人魚の秘薬 12
(幌青佑視点)
夜の水槽。様変わりをしてから遠のいた水の気配は、ここにはまだ深く溜まって静かに広がっている。
水面のように雲が波打つ高い夜空。青く降り注ぐ光。流水に煽られてたゆたう水草のように枯れた草が風を受けて、僕らの影も闇に混ざる。
「今回の事件でバラまかれた薬が以前水槽で作られたもので、既存の量しか無かった… 文秋こそが真犯人で、事件はこれで全て終わり。
秘密警察にそう思わせるにはどうするか?」
舞い降りた天女の姿におそるおそる近づきながら、彼女が居る階段の下まで歩く。
静寂は音を遠くまで運ぶ。決して大きくもない僕の声に彼女が振り返った。ふわり、フリルのスカートが広がる様子はまるでセイレーンの羽だ。
湖のほとりに二人、人影が並ぶ。
「例えば、水槽の情報をまだ秘密警察が捜査できていないどこかへ隠し、薬のストックをその管理情報と一致させる細工をしておく。それに……もし新たな薬を作っていたのならば、その隠蔽をするために、黒幕が痕跡を消しに来るのではないか? なんて予想を立てて、僕はここで待っていました」
何の証拠もない、ただの仮説だ。
情報も薬も抹消してしまう方が、わざわざ隠蔽しに来るよりも危険度は低い。秘密警察は犯人の証言を鵜呑みにするわけにもいかないので、精製者の存在を疑い続けることになるが、証拠が抹消されていれば特定することはできない。
それでも彼女はここに来るのではないかと思った。
なぜなら。
「薬はもう警察が回収してしまって、残っていない……貴女はそういう事実を作りたかった。文秋に濡れ衣を着せたいからか?僕は、それは違うと思います」
美しい人は目前で 青い月の光を浴びながら佇んでいる。視力が機能してるか怪しいほど綺麗な、大きなひとみが、瞬きの後ほんの少し睫に隠れた。
「少しでも、薬を残しておきたいはずだ。貴女は人魚を救うために、薬を持ち出していたのだから」
「おしゃべりなのね」
ああ、これが生きた人間だなんてにわかに信じがたい。この夜は油断したら致命傷になりそうだ。初めてまともに対面したその少女があんまり幻想的で圧倒的で、終始息が詰まる錯覚を起こしかけ、足下の土を踏みしめる。
月に向かって咲き乱れた、見たことのない透明な花の群れを背景に
鳴瀬姫歌さんが微笑んだ。
文秋の聴取をした日、成田くんを先に帰らせ、僕と鳴瀬は最後まで聴取のやり取りを見守った後会議室に移動した。この後水槽への道筋を案内してもらう予定だったが、まだ少し時間がある。休憩がてら、雑談でもしようというわけだ。
「本当にこれで終わりだと思うか?」なんて雑談を。
鍵を掛け、鳴瀬は机に凭れ、僕は扉に凭れ、向かい合う。これで二人きりになった。
「……このテロみたいな事件、水槽崩壊を思い出すんだよな」
前回のそれが崩壊のテロなら、今回のは再び水中を蘇らせるための、薬物によるヒトの人魚化テロ。そんな風に思える。
水槽崩壊……水中の統治をめちゃくちゃにしたのは、他でもない鳴瀬の父親である鳴瀬紅一だ。人魚たちにだけ害のある何らかの方法で、自らも人魚だったはずの彼は裏切り、仲間を殺していった。その結果としての水中崩壊だった。
「今回はあの時とは対象が逆だけどね。この事件 被害者となるのはヒトだけでしょう。薬、患者として判明するのはヒトばかりだ」
「ああ。ヒトを人魚化させる薬、だもんな」
「違うよ」
「え」
……違う?
「薬で人魚化するんじゃ無い。薬が切れた時の反動が大きくなるにつれて、人魚に近づく。人魚にとってあの薬はギフト。苦しみを和らげてくれる」
調整薬。神経に蔓延る苦痛の感覚を安楽に置き換え、彼等を調律するための……使っていない時こそ苦しみを味わう。
「なっ……そ、うか」
歌でおびき寄せた服用者のあの状態は、ダウン時の禁断症状だったのか。
「ぼくらは薬の種類がわかれば適切な用法用量もわかる。だからヒトが使わない限りあの薬が毒として知れ渡ることは無かった……ねえ、どっちが先なんだろう」
「……?」
「薬が広まったのと、ヒトが服用し始めたの、どっちが先だったと思う」
なん、だって?
広まる前には誰かが最初に薬を使い始める。それが枝分かれするように一人から複数人へ、その複数人からさらに倍々に拡散していくのが通常だろう。
でも。
「ヒトの手に渡るよりずっと前から、この街に潜んでいる人魚たちの間には広まっていたんじゃないかな」
拡散するのが異様に速かった。秘密警察だけではまるで手が付けられないほど街全体で、同時多発的にヒトの患者が出現した
それは すでに水面下で静かに、薬が流布していたせいか?
毒物では無く……人魚の妙薬として。
「まてよ。それじゃ、」
精製している、あるいは保管している人物が
文秋の更に裏で、存在していたことになる……
僕が気付いたのを察してか、鳴瀬は軽く頷いた。
「表向き流通していない人魚の薬……それを秘密裏に人魚に渡していた人物が居る。その人物の目的は、救済、かな……」
文秋がもしその人物と通じていても、明かさなかったことに不思議はない。文秋にとってそれは財源みたいなものだ。勿論本当にその人物を知らなかった可能性もあるが、どちらにせよ、やはりこの事件はまだ終わっていない。
「その人物が、ずっと以前から救済のつもりで薬を扱っていたなら、どうしてある時期を境にヒトにまで薬がバラまかれたんだろう」
「…………」
「ぼくは、こう思ったんだ」
僕も多分、この時この瞬間、同じ考えが思い浮かんだ。
つまり。
「文秋のしたことは、その人物の意に沿わないことだった」
水槽を自在に泳ぎ回れるのは、元人魚、水中のさかなだった者の中でも、人魚たちのことをよく知っていて、忠誠を誓っていたような存在が多い。水槽に入って薬を持ち出すなんてことは反逆者のすることだろう。ましてや金儲けに使おうなんて思わない。文秋はヒトとも折り合わなかったけど、さかなとしても異端だった。
彼のしたことは……水中においても「悪」だった。
「そうしたら、文秋にこれ以上薬を好き勝手に使わせるわけにいかない。って考える」
今回の「事件」は文秋を捕まえさせるために 警察を動かす撒き餌?
「にしたって同時多発テロの勢いで被害が出てるぞ」
「……それも文秋がそれだけバラまいたのか、大元の人物による作為なのか わからないね」
文秋の罪を重くするために同時多発テロのような真似を した、可能性もある。
秘密警察が動く事件は、真相が明かされない。文秋は自分が一体どうやって追いつめられ特定されたのか、どうしてでっち上げの罪に問われているのか、正確に知ることはできない。自分が売買したよりも遙かに多くの被害を出したゴーストオフェンダーだと思われているとしても、彼は、知ることは無い。
「辻褄は合うが、……実際、今後どうするかって言ったら地道に水槽の調査をするほか無いだろうな。現段階では仮想敵だ。何の証拠も手がかりも……」
僕が言いよどんだそこで、鳴瀬は「ごめんね」と言葉を遮った。
「ぼくは知っていたことになるのかもしれない、気付いていたのかもしれない」
「……何が」
「薬を誰が作っているのかってこと」
「っ……! な、」
「確信があるわけじゃないよ、証拠も無い。バフィは 人魚……が なぜ 短命なのか しっている?」
「遺伝的な体質で長くは生きられない、ってことだけ」
「そう、病理で死ぬ。もしくは苦痛に耐えられず、狂って 自殺してしまうからだよ」
「…………狂って……」
「それが薬を使わない本来の人魚。……意図するわけでもない自死は、永遠の苦しみだと考えられた。肉体を破壊しても、ずっとずっと、苦痛に苛まれるイシキは残留するんじゃないかって。……果ての無い永遠の苦しみを、ぼくらは恐れた」
生死の境界が曖昧な水中
死んだらそこで終わりだとか、無になるとか、天国や地獄に行けるとか、はたまた幽霊になるだとか……そんなのはヒトの発想だ
人魚たちは、違った。彼等にとって狂ったまま動かなくなっていく死の姿は 永遠の苦しみだと考えられた……
「だから、安らかな死を」
「……安らかな死」
区切りとしての死を認識できる、死ぬことができるのは、人間性の証だ 命の尊厳を持つという証。人魚にそれを与えたのは、――――死を定義付けてくれる 臨終を告げ医療を司る支配者
「愛する人ほど、耐えがたい苦痛から解放してあげたい。愛することは安らかな死を与えること……ぼくらにとって自死へ至る前に死を与える寂士院家の医療措置はまさに救済だった」
あの薬 人魚の苦痛を和らげて、副作用で寿命を縮めるの、と 鳴瀬は言った。
薬を使わない人魚なんて、水中には居なかったのだ、と。
「それが短命のもう一つの理由だよ。薬で体質をコントロールし、使わない場合より更に早死にする……安楽な死へと導く薬は信仰を支える大切なもの、信仰の一部だった」
「薬」によって、死を自然現象ではない 意味のあるものに……救済に。
――――苦痛のない状態を知らない、人魚たち。
……甘く見ていた。理解が足りなかった。ヒトの通常の医療措置で、人魚も表社会に適応しろなんて、どだい無茶な話だったんだ。
人魚のためだけの医療なんて、こっちの社会には存在しない。水槽の発達した医療は、彼等の対象者が身内であったことや、水中の娯楽商売で大金が動いていたからこそ可能なものだった。こっちの社会での実現は不可能だ。
「……い、や まて お前、それは」
薬を使わない人魚なんて、水中には居なかった
彼等は苦痛のない状態を知らない。
「お前、は じゃあ どうなんだ、鳴瀬」
お前はそんな耐えがたい苦痛を抱えて平然と今も僕と話してるのか? 今だけじゃ無い、いつも、学校でも、いつでも……
薬を受け取っていた人魚の中に、お前は含まれていないのか?
「まさか」
これが、鍵になるのか。
「ぼくは……
ある人と一緒に過ごした後は、身体がいつも楽なんだ
しばらく会わないと体調が悪くて、もっと会えないと錯乱することもあった……知っていたことになるのかもしれない、気付いていたのかもしれない……証拠は無いよ。たぶん出てこない。もしかしたらこの先ずっと、その人物の手がかりは掴めないかも。だから……」
確信の無いぼくの憶測だけでも、伝えておくよ、と鳴瀬は言った。
「散葉が水槽で探した機密情報を手にしていたのは貴女だ、姫歌さん」
夜の水槽で僕はその人物に対峙する。
「貴女はもう随分前からその情報を手にしていた……ここが崩壊した時、紅一さんがそれを持ち出した時から」
月明かりと花畑、幻想的な風景の一部になって佇む姫歌さんは、レースの飾りがついた袖からすらりと細い手を晒している。何も持っていない。一足遅かったんだろうか? 水槽の情報がまだその手にあれば、動かぬ証拠になったのに。
証拠が無いなら言質を取るしか無いが、静かに微笑むばかりの姫歌さんは何も言わない。この人を喋らせることができるとは思えないな……いや、どうだろう、わからない。とにかくやるしかないか。ダメで元々ってやつだ。
「間違っているところがあれば訂正してください」
とにかく僕は話し始めた。
「貴女は薬を何年も前から人魚に渡していた、それこそ水中の統治が崩壊して、その手に薬剤の情報を得たその時から。そして近年、廃墟と化した水槽から密かに持ち出し、街に紛れた人魚たちにもその薬をこっそり配り始めた」
生存している人魚たちのことも、その情報を見ればわかるはず。姫歌さんは彼等の消息を辿り、接触に成功したのだろう。
「けれど、文秋が薬を持ち出してヒトに売りつけてしまった。貴女の意図しない用途で使われ、本来手にするべき人魚たちに行き渡らなくなった。それで彼の犯罪を警察に立証させるため、彼にコンタクトを取り、ウマイ話を持ちかけて、音声データを提供し薬を夜の街でバラまかせた……貴女の歌声をもってすれば、容易いことだったんでしょう」
文秋と姫歌さんの違いは、愛子や秘密警察の存在に対する理解度、知識の有無だろう。姫歌さんは、よく知っていた。実の兄が加担しているのだから。
水中の力でヒトに危害を加えてはいけない。それは昔から街の秩序を守ってきた暗黙のルール。
じわじわ薬の量を増やさせるのを待たず、一気に心身を崩すほど服薬させれば、「被害者」が現れる。「被害」の元が人魚の薬ならば、秘密警察が動く。
そして、僕らは動いた。姫歌さんの思惑通りに。
「音声データを、ヒトである僕らは見つけられない。聞き取れないからです。貴女が今回の事件に関与している証拠になるものは、水槽の情報しかなかった」
「これでしょう」
「え」
姫歌さんはコートのポケットから、小さな箱型のものを取り出した。
「身体検査をされるのは好きじゃ無いの」
遠目でよくわからないが、それは何層にも重ねられた小さな欠片の集合体のようだった。まさか、もう証拠は無いと思っていたのに、湖に投げ捨ててしまえばシラをきれそうな、黙っていれば判別できなさそうな、そんなものを姫歌さん自ら出してくれるとは……
この時、僕は少し そのことが引っかかって
しかし目の前の状況に注意を戻した。
「それを、こちらに渡してくださ」
「“どうしてここへ?”」
「え」
「ダメだよ 全部説明しては。……相手に 喋らせないとね」
そう言って姫歌さんはあっさりとその欠片を差し出してきた。
「……」
「文秋を許せなかったのは 私じゃ無いよ」
僕が欠片を受け取ると、姫歌さんはうたうように言葉を続けた。綺麗な声だ。何だか音そのものがきらきらと煌めいているような。僕は思わず――――本当に思わず、意思とは無関係に――――、黙ってしまった。音を聴くとき、人は沈黙する。
「人魚たちが私に言ったの ヒトも人魚も関係無く町中に行き渡るほどの、沢山の薬がほしいって」
す、っと
表情から笑みが消えた。
「私はね 人魚の歌はうたえない」
「……え」
「聴き取れるだけで、歌えない 症状も軽くて、苦痛も薄くて 暗闇も自在に歩けない ……文秋のデータ、私は何もしてないの」
姫歌さんのこの声は
ただ美しいだけの人の声?
「文秋が最初に協力させたのは 人魚だった ヒトをだますために、人魚の苦しみを利用したの……あの人、文秋ね 頭はいいんだ 生き物がいちばん逃れたいものがなにか、よく知っている」
でも あの人は私たちのこころがわからなかった
姫歌さんの言葉に、聴取で見た文秋の様子を思い出す。人の気持ちがわからない、感情を想定に入れられない人間性。
心が無いから――苦しみを利用してしまう。
「心が無いから、その人なりの理にかなった行動しかしないから
利用しやすい
どう動くか、見え透いている
彼に私たちの思惑が 悟れるはずがない。 ……会う必要さえ、なかったよ 私はあの人の知らないところで 人魚たちに薬をあげた 人魚たちがそれを広めた」
湖のさざ波が風に乗って届く 透明な花畑が 水面のようにさざめく。
彼女の姿と陰影が彼女の声と、溶けて
混じる。
「私ね、全員に会うことはできなかったの 生存している人魚たちに。だから広めることには賛成だった そうすれば まんべんなく行き渡る」
ドラッグをバラまいたのは、街中の人魚に行き渡らせるため。
「文秋に薬を奪われて苦しんでいた人魚も救えた。彼等から薬を奪うこと、その残虐性を、理解しない貴方では無いでしょう? 水際の番人さん」
「…………」
「文秋のしたことで、薬が薬物捜査に渡って 規制されてしまうことは、時間の問題だった」
「……その前に、人魚たちを救おうと?」
大量の薬を使うことでの 安楽な死で?
「多くのヒトの心では 私たちのしたことは 動機は、馬鹿げているのかな 人魚たちにとって苦痛は罰 死は救済 それは苦痛を途切れさせてくれるモノ。私は人魚の信仰を持たないけれど、救済を与える救世主の遺物を貶めたヒトへ、人魚たちが、罰を与えようとするなら 私はそれを尊重する」
私は彼等を尊重する。
「いいよ、まだなにか 聞きたいことが?」
「……っ」
この人に許可を下されてしまった、と思った。主導権を握られている……裁く側の、法の遣いは僕たちの方だ、そのはずなのに、彼女を議ることができない。
彼女はすらすらと語り聴かせてくれるけど、僕が聞き出したわけじゃない、一つも。
ぐ、と一度呼吸を入れ替える。まだ、まだだ 呑まれっぱなしで居るわけにいかない。
「……彼等を……尊重する、と言うけれど、姫歌さん、薬で人生狂ったヒトたちのことは、彼等の人権を尊重する気は、無かったんですか」
「なぜ?」
……なぜ……?
「なぜ私が見ず知らずの、愛しても愛されてもいない、薬で快楽を得る愚か者を、尊重しなくてはならないの? 私は人魚を愛しているのに」
「な、」
「薬を、人魚の秘薬と知って 使い道を誤った ヒトが、自ら服用した。彼等が薬を手にしたのは人魚たちからだったんだもの 識らなかったでは済まされない 罪には罪を。悪には悪を。相手を知ること。自分の身にそれを堕ろすこと。人魚を知らせようと思うなら彼等が何を感じているかを知らしめる 苦しめるために苦しめたんだ 愚かな無知が自ずと思い知るように」
ヒトは 人魚の苦しみを知らなくては
自らがしたことを その身に受けなくては。
ふふ、と長い髪に頬を撫でさせながら首を傾け 姫歌さんはまた、笑った。
「ヒトは 人魚を尊重しないでしょう 人魚にだけ効く薬なんて ヒトには役立たないのに危険度ばかり高くて どこも置きたがらない ヒトの社会において 人魚たちは 切り捨てられる だから これでようやくお互い様」
人魚が薬を使ったらヒトのような安楽を、ヒトが薬を使ったら人魚のような苦しみを。
「せめてもの 同じ苦しみを味わうがいい」
そうしてようやくあたしたちはわかりあえるのだから。
甘い声に ぐらぐらと、揺らされる
……僕は 最初、誤認した、……ヒトが人魚化する薬だと
どうしてそう思った?
… 今まで対峙してきた処刑対象になった人魚たち
――――… 彼らの状態と あの薬の中毒者が似ていたからだ
彼らは恐慌し 必死に 意味をなさない歌声を発して 救いを求めて ……
「それでぼくのすることを身に受けていたんだね」
「……翏一」
「っ!? な、」
咄嗟に声のした方を振り返る。静かに水かさを増した湖が満ちていく時の、砂を滑るような感覚。すぅ、と ここまで届く音。独特の倍音、近づいてくる足音。
湖のほとり、青い空気と白い月明かりの降り注ぐ水槽
夜を泳ぐ、黒い魚。
「鳴瀬……お前どうして」
「ごめん、ぼく、」
赤い目を困ったように眇めて笑い、鳴瀬はそのまま僕の横を通り過ぎた。
姫歌さんの傍らに立ち、笑顔の彼女の肩を抱きよせ髪を撫でて頬に口付ける。
「姫歌に呼ばれて来たんだ。……お前の味方ができないよ」
「……そ、う か」
愛しげに微笑みあう二人。
正直、少し 何というか
ショック、なんだろうか。どうしようもなさが胸に凝縮されていくような。
……でも 仕方ない。道理だろう
そもそも僕がこうしてここに来れたのは、鳴瀬の助言あってこそだ。カリスとしては十分よくやってくれた。鳴瀬のその立場でありながら、僕に話してくれたことも……嬉しかった。
僕はもっと 何も 知らなかったのに。
だから、これが道理だ。僕との友情より
存分に姫歌さんと愛し合え。
「――――ごめん 」
僕と鳴瀬の右腕が、同時に動いた。
合図の直後、僕の後ろで建物の影に隠れていた秘密警察の仲間が二人を取り囲んだ。ただの憶測に人員は割けない、来ているのは僕を除けばたった三人……だが、姫歌さんは予想外にも証拠を持っていた。彼女に逃げる選択はできないはずだ。
「同行を――――」仲間の誰かが一歩、踏み出して言う、
その時 花吹雪が舞った。
「……!?」
鳴瀬兄妹の背後、花畑の透明な花びらが 飛沫になって降り注ぎ、周囲の空中に散りばめられる。
ひら、ひら 輝きに
目を奪われている数瞬が、命運をわけた
「がっ……」「うわっ、あ」「くっ、……!」
透き通った滴が地面へ落ちていくその光景の中、閃光のような金色の瞳が、僕らを捉えていた。猛禽類を思わせる、夜の狩人の金色。意識をその眼光に持って行かれる。
闇に輪郭を裂出す髪、見慣れた枯葉色のコートを着ている。三人の仲間を蹴散らし、僕の背後から銃口を突きつけた、その人は。
「こんばんは、幌くん」
「…………散葉」
「安心して。弾はこめてないよ」
「……お前もそっちサイドなの」
なんだろう、泣きたい。
「あの日私と文秋さんが鉢合わせしたのは偶然じゃなかったんだ。私は最初から姫の騎士だよ」
周りに倒れ伏した仲間を窺う。見事に昏倒させられているらしく、みんな散葉の姿をまともに視認できてやしないだろうということに不謹慎にもほっとした。こんな状況で僕は、散葉の味方だった。散葉が僕の味方じゃなくても。
立場は敵対していても……心の内は、どうしようもない。いつも背反してしまう、見えるところと 見えないところで。
銃口が外され、少し顔を傾けて見ると散葉の腕が振り上げられていた。抵抗したら振り下ろすとその両眼が言っている。
「カリスは人魚の正義か。秘密警察と似た立場でもヒトの正義にはならないんだな」
「それは違う。あの子を切り捨てた私は人魚の正義にはなれない」
「…………」
「私は、いつも私のためにしている。りょーちゃんとひめちゃんのことが好き。幌くんのことも好きだよ……やめたいと言っていたよね、この役目。正義なんてどこにもない。秘密警察の在り方そのものが、社会悪に悪で相対している」
悪に社会悪で相対する、私たちと同じ。
散葉のいう通りだ。
僕は
僕は嫌だった、この役割が。秘密警察の立場が、自分のしていることが。僕だってお前のことが好きだ、お前の味方をしたくなる。それでもこうして相対している。
「僕は……」
本当にやめたかった。だけど、
「僕はこの肩書きを最大限利用して、自分があるべきと思う調整役を行う」
そう決めた。せめてヒトの目で人魚を見つめる、彼等を無かったことにしないために。自己矛盾上等、相対するものを僕は、受け入れていく。
覚悟を決めろ。
「…………」
「ふふ」
鳴ったのは 姫歌さんの声だった。
散葉に倒された仲間を見回し、背を向けてしまっていたそちらへ、振り返る。そして……目を疑った。
花畑が――――――――燃えていた。
「……、っ!?」
何年も、何世代もかけて人魚の医療のために進化させてきた、氷細工のように美しい、幻の花が……
燃えている。
「なん、」
息を呑んで、声を出そうとして、咽が詰まる
「っなんで! こんなこと……っ」
花を伝って火が燃え広がっていく。
透明な花が赤く輝く。
蒼い月明かりを緋が塗り替える。
「こんな、姫歌さ……はやくこっちへ、」
「あなたも、わかっていたでしょう。今夜は 消してしまいに来たの」
姫歌さんが鳴瀬の腕を取って花畑の中へ歩み入り、二人を少しずつ炎が囲む。落ち着いている。逃げだそうとする気配もない。
「ヒトの目で見つめるって あなたは。けれど、それでは 駄目なんだよ」
止めに入ろうと足を踏み出せば、散葉に組み伏せられ阻まれた。腕を地面に容赦なく打ち付ける。
「なにす」「聴いて。彼女たちの声を」
散葉が言う。姫歌さんの言葉を継ぐように。
「……私たちの目で見たらどうだった? ヒトから見たらあの薬は、ただの危険な麻薬だった。表社会に引きずり出されたら、そうなってしまうの」
水中の医療はとても発達していた。表社会にも多大な貢献をもたらした。だが水中が崩壊して統治が公的な権力に移行すると、水槽の薬剤の大半は規制され、取り上げられてしまった。「通常」の医療措置を逸脱している、と。
ヒトはヒトの認識で人魚を見る。
「水中が存在しない今、あの花はもう、ヒトにとって毒であるというだけの花になってしまった」
「あってはいけないモノだから 消してしまうの 情報も 原料も 何もかも」
それはヒトの境界だ。自分たちに害あるものを生活圏から排除しようとする、安全に生きるために。……水槽を全部調べたら秘密警察も同じことをしたかもしれない。
水中の力でヒトに危害を加えてはいけない。
それは昔から街の秩序を守ってきた暗黙のルール。
姫歌さんは、人魚の側に共に立ちながら ……ヒトの社会に、応じたのか
ヒトの毒にしかならないモノは全て水中が呑込んできた――――その水中が無くなった今
消すしか無い、と。
奥歯を噛む。
すぐ近くにこんな広い湖が、豊富な水があるのに、炎に太刀打ちできない。
燃やされてしまったら、彼等の苦しみもそれに抗う薬の存在も、僕が目撃したことが、知ったことが
何も残らないじゃないか。
「私のしてきたことも これで全て水の泡になってしまう ――――悲しいな」
「……っ」
……僕はその街の在り方を、変えたくて、秘密警察のやり方にも、どうにか内側から声を上げて、口を出すつもりだった、変えていけたらと思っていた。だけど……
今この場で、まだ 力が、及ばない。
姫歌さんが花畑の中央に立つ。鳴瀬も後に続いた。
炎が二人を照らし出す。
「鳴瀬、おい!」
「ぼくは姫歌といくよ」
花畑の奥で更に明るい火花が咲いた。まさか、ここに来るまでに水槽中に仕掛けを? 何もかもって、本気で水槽の全て燃やす気か!?
「何やってんだ、やめろ!」
中央で手を取り合った二人がまた歩き出したのは、奥の火花の方向だった。……木々の奥。水場も無い斜面の突き当たりは、崖の下に街があるだけ…… 炎の広がっていく坂の上へ向かうなんて、あいつら死ぬ気か、
「……っくそ」その可能性は大いにあると気付いてしまった。
水槽、水中の全てというなら人魚である自分たちも対象なんじゃないか。水中の存在そのものが、ヒトが人魚を畏れ迫害した、社会の暗部だった。人魚たちはそれを一方的に受け入れさせられる立場だった、彼等の思想はそれに殉じている、死の尊厳すら自分たちであつらえなければ持ち得なかった差別階級 ――――救いを授ける側の存在は、救われることはない あの時は医家の一族 そして今、それを継いだのは ――――
薬の流布で人魚たちを「救済」して
薬の原料を燃やして
まるで水中そのものを死の世界に誘おうってお膳立てをしてきたみたいな有様じゃないか。
「待って、ひめちゃん、りょーちゃん!」
「っ、だめだ!」
僕と同じ思考に至ったのか、散葉が今にも駆け出しそうだったのを腰に飛びついて止める。半端に起き上がった体勢が崩れ、勢いよく地面に倒れ込む。
素早く視線を動かし火の渡りをシミュレーション、木造の屋敷にはあっという間に燃え移るだろう、行き帰りに通ってきた雑木林は辛うじて火が渡っていない……まだ逃げることはできる、鳴瀬、……見捨てるしかないのか。どうする、ああ、畜生――――
――――――その雑木林から、駆け寄ってくる人影が見えた。
な、
「成田くん!?」
驚いたはずみに緩んだ腕から、散葉がすり抜ける。「あっおい!?」声を掛けた僕に、散葉は一度振り返って、言った。
「これは賭けだよ。私たちを勝たせて、幌くん」
「なん、ちょっ……散葉! 散葉っ」
火の花を駆けて散らしながら遠ざかってしまう。目で追いかける視界の淵で成田くんも火の方へ突っ込んでいくのを捉えた。
成田くんはまっすぐ鳴瀬たちの方を見つめていた。学年有数の俊足があっという間に火の足よりも速く、二人との距離を詰める。
地面に無様に転がった僕ら秘密警察を残して、四人の姿は炎の影に消えた。




