少年の熱(三十と一夜の短篇第47回)
父さんに連れられて入ったラーメン屋。床がぺたぺたと油っぽくて、そこらじゅうに貼られたメニュー札は字も汚ければ紙も壁も汚い。
「母さんには、ファミレス行ったって言っとけよ」
「……うん」
店構えがすでにボロかったから、母さんなら入らないだろう。こんな小汚い店にちいさい子を連れてくるなんて! って怒るにちがいない。
ぼくはもう二年生だっていうのに、母さんはいつまでもちいさい子扱いする。でもぼくだって、ファミレスのほうが良かった。
「母さん、いつ帰ってくるの?」
「んー、明日の昼に結婚式だって言ってたからな。夜は二次会だろ、終わるころには電車が無いだろうから、早くて明後日の昼過ぎかな」
父さんはいつのまに取ってきたのか、ごわごわした表紙の雑誌を読んでいる。
ラーメンの注文は店に入るなり、父さんが済ませてしまったから、メニューを見る隙もなかった。なにが食べたい、のひとことくらいあってもいいのに。
退屈になったぼくは、カウンターの椅子に座って足をぶらぶらさせながら店を見回した。
曇った窓ガラスはすりガラスじゃなくて、油でべったり汚れている。ほんとうは白かクリーム色だったんだろう壁紙は、黄ばんで店をうす暗く見せていた。
汚れを隠すように貼られたメニュー札は、同じことが書かれたものがあっちこっちに何枚もあって、むしろ注文するひとを惑わせるような気がする。
首を回すたび椅子がぎしぎし鳴るものだから、ぼくは店をぐるりと見回したきりおとなしくすることにした。
「…………」
けれどおとなしくしていると退屈がぐん、と大きくなってぼくのなかで暴れだす。
ゲーム機を持って来れば良かった。ごはんを食べるだけだからって、置いて来るんじゃなかった。
かばんに入れてきた宿題でもしようか。ファミレスで待ち時間に済ませようと持ってきているから。
そう思ったけれど、カウンターテーブルだけはぴかぴかにきれいなわけもなくて、あきらめた。油でべとべとに汚れたノートなんて出したら、きっと先生に叱られる。いや、そのまえにお母さんに怒られるだろう。
ちらり、と横を見ると、雑誌から顔をあげた父さんと目があった。
「おまえも読むか」
気軽に差し出されたのは、古ぼけた漫画の単行本。表紙のカバーなんてきっとぼくが生まれるより前に無くなったのだろうし、すりきれた表紙はいったい何人のおじさんが触ったのかわからない。
変に膨らんだその本は、たばこの煙をたっぷり吸い込んでいるように見えた。
「なに、これ」
「漫画だよ。いつもゲームばっかりしてないで、たまには漫画も読んでみろ」
言うだけ言って、父さんはまた雑誌をめくる。ぼくのこの不満顔なんて見ていない。
漫画なんて、音も色もないのになにがおもしろいんだろう。文字を自分で読まなくちゃいけないなんて、めんどうなのに。
「……」
お店のおじさんのようすを見ると、ラーメンはまだらしい。ぼくらより先に来たひとの餃子を焼いて、チャーハンを作ってる。
仕方がないから、ぼくは漫画の端っこをつまんでみた。しっかり持ったら手に臭いがつきそうだったから、カウンターテーブルに漫画を置いたまま、表紙の端っこだけをつまんでページをめくる。
見えたのは、なんだかやたらと線が太くて、黒っぽい絵。人間が変にごつごつしてるし眉毛だって濃くて、たぶん女のひとだろう絵もかわいくない。
「……」
読む気が起きなくて、でも退屈なのは変わりなくて、仕方なしにぱらぱらとぺーじをめくってみる。セリフなんて読む気にもなれないから、絵だけを見て、すぐ次のページに。
ぱらり、ぱらりとめくっていると、ふと、絵の中のひとと目が合った気がした。太い眉のした、まっすぐに見つめてくる強い視線。
ぼくを見ているわけないのに、どきりとする。
思わず、書かれているセリフを目でなぞっていた。
すごくかっこつけたことを言っている。なのに、それがすごく似合ってる。
ぞくっとした。
つい、次のセリフに目が吸い寄せられる。そしてまた次。その次へと目が、手が、進んでいく。
「はい、お待ちどおさん」
どん、とカウンターテーブルにどんぶりが置かれる、その振動ではっとした。
顔をあげたぼくの目の前には、湯気を立てるラーメン。店のおじさんはさっさと調理場の奥に引っ込んでいく。
ぼうっと横を向くと、ぼくを見ている父さんと目があった。
割りばしをぼくに差し出しながら、父さんがにやっと笑う。
「おもしろいだろ、それ」
からかうような父さんの視線は、ぼくが抱え込むように持っている漫画に向けられていた。
いつの間に両手で持ったのかすら、思い出せない。
父さんの視線はすこしいらっとするけれど、それよりもぼくは、読み途中のこの漫画から手を離すのが嫌だった。
「……おもしろい。これ、父さん知ってるの?」
「知ってるさ。家にあるぞ。置く場所がないから段ボールに入れてるけど、全巻そろってる」
そう言ってから、父さんは身を寄せてぼくの耳にこっそりとささやく。
「ここのよりきれいで、ちゃんとカバーもついてるやつだぞ」
「それって……ぼく、読んでもいい?」
どきどきしながら聞くと、父さんはにっと笑った。
「当然。同じ作者のほかの漫画もあるから、好きなだけ読めばいい。でも、その前にまずはラーメン食っちまわないとな」
「うん!」
ぼくは父さんから割りばしを受け取って、てきとうに割ってどんぶりに突っ込んだ。
まだ熱いラーメンをふうふう言いながらすすったせいで、額に汗が浮く。それでもぼくは、せっせとラーメンをすする。
はやく食べなきゃ。
食べて、はやく帰って、それから漫画の続きを読むことで、ぼくの頭はもういっぱいだった。