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インサニティ  作者: 鳴海 慶
さいかい
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眠りに沈む

 ある雨の日の記憶。ふわりと優しい羽毛のように、水面でたゆたっているような。


「身体触っていい?」

「……は?」

 朦朧とした意識でも、何言ってんだこいつと思った。

 連れていかれたアパートの一室。

 湿気と雨の音から切り離された六畳一間に、板の間と水道とベッドがあるだけの、殺風景な空間。薄暗く、光は窓から差し込む蒼白い夕日だけ。

 風呂場でシャワーを貸してもらった後渡された服に着替え、グラスに水と市販の錠剤をもらって飲んだ。久しぶりにするりと咽を通っていく感触がして、心地よさに呆然としていたら、そっと手からグラスを回収されて彼が普段使っているんだろうベッドに抱え上げられて寝かされた。

「身体、に 触れてもいいか?」

 そしてこれだ。

「……なんで」

「手当がしたい」

「ぁあ……」

 そういうこと……この人の話し方変わってるな……なんて思う。

「それは……その、ありがと」

 僕が答えるとその人は、ふわりと微笑んだ。

 幽美、に。

 熱で朦朧とする頭に飲み込んだ息が刺さる気がした。

 ……これは現実なんだろうか。彼は今本当に目の前に居るんだろうか

 ……人、なんだろうか。

 ぼんやりとそんなことを思うくらいには、当時の鳴瀬は世界と乖離した存在に見えた。

 屈んですぐ傍に腰掛ける彼の、その頃は膝近くまであった長い黒髪が、さらりとシーツに広がる。

 そ、っと 白い手が僕の手を取って 手当てしやすい位置まで、緩やかに腕を持ち上げた。自分ではほったらかしだった折檻の傷を赤い視線が舐めると、裂けた腕にようやく痛みが戻る。

 頭を庇った時花瓶がぶつかってできた傷。

 痛かった。そのことを自覚した瞬間だった。

「……ぁ」

 ……気付かない内に、涙が溜って 僕は……泣いて。

「……」

 その涙も、何も言わずに白い指先が掬って行った。

 なぜかその手がとても温かく感じる。熱い。痛い。感覚が、急に冴えて。苦しいくらいだった。

「……っ、痛……い」

「……うん。ごめんね」

 どうして彼が謝るんだろう。

「そんな……謝らなきゃいけないのは、僕の方……、」

 咄嗟に言って、思考が追い付く。

 そうだ、助けてもらって、着替えも、薬も、……あ。

 つい、身体が強ばって それに気付いたのか、目の前の幽美な人は、一旦怪我から視線を離して僕を見た。

 その顔は濡れている。髪も、身体も濡れている。

 彼は自分のこと後回しにして、僕のことだけを……

 気付いて、だから血の気が引いた。

「ごめんなさい、あの、これはいいから……先にあなたも、着替えとか」

 こんな、細くて蒼白い幽霊みたいな儚いひとに、寒い思いをさせてまで癒さなきゃいけない怪我でも無い。

 本気でそう思って言ったけれど、彼の手はまるで僕の一部になったみたいに身体を支えて 

 離れていこうとは、しなかった。

「ちゃんと、終ったら、ちゃんと……するよ。だから、待って」

 強く腕を掴むでもない、優しく僕の手を取っただけ。続行される手当の間、彼を振り払うのは簡単なはずだった。

 でも、できなかった。

 その手が、あまりにも優しかったから。

 その時の僕は……あまりにも 愛されることに、飢えていて

 僕は 確かに、嬉しい、と思っていた。彼が自分より僕を優先して、気遣ってくれたこと。




 薄明の中、

 対峙する人影は 指をさす。

 自傷行為でずたずたになった僕の左腕


「それで気持ちが楽になるなら」


「ぼくの左腕切り落とそうか」


 僕はそこから流れる血を眺めながら、「冗談はよせ」と応えた。

 人影は軽やかに笑う。


 嘘だよ、嘘だよ

 ぼくは痛いのは嫌いなんだ

 自分で自分を傷つけることなんかできないよ。


 それに、


「もしもぼくが目に見える傷を引受けたって、意味無いんだよね」


 君の助けになれたらいいのに。と

 彼はわらう


 これは 夢だ


 ここにいたことは懐かしい過去。

 彼の腕の中には僕じゃない誰か。

 記憶の中で向き合った 黒い細長い影法師。

 逆光で表情は見えない

 そのまま、鳴瀬は横を通り過ぎて 僕を、綺麗な場所に、置去りにした。









 うっすらと視界に色が戻って、無意識に誰かの名前を呼ぶ。

 夢をみた気がする。

 モノクロの世界と比べて、そこは随分緑色をしていた。病院の、救急医療室の壁の色。

 ……生きてるなんてどうかしてる。

「皐春、」

 呼びかけられた声に思わず飛び起き、左手と口元にあてがわれた器械を剥ぎ取って痛みに倒れ込むと、誰かが駆け寄ってくる足音や複数の声が聞こえてきた。ああ、ダメだ

 来ないで

 父さん、

「ごめ……ごめんなさ……」

「落ち着いて。動いてはいけません」

 左手に幾つもある傷跡を抉るように抱え込んで咄嗟に抵抗しながら、それでも二人の看護士に押さえつけられる。

 ダメだって

 こんな痛みでひるんでたら死ねない、

 僕は……どうして……

「…… 鳴瀬のばか」

 あいつ、なんで邪魔したんだ。

 父さんの前で なんで僕を

 この人達も

 なんで、そんな無駄なこと。

「……死ななきゃ」

「落ち着いて!」

 落ち着いて? 落ち着いて死ねって? そんな、無茶言わないでよ。

 とても正気じゃやってられないよ……

「離してくださ……」

「もう一度薬を飲みましょう、よくなりますから」

 父さん? 父さんすぐそこに居るはずなのになんで殴らないんだろう 見えてるこれもさっきの声も幻覚なのかな?

 ああ随分と情けない顔してるなあ父さん、父さん僕死ねなくてごめんね。

 未だくらくらと視点が惑って身体がぐらつくのを無理矢理押さえられながら、何か薬を手渡されたけれど、僕はそれを落してしまった。

 顔を覆って 視界を 絶って

 狭い狭い逃げ場を作る。

 ああ、もう

 いき場が無いどころか、逃げ場さえ こんなちっさい身体しか。

「お父さん、申し訳ないんですがしばらく席を外していただいてよろしいですか」

「……はい……」

「!?」

 待って

 捨てられる、?

「待って……」

 顔を上げた時にはもう、父さんはどこにも居なくなっていた。

 違う、居なくなればいいのは僕の方だ、……って……

「ぅ……うぅ……」

 涙が滲む。

「これを飲んでください」

「………………………」

 もう、どうでもいいや。

 言われるがまま差出された薬を飲み込んで踞っているうちに

 緊張も次第に殺がれていって

 重くなった瞼を閉じた。

 死と眠りは似てるような気がする。






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