水際で
二年生のクラス分け表にその名前を見付けた時、
思わず一歩後ずさって誰かに背中から衝突した。
……落ち着け、まだ本人だと決まったわけじゃ無い。
けれど 同姓同名の他人とは考えられなかった。
高校に進学して、何とか一年。
多少の不安はあるものの、中学の頃と比較すれば気楽なもので。
落ちこぼれと言われる原因でもあった名門私立校から受験で脱出し、夜中の徘徊の原因になった兄の存在も当人が家から出て行ったことでようやく影を払拭しつつある。両親の状態は、下手に刺激しなければ余程酷いということはなくなった。
自傷癖と
セックス依存は、治ってないけど
危ない橋は渡らなくなった。同級生の女の子とか、自分の手にもあしらえそうな相手を、利害関係無く引っ掛けては遊ぶ。それだけ。
だから
もう、彼と僕を繋ぐものは何も無い。
会うことなんて、二度と無いと思っていた。それで何とか忘れようとして、今も目の前の「学生」という現実を直視していたところで
そんな中目に飛び込んで来た、その名前。
「……なんで……!?」
新学期、クラス分け表の前で小さく叫んでしまった僕に、横に立っていた生徒たちが訝しげな顔を向ける。気まずくなってさっとその場を離れ、ひとまず落ち着こうと保健室前の花壇に座り込んだ。
「なんで、鳴瀬の名前が……」
僕と同じクラスの、僕のひとつ後ろの出席番号。
その位置に、鳴瀬翏一の、名前が。
どうして? 去年は、間違いなく、この高校にいなかったはず。
……忘れようとしていた。
それでも未だに、彼は僕の脳内で神髄を支配しているようで
そのくらい、あの存在は衝撃で
会わなければいつかは溶けて消えると思ってたのに、よりにもよって前後席。
「あれっ、おはよう」
「!?」
突然がらりと保健室の外扉が開く音、
それに続いて 聞き覚えのある綺麗な音がした。
心の準備がとか思う間もなくたまらずに振り返る。……声に応えたのは、きらきら淡い金色に輝くみたいな笑顔の、かわいい女の子だった。
「おはよ、今日は朝から居るの? それとも今度は、かな? 珍しいね」
「散葉の方こそ、冗談じゃ無かったんだね」
散葉……と呼ばれた女子生徒の正面に立つ人物に、視線を移す。ほんの数十センチ先の室内。
……鳴瀬だ、った。……同姓同名とか やっぱそんなわけもなくて
髪型だけ少し変わってるけど、それ以外ほとんどあの時のまま ――――少し身長が伸びて男っぽくなっただろうか ――――僕と同じ黒い学生服に身を包んでいる。校章入りのボタンが並ぶ学生服。間違いなくここに所属している証。
「りょーちゃんとクラス一緒だよ。教室連れてってあげる」
彼と笑顔で話してるのは、一舎散葉さんだった。朗らかな優しい笑顔に亜麻色の髪をした華奢な女子生徒。優しくて朗らかで文武両道、しかもかわいい彼女は男女問わず人気者で、ろくに話したことのない僕でさえその存在を知っている。
「ちーもCクラス? やった、一緒に行こう」
微笑んで言う鳴瀬は、僕には気付いてない。
一舎さんと、知り合いだったのか……? こんな、接点も無さそうなのに。一舎さんが中学の頃僕らと同じ学校だったということは無い、一体どこでこの二人……
同じクラスって話してた。つまり、僕とも同じクラス。
声を掛けようとして……躊躇った、僅かなズレが完璧にタイミングを外してしまう。
二人は保健室で少し談笑すると制服を注意しあいながら廊下の方へ抜けて行った。
置いて行かれたような気分になる。いや、どうせ後で、教室で、会うんだけど。
あの二人も、偶然会ったみたいな 待ち合わせてたとかじゃなさげな口ぶりだった、けど
少し浮かせていた上体を花壇の縁に投げ出す。
これは、何の違和感だろう。
ガラスの向こうにあった鳴瀬の笑顔は、普通の高校生みたいだった。
成田って去年も委員長やってたっけ あいつ顔広いよなークラスの誰とでも平等に接するんだぜ うっそ俺女子が陰口言ってんの聞いたよ? よく気がつくって先生に贔屓されてるっぽくね むかつく でもしょうがないだろー実際……
――――聞こえてる聞こえてる、もっと気遣って喋りなよ……それとも聞こえよがし、なのかな?
バレない程度の溜息をひとつ、黒板に書かれた自分の名前をやる気無く眺めた。クラス委員なんてかったるい。けれど他にできるやついなさそうだし仕方無いのかもしれない。結局ぼんやりしてるうちに推薦されたクラス委員に選ばれたまま決定してしまった。
「よーし差し当たってまず始業式の後、今日の午後にクラス代表だけ集まりがあるからなー。成田と一舎、あとバフィ、頼んだぞ」
「はい」「はーい」「せんせー名前で呼んでくださーい」
バフィくんの発言にクラスがどっと笑う。どうやら三人の委員の内、僕以外の二人はムードメーカー的な人種らしい。
今朝のこともあってか一舎さんの方が何となく気になってそっと目線で伺うと、なぜか彼女もこっちを見ていた。慌てて逸らす。
な、なん……あ。
思い当たってもう一度見る。
冷静に彼女の視線を追うと、僕の視界の隅で動く影に気付いた。後ろの席。そっと振られる右手。
応えるように笑みを零す彼女。
「……一舎さんと仲良いな」
つい、背後に声をかけた。
返事は無い。逡巡したものの身体をそちらに向け、もう一度話しかけようと思い、止まった。
鳴瀬は、ぽかんと口を開けて僕を見ていた。
「おぼえてるの?」
「……ばーか、忘れられるか」
くはっと腹の奥から息が跳ねて肩を揺らす。覚えてるかだって? お前のことを?
誰にでも平等に接するらしい僕が、自分でも可笑しいくらい真剣で、そのことに自分で笑ってしまった。
数年振りの邂逅、久方ぶりの遣り取りは こんな、普通で。
その日、委員会の後教室に戻ると
鳴瀬だけが一人で残っていた。
HR中一舎さんと二人で笑いながら、他のクラスメイトと雑談する様子は、新学期早々クラスに溶け込んで見えて、僕の記憶の中の鳴瀬とは別の人物みたいだった。初めに交わした二言以降、僕は鳴瀬に話しかけられないでいたくらいだ。
……でも 今は
斜陽に染まった赤い目が
血色の悪い白い肌が
妙に陰影を纏って、
まるで過去のあの時のように。
水中との境界
朝焼けに染まった室内
細長いシルエット
揺らめく
片手が 指をさし、
僕の横を通り過ぎて 廊下の影へと出て行く
……扉のふちに手をかけて 鳴瀬は僕の方を振返った。
あの日とは違う 静かに微笑む両眼が僕を捉える。
「帰ろう」