ある雨の日の記憶
(成田皐春視点)
彼と初めて会ったのは、兄が家出をした直後
中学一年の終わり頃だった。
僕は母親に殺されかけた。
家に帰ってきた僕に突然花瓶を投げつけ、灰皿を振りかぶり、「殺してやる!」と叫ぶ彼女から必死で逃げて……飛び出した先でまず目にしたのは、水面のような青い雲とその隙間から覗く赤い月。
ただでさえ視界のきかない夜の街には絶え間なく雨が降り注いでいた。
濡れるのを躊躇ってる場合じゃない。無意識に上着を掴んできたのに気付いたけど、着る間も惜しんでそのまま反射する地面を蹴った。
土砂降りの中をとにかく走って、走って、走って、走って走って走って走って…………
見知らぬ景色の場所に辿り着いて、線路に踏切がおりて僕の行く手を阻み、ようやく脚が止まる。
怖い
よけられずに咄嗟に顔を覆った腕が、肩が、じくじく痛む。
怖い
カンカンカン……という踏切の音に急き立てられているような気がする。
怖い
怖い 怖い
もう、
このまま線路に飛び込んでしまおうか。
怖い。
寒い
自分の指で触れた身体が、どちらの温度も感じられない程冷えている。
電車が通り過ぎた。僕は飛び込まなかった。
踏切が上がって
歩き出す。
けれど、どこに行けばいいんだろう。
公園で野宿でもしようか、こんなずぶぬれでは店に入るわけにもいかないし。
そう思いながら結局、数分歩いたところで僕は路地裏に座り込んだ。
寒い
「は……ぁ……」
膝が震えて立っていられない。
うずくまっても全然暖かくなんてならない。
寒くて、寒くて、
……悲しくて、
ものすごく
寂しかった。
座り込んだ路地裏で、地面に吸い付けられるような重みに負けて
どれくらい経った時だか、
突然胸ぐらを掴み上げられた。
「ぅぐっ……」
「結構いい服着てるしサイフくらい持ってんだろー」
苦しくて、ぐらつく頭でどうにか目を開けて相手を睨み付けようとする。
あり得ない、どんな下衆野郎だよ離せクソ財布なんて持って来てねえよと言いたかったけれど、咽を圧迫されて声が出せない。
コートのポケットや挙げ句制服の方まで手を突っ込まれてまさぐられ、不快で不快で頭まで痛くなってきた、
ふざけんなよ
「やめ……」
「なにしてるの?」
「……はァ?」
「何だァ?」
一瞬それは、人の声だと思えなかった。
絞りだそうとした僕の声に重ねられた、明らかに異質な音。
音。
誰かの音。
なにしてるの って
雨と涙、水に滲んで ぼやけた膜に遮られた、僕の世界に
ゆらり現れる、細長いシルエットの立ち姿。
「……ぇ」
「なにしてるの? その子は?」
「は、はぁ? あ……あんた、」
途端胸ぐらの手が離され、空気が流れ込んでくる。俯いて激しく咳き込む。
何かの音。
「え?」 「わ、あ ああああ?!」
誰かの声。悲鳴……?
「な、なにす」
「この野郎ただで済むと」バキッ「……っクソ!」
ばたばたと走り去る足音。
「ええ、クソって」
誰かの音。
「きたないことば」
綺麗な音。
滲んだ視界に捉えたのは、死神のような黒い影だった。
「汚い言葉遣いだなー。ごめんなさいも言えないの」
ゆらりとこちらに向かう人間のようなそれ。
得体が知れない、敵なのか味方なのかもわからない。ていうかこの影は本当に僕を認識しているのかと疑問に思っていると、
「とう」
かけ声とともに肩を抱きかかえられ、立たされる。
「……! 何を、」
「なるべく自力で歩こうとしてねーぼくすっげー非力だから」
そう言いながら路地裏を出る。
足取りには迷いが無く、行き先が決定しているのだとわかった。
「取り敢えずついておいで。寒いでしょう。風邪引いちゃうよ」
ついておいでもなにも、支えられてようやく歩いてる状態だ、運ばれていくしかない。視界がふらふらと揺らぐ。自称非力なその人に完全にもたれ掛かっている。
「……すみません」
「うん。ごめんねー」
……なんでこの人が謝るんだ。この人……
人?
突っ込もうか迷って、声の主の方へ視線を送ると
「ん?」
彼は水にぼやけた藍色の世界の中で
随分と綺麗な笑顔を僕に向けた。
「心配ないよ」と。
「…………」
……怖くて
寒くて
悲しかったのに、
いつの間にか 僕の身体は もう震えていなかった。
まるであの日の記憶だけがふわりと柔らかい羽毛のように僕の意識の中で浮いている。
連れて行かれたのはおそらく、彼の家で
僕は体調が治るまでの数日間を、そこで鳴瀬と一緒に過ごした。
アパートの一室には僕の通っている中学と同じ制服が置いてあって、僕は鳴瀬が同級生だと知り
クラスは違ったけれど、鳴瀬は登校している日は僕に会いに来てくれたから 授業後遅くまで二人残って、最終下校時刻ギリギリになるまで一緒に過ごすようになっていた。
二年間で、ほんの数回。だけど約束もないまま、僕らは夕暮れの教室で会った。鳴瀬と過ごす時間は心地よかった。逃げ出したい現実から、僕を切り離してくれるようで。
そして現在、夜の街……ホテルの一室。思いもよらない邂逅に……相変わらず現実味の薄い存在感で、鳴瀬は冷ややかにわらう。
「あなたとその子を会わせてる仲介人、ぼく、知らないんだけど。その薬も、あげた憶えないなあ」
薬。
「……君らが俺たちを裁く理由は、もう無いはずだろ」
物騒な中身をたれながす注射器を握った体勢のままオッサンが言った。妙に緊張した表情で、こっちも下手に振り払えない。
裁く?
「そうだね。ぼくを許してくれる存在も、もう無い」
「だろ?」
「でも、それがこの状況を正当化するわけじゃないよ」
「……」
オッサンと鳴瀬が何を話してるのかいまいちわからない。ただ、オッサンが鳴瀬に気圧されてるのは確かだった。ふわりと緩慢な動作で歩み寄る鳴瀬の仕草に、ただそれだけの動作にオッサンがたじろぐ。
「な、……」
「無くなってしまうのは統治とその仕組み。ぼくはなくならない」
「な、何なんだよ、君は結局どっちの側についたんだ、……まさか本当に裏切ったのか?」
「それ、どうしても訊きたい? ……それとも聞かなかったことにしてあげようか……どちらにせよ、ここで貴方が何をするのも、見過ごすことにはならないよ。貴方は貴方のまま、ほら」
なくならない でしょう。
その指先が、僕の目の前を通り過ぎて
オッサンの唇に伸びた。
「…………っ」
わずか その白い手を躱すようにして
オッサンは妙にあたふたと立ち上がると、取り繕うようにして「ホテル代は出してあげる。またねハルくん」と言い捨て、逡巡する素振りも見せず立ち去ってしまった。
ドアの閉まるガチャン、という音が響く。
脱兎、といった感じだった。
「……」
「……」
束の間のように静けさが降りて、未だ固まった空気に身動きも無いまま、鳴瀬を見る。
相手も僕を見た。瞬きできない。呼吸も止まる。息を吸えないまま、肺に残った空気を絞る。
「薬……って……」
聞かない方がいいのか、と迷いながらも
聞かずにいられなかった。
「なんで、注射器の中身、わかったの」
「ハマると危ないよー」
「そ、そうだね……」
ああ、ああもう
そうだこいつは会話がちぐはぐなんだった。
けれどそれすら、はぐらかされたようにしか思えなかった。はぐらかすような予想しか考えつかなかったからだ。
鳴瀬はおそらく、薬の売人をしている。あげたおぼえがない、とか言っていたし……
犯罪者じゃないか。
こいつもどっぷり、水の中に浸かった夜の住人だったんだ。なんだか、何だかもう、何も信じられない気分だ。
「えっと。あの人達は夜時間の統治の管轄外だった人だから……お仕事もらっちゃ駄目だよ。薬物も水槽で管理されてた物とは別の、危ないやつだから」
黙ってしまった僕に何を思ったか、鳴瀬は頭を撫でてきた。
「……」
水槽? トウチの管轄外? トウチって統治か。さっきから何言ってるんだ、頭がごちゃごちゃになる。至近距離の綺麗な笑顔。綺麗で、優しい……でも鳴瀬は僕を助てくれる存在じゃ無かった。
「成田くん、一晩はここに居る? ご一緒してもいい?」
「…… 一晩、せっかくだし
――――僕を買ってくれない?」
……自棄になっていたかもしれない。お前もどうせ悪なんだろうって、はやくヤッちまって色々忘れさせてほしいって。何も考えなくさせてくれ、って。
期待なんかしたくない。即物的な身体の繋がりで塗り替えてしまいたい。受け取ってる快楽は少なくとも、その時は本物だから。
鳴瀬はちょっと首を傾げたあと、僕の隣に腰を下ろしてキスしてきた。
「ごめんね、ヘタで」
口先ではそういうけど、手慣れている。
「ヘタなんて……誰に言われたのそれ」
「さぁね」
鳴瀬の手は水底にいるように、ゆったりと動作して
長い黒髪が尾ひれのように舞った。
優しい声。
温かい手。
あの日のデジャヴが、まるで違った様相を呈して僕を飲み込む。
あのノイズは 水中へ沈む音だったんだ。
溺れるみたい。