲であって、純粋な愛情などではなかったのかもしれない。多角的な彼にとって私は単純な存在で、私は彼の一面ですら理解することは叶わないのかもしれない。それでも、と思う。もしも生涯この思いが叶わなくても、彼が許す限り、そして私が望む限り私は彼の傍にいたいと願っている。
それは夏が終わり秋に差し掛かる、十月初旬のことだった。
何をしてもこれではないという思いがあった。仕事も趣味も家事も、何も私を満たさなかった。全ては生活の為か暇潰しであって、本当に必要不可欠なものでは成り得なかった。夢中になれる何かを探しに行かなくてはと思うと同時、案外、人生はこんなものなのかもしれないと私は二十代後半にして達観か投げ遣りか良く分からない――しかし決して前向きではない――気持ちでいた。
その日、私は自室の窓辺で煙草を吸っていた。細く頼りない雨の中を白い煙が葬式のように昇って行った。網戸の網目に光る雨は点いたり消えたりを繰り返し、まるで細胞のネウローシスのようだと思った。煙の流れて行く先を見るともなしに見遣りながら、私は一体何がしたくているのだろうとぼんやりと考えていた。特別に生きる理由が見当たらなかった。だが、もう寄る辺のない子供ではないのだからそんなことを気にしている場合ではないのかもしれないとも思う。いつまでも与えられなかったものを思い、時間の経過に身を任せているだけではきっと何も手に入りはしないだろう。或いは――或いは? 私はそこまで考えて煙草を消した。行き場をなくした煙が掻き消え、後には煙草の香りと何とも言えない苦みが残った。
ふと見ると、暗い室内でスマートフォンが明るい光を放っていた。着信音を消している端末を拾って画面を見ると、見慣れない番号が無機質に並んでいた。
――今でも私は不思議に思う。友人からの電話でさえ億劫がって出ない私が、何故、知らない番号からの電話に出たのか。人間の行動や思考に必ずしも理由や正解があるとは限らないが、私のあの時の行動は正しかったのかどうか、私は未だに不意に思い悩むことがある。
「もしもし」
私が電話に出ると、あ、もしもしーと相手が言った。
「深見と申しますが植野様のケイタイでお間違いないでしょうか?」
何だ、間違い電話か。私はそう思い、
「違いますよ」と言った。
「あ、それは失礼しました。間違えました」
「はーい。失礼します」
私は電話を切って、そのまま端末を床に置いた。思いの他、ごとりという鈍い音が私一人の部屋に響いた。
――まだ、雨は降っている。
駅のホームで電車を待っている間、急に強くなった雨が曇天の空から垂直に降り注いだ。雨が降ると頭痛がしたり、強い眠気を覚えたりする私はうんざりとした心持ちで曇った空を見上げた。やがて目的の電車が細い金属音と共にホームに走り込んで来た。私はそれに乗り、反対のドア付近に身を凭れさせた。後方へと流れ去って行く景色は見慣れたもので、緩やかに私は目的地へと運ばれて行く。その間にスマートフォンに幾つかのメッセージが入った。私はそれを読むだけ読み、そのままバッグへと仕舞った。
一年ぶりに降り立った駅は人気がなく、一年前と同様に寂れていた。改札を通り、踏切を渡る。小さなパン屋を右手に見ながら公園を抜ける。この公園で小さい頃は幼馴染みと良く遊んだものだった。あの子は何処かで元気にしているだろうか。私のことなど、もう忘れてしまっただろうか。私は感傷的になった自分に苦笑し、公園を後にする。
一つ溜め息を吐き出してから、私はその家のインターフォンを鳴らした。ピンポンという軽快な音とは裏腹に、顔を出した人物は以前同様に難しい顔をしていた。
「こんにちは」
私の挨拶など何処吹く風なのか、私のつま先から頭の上までをじろりと無遠慮に彼女は眺めてから家の中へと引っ込んで行く。私はドアを押し開けて靴を脱ぎ、一年ぶりのその家の中へと入った。私は、いつもこの時に思う。獲物を狙う蜘蛛の巣に掛かった蝶のようだと。どうせもがいても逃げられない。もがけばもがくほどに翅は糸に絡み、苦しくなるだけなのだ。それならばいっそ諦めてしまう方が楽だ。さだめだったのだと。これしか正解がないのだと。
彼女は先に椅子に座り、テーブルの上に両手を組んで置いていた。とっくに冷めているお茶が二人分、所在なさげに置かれている。私も椅子に座り、バッグの中から用意しておいた封筒を取り出した。無言のままそれを彼女の方へと差し出す。彼女はそれを受け取り、すぐさま中身を確認し始める。
「十五万円、入ってるよ」
これまで何度か繰り返して来た言葉と全く同じものを私は彼女に向けて告げた。そんな私の声など耳に入っていないのか、彼女は封筒の中身を数えていた。やがて彼女は封筒を閉じ、テーブル上にぱさりと置いた。
「じゃあ、帰るから」
私がそう言って立ち上がると、木製の椅子と床が擦れて不愉快な音を出した。
「他に何かないの?」
私に向けて彼女が言った。
「他にって?」
「手土産とかさ」
「ないよ」
「そう」
これが一年ぶりに会った私と私の母親との会話だった。一年前も同じ会話をしたことを脳裏に思い出す。私はそれを振り払うようにバッグを持ち、母に背を向けて玄関へと向かった。いつも通り、見送りなどなかった。私の後ろで閉まった玄関扉の音は重く、もう二度と聞きたくないものだった。だが、また一年後に聞くことになるのだろう。私は来た時と同じ重さの溜め息を一つ吐き出して、最寄駅へと向かった。
仕事の帰り道、自宅の最寄り駅に着いた所で雨足が強くなり、傘を持っていなかった私は雨宿りをしていた。ふと見ると近くの薬局の店先でビニール傘を売っていた。近付いて値段を見ると八百円とあった。ビニール製にしては高い気がする。そう私は思った。
私は駅の屋根の下へと引き返し、スマートフォンで天気予報を確認した。今日の夜まで雨は降り続く。そういう予報だった。家までは歩いて十分くらいだ。傘を買うか、傘を差さずに歩くか、タクシーに乗るか。私は逡巡し、ワン・メーターで着くであろうタクシーに乗ることを決めた。ビニール製の傘は好きではないし、どうせ買ったところで今日しか使わないであろうことは明白だった。無駄なものは必要ない。
私がタクシーに乗り込み目的地を告げると、静かにタクシーは走り出した。窓には雨粒が幾つも張り付いて光っていた。その光に滲んで前方の信号機が霞んで見える。全ての物事の輪郭がこのようにぼやけていて、確かなものとして誰の目にも分からないものであれば傷付くことなどないのかもしれない。そんなことを不意に思った。私は、疲れているのかもしれないと思考を振り払う。
自宅のマンションの階段を上り、鍵を開けてドアを開ける。暗い室内はいつもと変わることなく私を迎えた。鍵を閉めてバッグを放り出し、台所の電気を点ける。いつものように食事の用意をしてお風呂に入って髪を乾かして化粧水を付けて――そこまで考えて私の頭の中で何かがぷつりと音を立てて切れた。
私は着替えもせずにソファに座り込み、ポケットからスマートフォンを取り出した。まだ電気を点けていない洋室の中、端末の画面が皓々と光った。着信履歴を見て、数日前の見知らぬ番号を出す。そのまま私の指は発信を押していた。
三回の呼び出し音の後、相手が電話に出た。はい、深見です。彼はそう言った。私が黙っていると、もしもしと相手が尋ねた。私は一つ息を吸い込み、もしもしと返した。
「どちら様ですか?」
その質問に何と答えるべきか少し考え、
「以前に間違い電話に応じた者です」
と、私は答えた。
すると相手は得心が行ったように、ああ、と言った。
「その節は失礼しました」
「いえ」
そこで言葉が途切れた。雨が更に強くなったのか、窓と屋根から激しい雨音が聞こえる。
「えーと、それで何か御用ですか?」
相手の言葉に私は戸惑いを覚えてしまう。だが、本当に戸惑っているのは深見という彼の方だろう。私は一体、何をしているのだろうか。何をしようとしているのだろう。
「――あの、もし良かったらなんですけど」
「はい」
「暇な時の話し相手になって貰えませんか?」
「ああ、良いですよ」
あっさりと彼は言い、そして続けた。
「僕も割と暇なんですよね。今って家ですか?」
「あ、はい」
「僕はまだなんですけど、それまで話します?」
「あ……はい」
「都合悪かったら今度でも良いですよ」
「いや、そうじゃなくて」
「はい」
私は面食らいながら言った。
「何処の誰とも知らない人の話し相手になるの、嫌じゃないんですか?」
「何処の誰とも知らない人だからこそ、楽しく話せるっていうこともあると思いますよ?」
「そう……ですね」
「そうそう」
強い雨音が響く。私はソファに身を沈めながらスマートフォンを持ち直した。
「そちらって雨ですか?」
「雨ですねえ」
私のささやかな言葉に彼は返した。
「あの、本当に迷惑じゃないですか?」
「ああ、平気ですよ」
「そうですか」
「そうそう」
思えば、会社の人間と身内以外でこうして話したのはいつぶりだろう。私はぼんやりとそう思った。
「最近の嬉しかったことって聞いても良いですか?」
私の質問に彼は少し考えて言った。
「会社でおせんべい貰ったことかなあ」と。
「おせんべい」
「そうそう、あられみたいなの。お昼に貰ったんですよー」
「お昼ご飯、食べないんですか?」
「食べる時もあるけど、食べると眠たくなるのが嫌でね。食べない時もある。移動時間に掛かってると食べるタイミングなかったりね」
「お仕事の移動時間?」
「そうそう。営業だからね、色々なとこに行くのよ」
「そうなんだ。私はお昼ご飯は食べるな」
「僕は朝も食べない時が多いな」
「おなか空かないの?」
「たぶん僕は食べることにあまり意欲がないんだろうね」
「そうなの?」
「うん。まあいっかー、みたいな」
「夜は?」
「夜は食べますよ」
「作るの?」
「買って来るかなあ。冷蔵庫にはあまり入ってないことが多いし」
「そっか」
「そうそう」
私と彼との会話の間を縫うように雨音がずっと強く響き続けている。そういえば私は彼の名字を知っているのに、私は自分の名前を彼に言っていないなと思った。
「あの」
「ん?」
「私の名前、言っておこうかなと思って。一応」
「おー、そうなん?」
「うん。私だけ知ってるのも何だかなと思って」
「あー、そうね。僕、深見って言うんですよ」
「うん。私は優香です」
「ゆうかちゃんね」
「うん」
「よろしく」
「よろしく」
そこまで話した時、彼が「あ、待ち合わせ場所に着いた」と言った。
「お話してくれてありがとう」
「いーえ」
「じゃあ。また」
「はーい、またね」
ぷつ、という切断音が一つ聞こえて彼の声は聞こえなくなった。私の右手は重力に従いソファに沈む。私の手を離れたスマートフォンは、もう何の意味も持たないガラクタのようにしてそこにあった。その端末の放つ光だけがまるで真実のようにして存在していた。私はそれを持ち上げ、先程まで話していた電話番号を登録した。深見さん、と。
――まだ、雨は降り続けている。
十月中旬。二週間前くらいに送ってあったメッセージの返事が彼氏から来た。私の「別れたい」というチャットに対し、「分かった」とだけ書いてあった。私は彼氏のアカウントをブロックし、一つ身軽になった気持ちで家を出た。小雨の降る中、私は傘を持って出たもののそれを使うことなく会社へと向かった。いつもの改札、いつもの駅、いつもの電車。変わり映えのしない日々が縷々と流れて行く。
私はその日も同じように仕事をし、同じように退社した。朝には小降りだった雨は、傘の必要な程度くらいには降って来ていた。秋の冷たい雨と冷たい空気の隙間を歩くようにして私は家に帰り着いた。いつものように台所の電気を点ける。渇いた喉に水道水を流し込み、ポケットからスマートフォンを取り出してソファに座り込んだ。番号宛てにメッセージが一通、来ていた。深見さんからだった。話せる? とだけ書かれたそれに、うんと返すと一分後くらいに電話が来た。
「もしもし」
「もしもーし」
もう何年の間を通して使われているのだろう言葉を互いに交わし、私達はまるで旧知の仲のように会話を始めた。彼と私が話すのは、これで何度目になるだろう。週に五日は彼と話していた。大体、私が仕事から帰った夕方六時くらいが多かった。私の休日の土日は彼は仕事のことが多いようで、そういう日は彼の仕事の移動中を使って良く話した。話す内容は多岐に渡った。仕事、趣味、音楽、本、休日の過ごし方、恋愛観、友人の話。それらは他愛ないものであると同時、私にとってはとても楽しいものだった。名字しか知らない、顔も知らない相手の話が何故ここまで気になり、面白いのか私には良く分からなかった。気が合うのか、合わせてくれているのか。真実などはどうでも良かった。きっとお互いにただの暇潰しなのだろう。私はそう思って、自分の心に線を引いていた。だが、私は会社から帰った夕刻に自宅のソファに座って深見さんから連絡が来てはいないかとスマートフォンを見る習慣が付き、こうして彼と話す数十分の時間が私の中で大切なものになって行っていることは事実だった。
「どうかした?」
不意に彼が私に聞いた。
「ううん、何でもない」
そういえばさ、と彼が切り出した。
「優香ちゃんって料理する?」
「うん。九割方、自炊」
「偉い」
「深見さんは作らないんだっけ?」
「作らないねえ。僕はそもそも食欲が薄いんよね」
「おなかは空くでしょ?」
「空くけど、空いたから何か詰めておくかって感じ」
「好きな食べ物は?」
「そうねえ。僕は何を食べてもおいしいと思うんだよね。高い焼き肉も安い焼き肉もうまいので、じゃあ安い方で良いやってなるし。菓子パンでもうまいと思うし。だから何でも良いんだよね」
「こだわりないの?」
「ないねえ。そもそも生活においてのこだわりがないな」
「凄いな」
「そう?」
「うん」
そこで彼が小さく咳込んだのが聞こえた。
「風邪?」
「あー、ちょっと喉痛い」
「え、じゃあ私と話してるのつらいでしょ」
「へーき、へーき」
「薬は?」
「飲んだ」
「じゃあ温かくして寝た方が良いよ」
「うん、これ終わったら帰るからそうするわ」
「水分摂ってね」
「うん、ありがとう」
じゃあ、と言って電話を切り掛けた私は、あのさ、と思い出したように付け加えた。「もし嫌だったら良いけど、大体何処に住んでいるのかなって思って」
「ああ、言ってなかったか。東京だよ」
「そう、なんだ」
「うん」
「ごめん、引き留めて。じゃあ、またね」
「はーい、またね」
一つの切断音の後に彼の声は聞こえなくなった。私はスマートフォンを持った右手をソファにぽとりと置いてぼんやりと宙を見ていた。台所の明かりとスマートフォンの明かりだけが光り、まるで私は現実の者ではないようにしてそこにいた。
――今日も雨が降っている。