有罪電車
プシューと空気が抜ける音を立てて扉が閉まる。ゆっくりと不快な振動と共に電車は次の駅を目指す。降りるべき駅は徐々に遠ざかって行く。真夏の光が肌に刺さり、痛みは内臓にまで達する。体中の血液の動きは鈍く、心臓だけが無意味に収縮を繰り返している。肺は機能を停止したのか、口から酸素を吸い入れる度に重力を増し重く感じる。
「ヨイコラショッと」
ボックス席に座っていた私の目の前に大きな物体が呻き声を上げて腰掛けた。それは腕を締め付けていた時計に目を落としてから、フゥ〜と重たそうな溜息を吐き、湿ったハンカチでパタパタと顔を扇ぎ始めた。顔からは肌色の粉っぽい汗が忙しなく流れ、突き刺しそうな程塗りたくったマスカラに隠された目で私の足下から髪の先まで眺め、血が滴ってきそうな赤い唇を開いた。
「中学生は夏休みやないの?」
初めて見たおばさんは、私が俯いたのをイエスと思ったか言葉を重ねた。
「補習か?」
だと、イイのに…。私は真っ白なセーラー服のリボンを弄った。こんなに白いのに今日の制服は喪服だった。そして、囚人服。
「…ヒト…コロシ、たから」
おばさんは凶器になりそうな睫毛をパタパタと四,五回振って、吹き出した。
「ヒャー、ハァッハャッハッ。ヒィ〜ヒィヒィ〜。何や、アンタ。おもろうない顔して、おもろい事言うなぁ〜。人殺しやて…」
おばさんは何が可笑しいのか引き付けを起こしそうな勢いで笑い転げている。そして、隣に置いたボストンバッグから黄色くて丸いモノを取りだして私に差し出した。
「アンタ、オモロイから、ヤルわ」
触ると冷たい冷凍蜜柑だった。
「あ〜。おもろかった。人殺しか。人殺し。何や、アタシと一緒やないか」
「…おばさんも人殺し?」
「そや。仰山殺したわっ」
掌の蜜柑がヌルヌルと汗をかき始めた。おばさんは満足そうに薄い蜜柑の皮を剥いていく。途切れた皮を無造作に、窓の下に備え付けられた簡易テーブルに投げつける。おばさんが『食えや』と顎をしゃくったので、私も蜜柑の皮を剥き始めた。白いスジを剥き終わる頃にはおばさんは二個目に突入していた。
「…大阪の人はウソツキって本当だったんだ」
蜜柑の冷たさに満足顔だったおばさんが茶色く塗った片眉を釣り上げた。
「誰やねん。そんな大嘘こいたヤツ」
「だって、テレビで言ってる」
「ちゃう。ちゃう。誰がアタシが大阪人だと言ったんや、と訊いとるんや」
「だって、関西弁話してるし…」
「兵庫も奈良も京都も関西弁やないの」
「じゃあ、おばさんは関西のどこの人?」
「誰が関西人だと言った?」
「違うの?」
「ふ〜ん。アンタには関西弁に聞こえるワケやね。フム。フム」
おばさんは蜜柑味の息を満足そうに吐く。
「関西人ちゅうのは、ほんまモンの関西弁と嘘モンの関西弁聞き分けるンや。まぁ、養殖か天然かを見分ける料理の鉄人みたいなモンやな。それから、大阪にはボケたら、つっこまなあかんっちゅう条例があるんや」
「嘘だよ」
「ほんまや〜。ノックが府知事なって最初に何したって。その条例を議会に提出したんよ。ニュースになってたやろ。余所モンも住民票出して、三年以上したら条例が適用されるから、そりゃもう必死や」
おばさんは唾を飛ばしながら力説する。
「ほら。筑紫哲也が苦笑いして『大阪らしいと言えば大阪らしいですが、少し限度って言う物がありますからねぇ』なんてコメントしてたやないの。覚えてへんの?」
「知らないよ」
「そやから、ワテも大阪に行った時、必死で大阪弁にボケとツッコミとノリツッコミを覚えたんよ。ノリツッコミっちゅうのは、相手のボケに一回乗ってからつっこむことなんやけどな。知っとったか?」
「知らないよ。おばさんは、じゃあ、大阪の人じゃないんだ。どこの人?」
「大阪に二年。広島に半年。北九州に一年半。沖縄に三年。釧路に五ヶ月。青森に、…う〜ん。一年ぐらいおったかなぁ。それから…、う〜ん。石の上に三年や」
「イシノウエってどこ?」
「あ〜。もう!そこは笑うトコやないの。石のに三年っていう諺知らんの?受験に出るから覚えとき!」
おばさんは笑いながら、アルミホイルの包みを取りだした。おにぎりだった。『喰うか』と私にそれを持ち上げてみせ、
「蜜柑はオードブルだったんや」
と笑う。
車窓の風景が流れていく。
「自由だね…」
おばさんは自由だと思った。どこでも行けた。私とは違う。私は、縛られていた。『鈴木』と言う名の檻に閉じ込められ、『舞子』と言う名の鎖に繋がれた一五歳だった。
おばさんは色の剥げ落ちた唇をモゴモゴと動かし、口にご飯粒をいっぱい詰めたまま、『自由か…』と繰り返した。
三両編成の電車は少ない乗客を乗せ、小さな町の中を走り抜けていく。自分の家が遠くなる。学校が遠くなる。彼女の死が遠くなる。…なればいい。法律。校則。常識。自分を縛り付ける。羽が生えれば自由になれるとは思わない。飛ぶ術を知らないから…。『勉強しなさい』が挨拶代わりになった母親。挨拶すら忘れた父親。檻の中で共に狂ってくれる友達。狂った魂の餌になった彼女。加納友恵。
長閑な光が真夏の真昼に輝いている。嘘みたいな長閑さ。嘘かも知れない。全て嘘だとイイのに。おばさんは二個目のおにぎりに伸そうとした手を止め、腕時計に目を落とす。このおばさんは時間に縛られている?
「約束でもあるの?時間気にしてるから…」
途中、言葉を途切らせたのは、おばさんが少し悲しげに私を見たから。
「後十一時間六分でどこまで行けると思う?」
どこまで逃げれると思う?そう聞こえた…
逃げられないよ。どこまで行っても線路は繋がっているから。鎖は繋がっていて、どこまでも私でいる限り繋がっている。
ガクンと振動して耳障りな音と共に電車は停止した。おばさんは窓から首を斜めにして外を見た。停車駅の名を確かめると、バッグを漁り始めた。次は何を食べる気だろうか。
そこそこ空いた車内に腰を曲げたお婆さんが乗り込んできた。お婆さんが席を見つけ座る頃に、プシューと空気が抜ける音を立てて扉が閉まった。電車は、また次の駅を目指す。
遠くなればいい。速く。速く。遠ざかりたい。自分から逃げたい。
加納友恵の葬儀は静かだった。
両親の嗚咽する声だけが晴れ渡る空に響いていた。可南子もサトも村井もクラスの誰も口を開かない。毒を飲まされていた。皆が大小さまざまないろんな味の毒を飲んでいた。お互い目で語りあう。遺書は出た?何か書かれていた?名前は?口には決して出来ない言葉。そして、葬儀は静かに終る。
棺が炉に滑り込んだ後、彼女の母親は私だけを呼んで言った。
「痛いわ〜。これ全然噛み切れんわ」
おばさんは魚肉ソーセージの封を歯で噛み切って開けようとしていたが、上手くいかず頬の上から手で歯を押さえていた。
「いつも思うんやけど、ソーセージの開封って、年寄りにはきついわ。もっと、上手いこと切り口みたいなもん付けるとか工夫できんのかいな。全くこの肉を縛っている金属の味を堪能せいっちゅんかい。それか、この苦労を乗り越えたモンだけが、この魚肉の安っぽくも庶民の懐かしい味を味わえるンか?」
自分の歯で潰れかけてはいるが、未だ封印されているソーセージをおばさんは忌々しげに、だが、真剣に睨み付けている。
「わかった。これはソーセージ業界の陰謀や。苦労して噛み切って食えるソーセージって何かうまい気ィするやろ?つまりや、フルマラソンを走りきった後の爽快感や、エベレストの登頂に成功した充実感みたいなモンや」
「何か、大袈裟じゃ…」
「ほなら、富士山か?」
「…」
「そこに山があるから登るンなら、ワテかて、ここにソーセージがあるから、噛み切ってやろうやないの。ホンマにサファリパークのライオンかて、もっとやっこい肉喰うとるわ」
ライオンと言うよりカバみたいなおばさんはソーセージの先を歯で噛んで、ソーセージをグルグルと回したりひっぱたりしている。隣のボックス席に腰掛けたお婆さんがこちらを見て微笑んでいるように見えた。
今、お婆さんは座っているけれど、あの日、お婆さんが立っていなければ、こんな事にはならなかった?…いや、結果は同じだろう。
あの日、私と可南子とサトはそこそこ混んだこの電車に座っていた。そして、お婆さんが別の駅から乗り込み、私達の近くに立った。痩せ細ったお婆さんの前で座っていることに居心地の悪さを感じた。でも、譲ることは出来なかった。もし、私がお婆さんに席を譲れば、いい子ぶっているって思われるかもと考えてしまったから。
「お婆ちゃん。ここの席譲ってあげる」
ソプラノの澄んだ声が車両一杯に響いた。同じクラスの加納友恵だった。五メートルも離れた席から立ってお婆さんを手招きしたのだ。お婆さんはニコニコしながら加納友恵に席を譲って貰った。他の乗客が見守る中、加納友恵は私達の側まで寄ってきて言った。
「ダメじゃない。お年寄りには席譲らなきゃ」
それが、加納友恵に感じた初めての不快感。彼女は色白でほっそりした可愛いと感じるタイプの女の子だった。三年生になり彼女と初めて同じクラスになるまで、彼女は噂だけの人だった。可愛いけどブリッコだとか、優等生だけど先生の前では態度変えるとか、あまりイイ噂ではなかった。だけど、同じクラスになって一ヶ月過ぎたその日まで、私は彼女を嫌いではなかった。『本当は家でするものなんだから』と言いながら宿題を写させてくれたり、他の男子がサボってしまい私一人になった掃除当番を最後まで付き合ってくれたりした。だけど、その日からそれら全てが彼女の計算された自分をヒロインにする為の演出なのだと知った。彼女に関わったそれまでの人間達はそれをいち早く感じ取り、彼女の周りから去っていった。しかし、私だけが遅かった。彼女の上っ面の優しさに感心していた。それが、許せなかった。
私の不快を知るはずもなく彼女は私に声を掛けることが多くなっていった。彼女の会話は私にとっては自慢話ばかりだった。席をお年寄りに譲った話。迷子の子供を交番に届けた話。クラス委員の自分が先生に頼りにされている話。通学路の高校生に告白され、涙ながらに断った話。それをわざわざ私に逐一報告し、最後に『私は当然のことをしたのだけど…』などと付け加える。彼女の偽善は私の不快指数のパーセンテージを徐々に上げていく。生物のテストで満点を取り、私に向かって『舞子もやれば出来るんだから』などと言う。その人を見下した言葉。そして、母の言葉が脳裏に過ぎる。『やれば出来るのよ』。やらなければ出来ないのは当然の結果。だが、やれば出来るのはどんな保証があって言えるのだろうか?『私は学がないから、苦労したけど、舞子にだけはそんな苦労をさせたくないの。だから、勉強しなさい。良い大学に入って、いい人を見つけるのよ』。その言葉を何度私に呟いた?自分を否定し、父を否定し、私を生んだその人生までも否定する言葉。毛細血管の先まで締め上げてくるストレスの行く末は、下らない集団見合いの場所だと、あの母親は信じているのだろうか。
自分の狭すぎる世界。逃げ場のない世界。少しずつ狂っていく…
加納友恵の不快を可南子もサトも感じている筈だが、彼女達は何も言わなかった。嫌いだからと言ってシカトする程子供ではないと自分に言い聞かせるように、私に話しかけてくる彼女を受け入れていた。しかし、それが私の不快指数を上昇させた。親しげに私の友人にも話しかけてくる彼女を私の周りから遠ざけたかった。そのチャンスをジッと私は伺っていた。だから、彼女が勿体ぶって一枚の手紙を机の下で読んでいるのを見逃さなかった。正確に言うと彼女は私に気付かせるために何度もその手紙を出したり引っ込めたりしていた。それは、ラブレターだったから。
「それ、もしかしてラブレターじゃない?」
彼女の期待に応えるべく私は彼女の顔を覗き込んで言った。
「え〜。うそ。誰から?」
近くにいた可南子が近付き、興味津々な顔を隠すこともなく訊いてきた。
「B組の野田君…」
瞬間、私達は凍り付いた。サトの片思いの相手だったのだ。サッカー部の背の高い割合モテる男の子だった。
「…付き合うの?」
彼女は首を横に振る。
「だって、私達受験生だし、お付き合いするのって、まだ、早い気がする…」
「じゃあ、断るの?」
しかし、彼女はまた首を横に振った。
「断るの、悪いし…、とりあえずお友達で…」
「それって、キープっていうんじゃない?」
いつの間にか後ろにサトが立っていた。ソフトボール部で日焼けした肌からは、顔が青くなっているかどうか判断しかねた。
「そう言うつもりじゃ…」
加納友恵はサトが野田に片思いしている事を知っている筈だった。
「ハッキリ断った方がいいと思う。思わせぶりな態度って余計相手を傷つけるよ。それとも、加納さんは野田君のこと好きなの?」
ソフトボール部の部長であるサトは、物事を全てハッキリさせるタイプだった。
「違うよ。でも、断るのって悪くて…」
告白なんて儀式とは無縁な私とは違い、彼女は何度も経験している筈だった。それが、なぜ、今回に限り渋っているのか。野田がモテるからだろうか。サトが野田を好きだからだろうか。歪みきった私の発想は彼女をマイナスへと導いていく。モテて可愛い自分を周りにアピールしたいのだ。野田に告白されるなんてかなりインパクトがある。そして、遂に彼女は地雷を踏んだ。
「私なんて…、どこがいいのかな。全然可愛くないし、サトの方が凄く可愛いのに」
クラスでもリーダー的なサトを決定的に怒らした。誰が見ても可愛い加納友恵とサトなんて比べようがなかった。部活のおかげで筋肉質な上に、万年日焼けし、髪をショートカットにしているサトは男に間違えられることはあっても、可愛いなどと言う形容詞は用いられようがない。この台詞は私に対しても常に使われた言葉だった。
『舞子。私、さっきね。隣のクラスの男子にジッと見られていたようなの』
『それは、加納さんが可愛いからだよ』
『ううん。そんな事ない。舞子の方がずっと可愛いよ』
これが私と彼女のいつもの会話。始めに彼女が何の脈絡もなく、自分が見られていたという。次に私は彼女が欲しがる言葉を与える。そして、最後に『私はそんな自惚れていない』と私に知らしめる為に思ってもいない謙遜を言ってのける。だから、最後にサトをそんな風に傷つける事を半分予想して見守っていた。彼女は自分の優越感を満足させる為に他人の劣等感を刺激する。
サトは完全に加納友恵をシカトし始めた。可南子もサトの手前、彼女の声に反応することを止めた。そして、それはクラス中に感染した。以前、クラスの村井篤志と数人の男子が教室近くの廊下に設置してある火災報知器にライターを近付け、学校中に火災ベルを鳴り響かした事件があった。誰がしたかはクラス全員の公然の秘密だった。それを先生に暴露してしまったのが加納友恵だった。その時、彼等は煙草までも見つかってしまい。大変な騒ぎになった。彼女が先生にばらしたのをその時は黙っていたが、私は初めてその噂を流した。自分のクラス委員としての内申書を完璧にする為だったと付け加えて。クラスで彼女は完全に孤立した。彼女の一挙一動にクラス中が含み笑いをした。それでも、何も分かっていないのか彼女は私に明るく話しかけてきた。私は『…うん』とか、『ふうん』とか、曖昧な返事をし、その内、サト達に呼ばれ、彼女の元を去るのが常になっていった。そして、その状態は一学期最後の日まで続いた。
終業式の日。教卓に飾られていた花瓶が割れ、可南子が手を切った。教卓の側でふざけていた村井がぶつかって花瓶を割ったのだった。慌てて駆けてきた村井に可南子は顔を歪め『大丈夫。大丈夫』と笑った。傷ついた左腕を押さえていた右手の指の隙間から血が浸み出した。それを、見ていた加納友恵が小さな悲鳴を上げた。可南子の傷を自分のハンカチで押さえようとしたサトが不快げに彼女を睨んだ。しかし、顔を戻し彼女を無視した。サトはてきぱきとしていた。
「そんなに傷は深くないから、縫う必要もないと思うし、暫く押さえていれば、血は止まるよ。でも、とりあえず保健室行こうか」
村井もその言葉にホッとしたように座り込んだ。その時、
「ちゃんと可南子さんに謝りなさいよ!」
加納友恵の言葉がクラス中に響いた。
「…ごめんなさい」
村井が不機嫌そうに可南子に向かって言った。それを、言われた可南子も居心地悪そうに頷いた。そして、加納友恵はこの場の雰囲気さえ分かっていないのか独り舞台を始めた。
「可南子、大丈夫?心配だね。それにしても、サトって強いのね。私なんかちょっと血を見ただけで恐くって、恐くって…」
冷めた目でサトは彼女を見て、久しぶりに彼女に向かって声を出した。
「ふ〜ん。加納さんって、まだアレきてないんだ。私なんか、一ヶ月に一回血を見ているから、こんな少しの血なんて全然平気だけど」
クラス中にイヤらしい含み笑いが充満した。その意味を悟った彼女は白い顔を真っ赤にした。彼女にはちゃんと生理が来ていた。それを知っていてサトはからかったのだ。
「へぇ、加納はまだ女になってないんだ…」
含み笑いの中からどこからともなく聞こえた嘲りに皆が笑った。村井も、可南子も笑った。恥ずかしさに涙を溜めた彼女は、落ち着きのない目で何かを捜し始めた。横を見ても後ろを見ても彼女に向かうのは嘲笑だけだった。それでも、彼女は捜した。そして、彼女を取り囲む輪の一番後ろにいた私を目で捜し出した。
私は笑っていた。クラスの誰よりも嬉しそうに。そして、彼女と目が合うと私はさらに嬉しそうに笑ってやった。
いい気味。
私を見つけた瞬間に見せた加納友恵の表情。絶望とか悲しみとか、そんなモンじゃなかった。アレは、何も理解できていない目だった。どこが、どう間違って自分はこんな目に遭わなければならないの。そんな目だった。可愛かった彼女。成績がよかった彼女。クラス委員だった彼女。誰よりも優しく、正義感に溢れた彼女。そして、それを自認していた彼女。舞台は眩しすぎて観客の表情まで読みとれなかった。観客はウンザリしていた。他人の心を推し量れなかった。いや、分かっていると勘違いしていた。他人の心なんて分かる筈がない。10年以上の集団生活で自然に身に着けるべき事を彼女だけが知らなかった。
そして、それが彼女を見た最後だった。
「次の駅や」
おばさんが爪楊枝で歯の手入れをしていた。ソーセージのビニールの赤が三本ほど、黄色い蜜柑の皮の上にアルミホイルの銀色と共に鮮やかに彩りを加えていた。おばさんはエベレストを征服した充実感とかマラソンを走り終えた爽快感を漲らせた顔をするでもなく、ボストンバッグをまた漁っている。次は何を食べる気だろう。
「…次の駅で降りるの?」
「誰がそないな事言うたんや。ホンマはおばさんの事、邪魔なんと違うか〜」
「違うよ!」
思いもかけず、自分の口から強い否定の言葉が出た。おばさんは少しビックリして、少し笑って、少し肩を竦めた。それから、ボストンバックから黒いポーチを取りだし、一目を憚ることなく、化粧を直し始めたのだった。
加納友恵の葬儀が終わり、彼女の母は私を呼んでこう言った。
「ありがとう。舞子ちゃん。友恵の友達でいてくれて、本当にありがとう。舞子ちゃんだけが友達だと、…親友だって言っていたのよ。ごめんね。母親がしっかりしてないばっかりに。あの子に勉強、勉強って煩く言い過ぎたせいでこんな事になってしまって…」
「…遺書とかって」
母親は首を横に振った。彼女は泣きながら私の手を両手で握りしめ何度も繰り返した。
「本当にあの子の友達でいてくれてありがとう。ありがとう。ありがとう…」
葬儀場のある駅から帰るために電車に乗った。耳鳴りのように彼女の母親の言葉が響いていた。アリガトウ、アリガトウ
これも、演出なのか?もし、そうならば、最高の演出だった。加納友恵の最後の演出。彼女は自分の家族にまで自分を演出し、綺麗なまま、自分の最後を飾った。それは、最高の復讐だった。『笑う』ナイフで彼女を切り刻んだ私に、母親という機関銃で『アリガトウ』を撃ちこんできた。
「おばさん。自分を演出するってどんなの?」
「何やそれ。アンタ、芸人にでもなるんか?」
白い粉をパタパタと周りに飛び散らかしていたおばさんは手を止めて続けた。
「誰でも、多少は自分を演じとるわ。上司の前でぺこぺこすんもの演技やないか」
彼女に感じ続けた劣等感。傷つけられ続けた自尊心。彼女にはいない友達が私にはいる。そんな唯一の優越感を守りたかった。そして、彼女の自尊心を私にしたと同じように傷つけたかった。しかし、加納友恵は何一つ悪い事をしていない。もしかしたら、演出などしていなかったのかもしれない。だったら、私は取り返しのつかない事をしてしまった。もう一つの声が言う。その不安、恐怖こそが彼女の復讐だと。でも、彼女は何も分かっていない目をしていた。なら、それも、演技だった、と。自分の歪みきった思考回路。捨てたい。こんな自分、嫌だ。
「全く素のままに生きられるヤツには憧れるわな。だが、全く自分を捨てるヤツもおらへん。 そうなったら、…そうせざるえんくなったら、しんどいでぇ〜。おばさんが言うんやから、間違いないわ」
おばさんがすっかり化粧直しを終える頃、電車はスピードを落とし停車した。車内の騒音に野太い笑い声が加わった。数人の男子高校生がドア付近を占領したようだった。そして、また、電車は次の駅を目指した。
「ナァ、アンタ。あそこの高校生。ほら、あの青いジャージの男、カッコええと思えへん?アタシが、もう、30年遅く生まれとったら、絶対ナンパしとったわ〜」
おばさんは私の肩越しを指差し、ウキウキしたようにはしゃいだ。30年遅く生まれるなら、ついでに顔も変えるべきだと思った。
「アンタ、今、人の顔見て、何思ったんや?フン。…全く、あのやぶ医者。もっと、上手く人の顔、作りやがれっちゅうんや」
どんな意味か分からないまま、私は自分の後方にいる高校生を見ようと腰を浮かした。青いジャージの男は、特にイイ男と言う印象は受けない。ちょっとがっかりし、腰を沈めようとした時、この空間には不似合いなスーツ姿の二人組が視界に入った。二人は私を見ていた。そして、私と目が合うと急いで目を反らし、持っていた新聞を読み始めた。
…警察?今まで考えなかった事が一気に私の中に押し寄せてきた。おばさんは始めに人を殺したと言った。地方を転々としていた。自分を捨てたと言った。顔を変えたようなことを言った。『後十一時間と六分でどこまで行けると思う?』それって、時効のこと?
私が席に腰を沈め、前を見た時、おばさんは未だ高校生の方を見てニヤニヤしていた。そんな事をしている場合じゃない。警察はすぐそこにいる。後ほんの十一時間ほどで時効が来るなら、若い男を見てニヤニヤしてる場合じゃない。逃げなきゃ!
「アンタ、エエ子や」
唐突におばさんは言った。チラリと横目で私を見、また視線を若い男に戻し、そのまま口を開いた。
「アタシの本名な、野際陽子っちゅうねん。笑えるやろ。あの大女優様と一緒や。顔は全然、似ぃひんかったけど、演技はお手のもんやで」
おばさんは楽しげに私に言った。でも、目は未だに高校生に向けられている。
「…昔な、チャチな男に騙されて、ヒロポンやって、気が付いたら男殺しとったわ。過去の自分から逃げて逃げて、それで、罪が消えるわけや無いのにな。檻に入るのが恐かったんや。自由を失うのが恐かったんや…」
高校生の笑い声が一際高く聞こえた。おばさんはそれに釣られたように笑う。
「ヒィッ、ヒィ。な〜にが、自由や。情けないわ。自分の一人息子にすら自由に会えんのに、何が自由なんや」
笑って崩れた化粧を、目から溢れた涙が洗い流す。私は席を立った。手首を強く掴まれすぐに席に戻された。
「何しようとしたん?」
「だって…、そこに。彼が息子なんでしょ!」
「黙っとき。人殺しのオカンが会いに来たよって言うんかい?」
「だって、でも、警察が…」
声を押し殺しながらも叫んでいだ。
「知っとるわ。だから、来たんやないの」
電車はスピードを落とし、ガタンと揺れ止まった。彼は何も知ることなく下りていった。
「あ〜あ。早いモンや。さっきまではあないに長ごう感じたのに…」
「自首して!少しでも罪が軽くなるよ」
「アンタがしよるなら、ワテもするで。アンタも人殺しなんやろ」
「する!約束する。だから、早く!」
「もう、充分でしょう」
静かに響いたのは低い男の声だった。二人の刑事が私達を静かに見下ろしていた。おばさんは腕時計に目を落とし笑った。
「後一〇時間二八分か…。ギネスブックに載っとるんわ何分や?」
「そんな記録はないと思いますが…」
「知っとるわ。アホ。ボケたらつっこまな。大阪やったら逮捕されるで」
刑事に悪態をついているおばさんに、私はポケットから昼間使うことのなかった白いハンカチを取り出し押し付けた。おばさんは『エエ子や』と呟いて、涙を拭いて鼻をかんだ。肌色のファンデーションと口紅と鼻水と涙がべっとり付いたハンカチを私に差し出した。
「返すわ」
「いらんわ。汚い。…洗って返してよ」
「…分かった。約束するわ。…そやから、アンタもさっきの約束守るんやで」
「…うん。約束や」
「アンタ、関西弁うつっとるで」
「ほんまや」
と言って私は笑った。
「やっと、笑いよった。アンタ、笑えへんさかい自分の笑いに自信なくしかけたんやで」
終着駅のアナウンスが流れている。ゆっくりとスピードを落とし、電車は駅に滑り込む。刑事は他の乗客に見られないようにおばさんに手錠をかけ、停止した電車からおばさんを連れ出す。私は呼び止めるように怒鳴った。
「待って。大切なこと訊き忘れてた。えっと、…あの、ヒロポンって何?」
「…覚醒剤のことや。シャブとか」
「広島のポンジュースかと思った。略してヒロポン」
「寒いわ。まぁ、それを言う勇気だけは認めたる。だが、ポンジュースは愛媛や」
そう言うと、おばさんは手錠が見えるのも構わず私の頭を両手で掻き回した。
「ほんま、エエ子や。オオキニな」
私の髪をグチャグチャにしたおばさんはグチャグチャの顔で笑った。
オオキニ、オオキニ…。
耳におばさんの言葉が張り付いていた。オオキニ…
電車はゴトン、ゴトンと規則的なリズムを奏で動き出す。私の心臓が徐々に速度を増すようにスピードを上げる。
帰ったら、話をしよう。親や友達と。そして、何故、彼女は死んだのか考えよう。
電車は徐々に近付いていく。私の場所へと。