氷殻が割れた
玄関を開けた途端、顔面をはり倒された。
扉の外側の段差に背中を打ち付け、目を開く間もなく胸ぐらを捻り上げられ投げ飛ばされる。散らかった靴にダイブし爪が割れた。ヒステリックな声、背後からの罵声。
ああ、少し遅かったか。
鳴瀬と一緒に下校した。
互いを知らない空白の期間に、何があったかは触れないままで、ただその隙間を埋めるように並んで歩いた。
僕が何か話す時は、ときおり相槌やコメントを挟みながら、楽しそうに聞いてくれる。
鳴瀬から話すことはなかった、代わりに機嫌よく微笑んだまま、鳴瀬は歌をうたった。
外気に透き通ってしまいそうな声は言語として頭に入ってこなくて、僕はなるべく音だけで捉える。歌っている鳴瀬の方は見ない。視界のふちに、襟足だけ長い尾ひれの髪が揺らめく。
「カリスって歌手、知ってるか」
歌が一区切りついたところで、訊いてみることにした。
「……しってるよ」
「……だろうな」
言葉に迷う素振りのあった鳴瀬の様子に確信を得て、予想してたとはいえ少し驚く。一度しっかり息を吸ってから、噛みしめるように告げる。
「カリスの歌い手はお前だろ」
そのことに気付いたのは鳴瀬と別れてからしばらく経った頃だった。カリスという歌手を見付けてその声に知らず知らず惹かれ、何度も聴いているうちに。
鳴瀬の声……歌い方。それが全く、僕の記憶の中のカリスの歌声と重なるように響いた。
それでも今日まで、カリスを鳴瀬の声だと思って聴くことはできなかった。だって、そうだとは思うけど、万が一違ったら…… 疑惑を抱いたままそれを支えにしてしまったら、隣合った虚しさにいつか潰されると思った。
鳴瀬と再会するとは思ってなかったから、いつか訊こうとも思ってなかったことだけど…
「うん」、と頷く鳴瀬を見てほっと息をつく。
やっぱり……そうだったんだ。そっか……
よかった……
「散葉もだよ」
「えっ?」
「カリス。ぼくと妹の姫歌と、散葉。声の相性がよくて。それで知り合いなんだ、あの子とは」
「……なるほど」
バレたならもういいかと言わんばかりに鳴瀬は続けて歌い始めた――――カリスの曲を。
鳴瀬の歌い方は繊細で 一音一音が流れるようで、でも取りこぼさないように歌う。僕は鳴瀬の歌い方が好きだった。とくにこういう日常のなかで、ふと耳にする歌声。
家に泊めてもらったいつかの、料理してるとき、洗濯物干してるとき、こうやって並んで歩くとき、囁くように小さく紡がれていく泉声。
声質のせいもあるのかもしれないけど、とにかく耳にやさしい。
本人の優しさが透けて見えるみたい。
そうしてるうちに、鳴瀬の家に着いた。
そこには一人で住んでいるようで
確か以前連れて行かれた鳴瀬の住居はアパートだったはずなのに、一軒家に一人暮らしということに若干の疑問を持ちながらも、立ち寄ることにして中にあがらせてもらった。
その室内の状態を見たら色々考えてたことが全部消し飛んだ。
ほとんど物が置かれていないがらんとした室内、数少ない家具調度はせっかく高級そうなのに磨かれてないのが瞭然で、歩かないらしい部屋の隅にはホコリがつもり廃墟のような冷たい重い空気が沈殿していた。
「片付いてんのに掃除はできないのかよ……」
「散らかさないだけで掃除は苦手だよ。一度汚したらオシマイなんじゃないかな……」
言って、鳴瀬がお茶を出してくれる間、僕はついついあの夜みたいに 料理を作ったり掃除を手伝ったり……甘えたりして、その結果長居してしまった。
いつもなら、僕は食事のとき必ず家族と同席して、母に薬を飲ませ、父の機嫌をとるんだけど、今日は間に合わなかったみたいだ。元より一時期の深夜徘徊やら成績降下が原因で親から僕への信用は皆無に近い。帰りが遅くなればなる程、暴力が酷くなるのはいつものことだった。
……なまじ今日は、すこし楽しかったから
こうされるのが、一層辛いかな、なんて。
「お前はまだ一人で生きてけやしねーんだよ、未成年のくせにどこほっつき歩いてんだ!? 前に もあったよなあこういうこと、てめえがそんなんだから母さんがこんなになるんじゃねーのか! 二人が二人とも出来損ないで、世間じゃそれは親の躾が悪いって言われんだぞ!? 自分で全部責任もてねーガキのくせに好き勝手してんじゃ――――」
とりあえずまだ意味のある言葉を発してるけど、父さんの目の焦点は僕に合ってなかった。
「不良、出来損ないが、――――!」
ああ、誰に言ってるの
兄さん? 僕?
そうだよ僕達はまだ子供で、不完全なんだ。兄さんはそれでも行ってしまったけれど、僕は地に足の着かない水中が恐い。
頭を殴られ、目眩がする
痛い、痛いよ
でも 耐えないと
僕は耐えないと
僕が悪いんだから
僕が、僕が悪いって そう認めたら以前は一度平和になったものね?
今日は僕が帰るの遅かったから……僕のせいで……
「てめえのせいで――――」
「―――っ!」
傷みの雨が止んで軋むような声が耳に届いた。
母さんがこっちを見て叫んでる
でも 助けてはくれない。助けてもらえるような僕じゃ無い……
「お前らなんか、要らなかったんだよ」
しん、と
何かが おりた。
それは張りつめて今にも。
何とか息を吐く学校や
外に出掛けることさえも、親に養ってしてもらってることだ
僕はここに縋るしかなくて
あの時だって夜の闇では生きていけずに
必死でここを居場所に仕立て上げた
兄と僕の抜けた穴に 自分の両手足を嵌め込んで均した
そうやって何とか、やっと 地に足つけて歩く感覚を得て居たんだ
水の上に脆い地盤を張って、這いずるような姿勢で
そうするしか無いと思った。麻薬も拳銃も、手を出す覚悟は無かった。
ここで捨てられたら
僕は……―――――
僕に大事なものなんて無い
自分は特にひとよりいいところも無くて
頭も良くないし
見た目も良くないし
この身体は汚くて
中学の頃から、既に自傷とセックスの痕が染み付いている
平気で嘘を吐くし
被害者意識ばかりが強くて
誰からも
誰からも、愛されていない
好かれてない
僕だって、誰のことも、好きになれない……
知っていた。知っていた。知っていた
もう
ずっと、まえから
生き場が、無いんだ。
パ キ ッ――――――……
音が して
瞬間、
身体が遠くに行ってそれを眺めていて
僕はそこにいなくて
……ああ
亀裂が入ってしまった。
足元の冷たい水の底へ堕ちる。それは一度拒否して、……まだ受け入れられないままだった。僕は立ち上がって振り上げられた腕を躱してそのままキッチンへ入り込む。包丁 どこに置いたっけ。確か昨日は野菜を切ったからまだ仕舞い込まずに乾かしてたはず。
「おい……おい、お前そんなもの!」
刃物を手に取って振返ると、父さんが引き攣った顔でドアを開けたまま固まった。
何でそんな恐そうにするんだ。僕が不良だから?
「そうだね……きっとそうだ」
ごめんなさい。
包丁を握りしめたままドアに近付くと、父さんは慌てて後ずさった。廊下、玄関、父さんに付いていくようになりながら、そのまま二人して外に出る。家の中が血で汚れるのは、ダメかなって思った。少しでも片付けが楽な方がさ……いいよね。
「おい、待て、このくそガキが……ただじゃ済まねーぞ!」
物干竿に手を伸ばしながら叫ぶ父さんが、それを掴む前に刃を向ける。
「ごめんなさい……」
もうこれ以上は迷惑かけないから。
僕は包丁を振りかぶって、一気に自分の方へ引き寄せた。
どこからか綺麗な音がする
視界の端から血が爆ぜる
腹部のあたりに赤色が滲んだ。
「 ……何してんの」
それは
「 え ? 」
それは明らかに違う色で
藍に染まる、綺麗な。
「てっきり、殺る気かと思った」
鳴瀬……
「鳴瀬?」
え?
本物だ
あれ? ほんとに……何してるんだ、僕?
鳴瀬の左腕は
僕が突き立てた包丁から、僕の身体を庇っていた。
「…………… あ、」
血の気が引く。
同時に現状に追い付いたらしい父さんが声を上げた。
「な……皐春、 …… ……おい……あんた」
「あ、はじめまして」
対する鳴瀬は場違いな程 いつも通りで
その表情は硬直する父さんに追い打ちをかけるような、笑顔。
人形のように綺麗な微笑。
けれどその白い皮膚からは肉が裂けて血が流れ
人間で
生きていて
僕は、僕は死のうとして
生きていて
僕の手はその腕に刺さった包丁の柄を掴んだまま、固まってしまっていた。
骨に、丁度、あたっている。
「あ、な、鳴瀬……なんで……」
「成田ウチにケータイ忘れたでしょ? 充電したままだったよ」
いや……そうじゃなくて……
僕のせいで。
僕のせいで、
「あ、ちょっ、成田!? おい、成田! オジサンぼーっとしてないで救急車呼んでよ!」
呼吸と血液が身体中渦になって意識を飲み込む。
焦点があわない、力を入れることも抜くこともできない。
過呼吸に遠のく意識の向こうで、鳴瀬が支えてくれたのがわかる
左腕から垂れる血がこっちにまで飛んできた。
倒れた僕の頬に流れた雫の色は赤かっただろうか。