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インサニティ  作者: 鳴海 慶
水槽病棟
47/51

傷痕

成田皐春視点



 本当はずっとずっと怖かった。





「ほら、きっしー 投げて」

 僕の手にはボールがある。小さな両手で抱える柔らかいボール。僕が怪我をしないように用意された優しい道具。

 小さな頃の僕は「ボールは友達!」ていうような無邪気な子供で、運動が好きだった。今でも得意にはしているけど、当時特に好きだった球技は、今思えば唯一、兄よりも上達しうる余地があった。

「いくよ!」

「上手い上手い。手から離すタイミングをもう少し早くしてごらん」

 そう言って投げ返してくる兄のフォームを見て真似た。

 同じようにやっても、他のことは兄のようにはできるようにならない。

 長所や特技を聞かれたときにどうしたって比べてしまう、無意識下の基準が兄で

 兄弟なんてそんなものかもしれないけど、他の誰かと兄弟談義みたいなのをしたこともないから、実際どうなのかはわからない。


「算数が難しくなってきたんだって?教えてあげる」

 文秋は優しい兄だった。

 自分ができる多くのことを、気取らずに僕に教えてくれて

 兄と比べられがちな僕を、文秋の飄々とした態度が守ってくれていた。

「美術の課題か。影は落ち方を理解していたらもっと簡単に描ける。絵は理屈で描けばいい、見たことが無いものも描けるようになるよ」

 年齢が上ということを差し引いても、文秋は全てが僕よりよくできた。特別な努力をしなくても要領よく物事をこなして、コツを掴んでは人より速くできるようになる。その上で自慢げにも偉ぶったようにもならない、模範的な人格。

 微笑みを絶やさなくて、親切で、自分より劣る相手にも手を差し伸べてくれる、優しい性格。

 人格。性格。そういうふうに見えてた。

 自慢に思わないことが、まるでいいことみたいに、皆が思ってた、と思う。


 文秋よりも自分は劣っているって

 当然のように 思ってた、と思う。



 成績が落ちてきたのは文秋が豹変した頃だった。

 期待をかけていた長男の非行に、家庭内の状況が悪化したり

 目標にして憧れていた兄の像が踏みにじられたり

 兄を探す時間を利用して自分も非行に走ったり

 色んな要因が重なった、っていうのが事実だとは思う。だけど

「自力で勉強できねえからだろ。バカを精神論のせいにするなよな」

 ――――見下した冷たい笑い声。

 僕にとってはこれが事実になった。

 ……文秋に勉強を教えてもらえなくなった。

 勉強ができないから成績が落ちる、それは単純な理屈で、わかりやすくて、だから納得できた。

 実際、それまで僕は自分で出せる以上の力をつけてもらっていた。文秋は全部僕よりできて、全部を僕に惜しみなく教えてくれていたんだから。



 どうして文秋が急に豹変したのか、考えずにいられなかった

 わからなかった――――……僕は何が苦しいんだろう?酷いことを言われてる気がするのはどうしてだろう?

 文秋の言葉や態度で苦しい気持ちになる自分は 今まで与えてくれていた恩恵を与えられなくなっただけで苦しんで、被害者面してるだけの卑怯者みたいで

 もし僕が文秋に頼らなくても、もっとずっと勉強も運動もなんでもできる優等生だったら、こんなことにはならなかったかもしれない。

「要領が悪い」「言うことが矛盾してる」「論点をずらすな」「余計なことは言うな」「合理的じゃない」「お前本当にバカだな」「そんなだから孤立するんだろ」「話が逸れてくのがウザい」「バカにバカっつって何が悪い」――――……

 全部 どれも

 ずっと当然のように文秋(自分より優れた人)を搾取してきたから、腹に据えかねた文秋はそれを拒絶しただけだって

 自分が悪いんだって思えば それで済む気がしてた。

 ……別に、殴られたり物を壊されたり盗られたり、干渉されるわけじゃ、ないんだ。

 むしろ 今まで僕は あんなに 色々 してもらってた

 だから ……


 ――――好きだった。兄のことが。

 自慢の兄だった、……文秋が急に態度を変えても 僕の方に原因があるんじゃないかって ずっと、長く そう思い詰めるくらいには



 それから一年も経たないうちに文秋は家から失踪して

 一年も経ってなかったのに家はもう家族として機能しなくて


 そんな時に、鳴瀬に会った。



 一度だけ 鳴瀬に兄のことを打ち明けたことがある

 同居をするきっかけになった、父との刀傷沙汰で入院していた間の一夜。

「どうして文秋は急に変わっちゃったんだろ」

 膝を抱えて 顔を上げられないまま吐露した僕の言葉に、鳴瀬はしばらく黙った後で

「……どうして か」と呟いた。

「考えたってわからないのかもしれないけどさ。でもどうしたらそうならなかっただろうって ……何度も考えちゃうんだ、僕のせいだったんじゃないかって、直せることがあるなら……、あったなら、直すのにな、とか。はは、でも、そんな風に思うせいでこんなことになってんのかな。時間が戻るわけでもないのに」

「成田は 相手が何かを思ってるって ……それを考えるんだ」

「……え?」

 言われた意味がよくわからなかった。僕は顔を上げて鳴瀬の方を見た。

 相槌というにはどこかズレたその言葉にも 僕は鳴瀬が何を考えてるのか、知ろうとしたんだろう。

 鳴瀬はどこか空に視線を揺蕩わせながら、じいっと僕の言ったことを反芻でもしてるみたいだった。

 自分の身に沁みこませようとでもするかのように

 ―――― 初めて知ったとでも言うように。

「成田の お兄さんにも、 感情があったって思う?」

「……そりゃ そうだろ、お前だって何か考えてる 僕だって」

「……うん」

 うん、と 頷いていた。鳴瀬は

「成田が色々考えているのは わかってたよ」

 微笑んだ。

「だからぼくには お前が特別だった」

 そう言ってくれた。




 それから、更に3年後。文秋が死んだ。

 処刑、された。薬物で大勢を死に追いやった、無差別テロの犯人として。


 文秋のいない世界に生きたことはなかった。

 上の兄弟がいるってのはそういうことだ。だから僕は今、初めて文秋がいない世界で生きてる。

 ……これがもし、違うタイミングだったなら、もっと違った自分になっていたかもしれない。

 文秋に支配されていた。それはわかりやすい暴力とか、明確な上下関係、取り決められた仕組みなんかじゃない

 目に見えなくても何も無くても、どんなに平等で公平であっても存在する、心の中の支配


 態度を変えられて苦しかったのは 損得以上に悲しかったせいだ

 成績が落ちたのは勉強に手が付かないくらい、心が傷付いていたせいもある

 そんな当たり前のことに、自分が悪いんじゃないかって、いつまでも傷を膿ませていたのは 文秋の価値観に洗脳されていたからだろう

 そんなこと、僕が自分で、自覚的にそう思っていなくても

 意識的に価値観を採用していなくても

 確かに縛られていた、

 全部を破壊するような常識知らずに出会うまでは。



 認めよう。

 

 本当はずっとずっと怖かった、

 突然居なくなってしまった兄への喪失が、信じてきたものが嘘だったと思い知るのが、自分の現状を兄のせいにできないのが、兄は僕に価値なんか与えなかったってことが、兄は僕を傷つけることで一切傷つきやしないってことが、ずっと、ずっと怖かった


 僕は文秋に傷付けられてた。


 でも 今の僕は鳴瀬が失踪しても、兄が行方を眩ませた時のように自分を持ち崩すことはない。

 ……鳴瀬の方が明確に、首を絞めたりしてきたのにな。あいつにも沢山傷付けられたのに。

 その痕跡をよすがみたいにして、僕は僕自身として待っている

 彼の確かな想いを信じて。





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