友達2
「あっっっきれた話よ!」
これ以上ないくらい力強くガクは叫んだ。青筋を立ててデスクに拳を立てるほどの怒りだ。そのせいで重厚な渋い黒色のデスクが悲鳴をあげ、机上の書類をだばだばと落とす。それらを意に介さず、むしろ心外だといわんばかりの口調で柚希は返す。
「えー。良い話じゃん。お風呂にだって入れるよ?」
「あたしたちは身包み剥がされるどころか殺されそうになったって言うのよ! ねぇ、ココ、どう思う?」
ガクの自室には柚希以外にももう一人、客人が居た。ウーリエに住むガクの幼馴染みのココという少女だ。ココはどっしりとした革張りのソファに腰を下ろしており、いつも浮かべている微笑を苦笑に変えて答える。
「わたしは、良いアイデアだと思うよ。柚ちゃんに賛成」
「ほぅら!」
「ざっけんな! また今度この話シノにするからね」
「ちょっと! シノは絶対私の反対のこと言うに決まってんじゃん! 卑怯だよ!」
「勝ちゃいいのよ勝ちゃあ!」
シノが加わったところで二対二だという突っ込みを入れる者はいなかった。ガクの気焔にさしもの柚希も怯んだのか、ココの隣へ移動する。小柄な柚希と同じくらい小柄なココとなら、このソファに二人で座れる。若干窮屈にはなるが。
「ココぉ、ガクがいじめるよう」
「ココ、柚希を甘えさせちゃだめよ」
ココは困ったような笑みを浮かべ、ガクの言う通り柚希の味方にはならなかった。代わりに彼女の頭を撫でることで話をうやむやにさせる。
いつも通りだ。
この賑やかな空間が彼女は好きだった。
柚希はココの作ってきたお菓子を食べてご満悦で、ガクが独り占めさせまいとして、ココが笑う。
「でも、シノちゃんなかなか帰って来ないね」
柚希とガクの喧嘩が一段落したところで、ココが不思議そうな面持ちで言う。
「たしかにね。シノも柚希もふらっとどっか行くけど、なんやかんやで二、三ヶ月くらいで戻ってくるのに」
「あんなやつどっかで死ねばいい」
「死なないでしょ、シノは」
柚希の不謹慎な台詞に噛み付く者はいなかった。シノがうっかり命を落とすことなど有り得ない、と三人とも理解しているからだ。
シノは柚希と同じ森人だ。柚希曰く「生き汚い」、ガク曰く「狡賢い」、ココ曰く「慎重」な性格をしていて、敵やその環境が自分より格下のものでない限りは絶対に近付こうとはしない。三人の批評は森人としては褒め言葉でもあった。
そして、柚希とは犬猿の仲だ。これは以前に何かあったというわけでもなく、何故か互いに互いを嫌い合っていて、ガクやココが仲介しようとしたが無駄に終わった過去がある。そのためか、柚希よりひとつ歳上のシノは彼女より先に一人前の森人になり、柚希を嘲笑って旅に出た。それが半年に届かないくらい昔の話で、それ以来彼女は帰ってきていない。これが柚希であればガクもココも多少なりとも心配するのだが、シノに関しては生き抜くということにかけて絶対の信用があるため、心配する者は皆無なのだ。
シノの悪口を柚希が始め、ガクが諌めたり同情したりし、ココが微笑う。
いつも通りのガールズトークをしている内に時間は瞬く間に過ぎていく。ガクの背後に一枚だけある大きな窓からの斜陽が色を濃くする時間になり、ココがそろそろ帰らなきゃと口を開いた。
「もうちょっと居ればいいのに」
「なんであんたが言うのよ、あたしの家なのに。……ココなんだから仕方ないでしょ」
「あは、ごめんね」
ココは困ったように、憂いを帯びた瞳で笑いながら、ソファの左右にある松葉杖に手を伸ばす。柚希は場所をどけ、彼女が立ち上がるのを手伝った。ガクがその間に出入り口の扉を開ける。一連の流れは澱みなく行われた。
ココは身体障害者だ。エレメントによる緑化現象がもたらす障害で、生まれたときから片足が緑化して自由に動かせない。これは母親が妊娠中に吸収したエレメント量が多過ぎ、胎児時のココには耐えられなかったために起こった障害である。
通常であれば労働力のないココは口減らしのために殺されてしまうのだが、生後からしばらくウーリエの経済状況が良かったことにより、その憂き目に遭うことを避けられた。現在はウーリエとこの村兼任教師役であるガクと、さらには森人である柚希とシノの友人であるという理由で生きながらえている。
実際問題、身体障害者を支えるほど余裕のある環境でもないのだ。この村もウーリエも、話題となっていたサザビーズでさえも、ここ数年は余裕がない。それはサザビーズが町を訪れた旅人へ町ぐるみで盗人のような暴挙に出る理由と同じで、このセルロード地方一帯を縄張りにしている主が死去してしまったためである。
主、という単語が頭に浮かんだ瞬間、ココは震えた。
「大丈夫、ココ?」
「あ、う、うん……。ごめんね、柚ちゃん」
「それはいいけど……」
ココは柚希の心配そうな顔を見て申し訳なく思う。
主とは、端的にいうなれば超強力な緑持ち、といえるだろう。
緑持ちは一定箇所に長く居れば他の緑持ちを誘き寄せてしまうため、常にある程度の範囲を移動して生活する。しかし、主はこの括りに含まれない。範囲は様々だが、己に見合った範囲を縄張りとしてそこから離れないのだ。主の性格にもよるが、セルロード地方を縄張りにしていた主は気性が穏やかであったらしく、むやみに荒らさなければ人間や他の緑持ちが勝手に縄張り内に入ってきても気にしなかった。
その主が死去してしまい、セルロード地方はこれまで以上に緑持ちが跋扈する環境になってしまった。そのため木材などを取りに行ったり、獣を狩りに行くということですら結構な困難になってしまっている。
ウーリエでは何度もココを口減らしにしようという声が上がったが、人間の緑持ちである森人の柚希やシノが彼女の友人であることからそれは却下されている。何かあったときにほぼ無償で力を貸してくれる森人など、この世にはほとんど存在しないからだ。
しかし、それ以上に――ココは主の死を悼んでいた。
「わたしね……」
「うん?」
ガクの村からウーリエまで、柚希はココの護衛を務めていた。
いつものことだが、それがいつものことになった出来事をココは語る。
「前に言ったじゃない? ガクちゃんのとこに行こうとして、獣に襲われそうになったって」
「ああ、言ってたね。それからだったかな、私かシノがいなきゃ会いに来ちゃ駄目ってガクが言ったの」
「うん……」
ココからすれば、自分の村だけでなくウーリエの村にまで出張教師として一人でやってくるガクはどうなのかと言いたいが、彼女はきっと「あたしは五体満足だから」と言うのだろう。しかし、身体障害者だろうと五体満足だろうと、獣に襲われればほとんど違いなどない。無力で弱者な人間はあっさりとその命を散らしてしまう。
「あのとき、獣とかがどこかに行ったって言ったけど、本当は違うの」
「えっ。そうだったの?」
ココはくすりと微笑った。ガクは気付いていたようだが、自分たちより遥かに過酷な環境で生きているはずの柚希が気付かなかったらしい。
抵抗もできない、狩るも容易い獲物を前にして獣がそう簡単に引き下がることなどほぼ有り得ないというのは、自由に動き回ることができないココにすら当たり前の常識だ。それを疑うことなく信じるというのはただの馬鹿か、言うことを素直に信じる善良過ぎる者のどちらか。
柚希は間違いなく後者だろうとココは思う。なにしろ、自分たちの身包みを剥いで殺そうとする人間を恨まないような人物なのだから。
ゆっくりと風が吹く。少しずつ季節は夏に向かって動き出していて、暗くなりかけている黄昏時であるというのにそれほど寒くない。ちかちかと輝く星々の煌めきはココにとって手の届かない遠くのもので、それに似た輝きを思い出す。
だからだろう、柚希にこのことを話そうと思ったのは。
松葉杖でも歩きやすいこの土道は、ガクも含めた大勢の人々が踏み固めてきた道だ。ココはそういう道を外れることなどできない。片足が自由に動かない状況では、たとえ柚希のような森人の護衛が居たとしても樹海に入ることなどできないのだ。
決められたレールの上しか歩けない。自由に歩くことができない。
だから、既に誰かが知っているものしか手に入らない。
それを当然のものとして受け入れてきた。みんなに迷惑をかけて生きているのだ。諦めよりも先に申し訳ないという感情が芽生えていた。だから余計なものを背負い込むことなどしてはならない。
そう思っていたのに……ココは出会ってしまった。
この、誰もが踏みしめてきた道で、未知の存在と。
――ソレを、彼女は美しいと思った。
血に飢え、餌に飢え、涎を垂らす群狼を前にし、ココはすうっと諦めた。
ここまでの命だったのだと。いや、よくもここまで生き延びたな、と。
だって、生まれてすぐに殺されていても仕方なかったのだ。だから、いつ終わりが来てもおかしくないと思っていたし、後悔はなかった。
しかし、後悔がその瞬間に生まれた。
群狼を引き連れていた、その雄大で神々しい姿に。
『止めよ。其の様な獲物を狩っても己が誇りを傷付けるだけだ。我が眷属なればこそ、爪牙の先は誤るな』
それは白銀の体毛を持つ巨狼だった。
瞳は満ちた月の如く輝き、夏の青々とした葉々より濃い深緑色。
思わずココは身を投げ出し手を組んだ。彼は女神の使いなのだと思った。
『ハ、脆弱な人間風情が我を前に頭を垂れるか。其れは命乞いか何かか?』
問われる。ココは自分でもここまではっきりとした声を出すことができるのか、と驚くほどの声音で答えた。
「いいえ。ただただ美しいものを前に、どうしてわたしなどが頭を高く上げられるでしょう」
『ハ、ハハハッ! 我を前に美しいとは。矢張り、人間と云う生物は面白い。理解の範疇に収まらんな』
銀狼は愉快痛快とばかりに笑い、一転して穏やかな声を返す。
『……其の感慨に免じ、貴様らの住処を我が眷属が襲う事は今後無くそう。努々、忘れぬ事だな』
そう言って、銀狼は自身の眷属を引き連れて去っていった。
それからずっと、ココはあの深緑色の瞳を忘れられずにいる。
「その銀狼が主だったんじゃないかってこと?」
「うん。でも、直感的にそう思っただけだから違うかも」
ココは自信なさげに柚希の問いに答えた。
「んー、たぶん当たってると思うな。私は会ったことないけど、だってすごいかっこ良かったんでしょ? それに、狼なのに喋れるっていうのもアレだし……主なら色々と納得できるし」
柚希の信じる根拠は、ココがそう思ったからというのが大部分だった。しかし、その銀狼が主なのだと信じ切っているココからすれば、その理解はとても嬉しかった。
「だから、また会ってみたかったの。それで、あのとき見逃してくれた御礼を言いたくて」
「そうなんだ…………」
柚希はうぅんと少し唸り、それからココへ破顔してみせる。
「ならさ、私が探してみるよ!」
「……へ?」
「もし主だったら、まだ亡骸が残ってるかもしれないし。主じゃなかったら生きてるかもしれないしさ。それで、私の友達を見逃してくれてありがとうって言ってくる!」
その提案はあまりにも魅力的だった。だがしかし、とココは思う。
「でも、危ないよ?」
「危ないのはいつもだよ。一年中危ないもん。一番危ないのはみっちゃんが一緒にいるとき」
「けど……」
冗談を絡めて柚希は言うが、それでもココの顔は晴れなかった。
柚希はココにとって掛け替えのない友人だ。それは彼女が森人だからという理由ではなく、彼女が彼女であるからという理由で。
ガクと出会ったときは彼女もまだ幼く、片足が動かないことについて聞いてきた。シノは哀れみが少しある顔だった。
しかし、柚希は違った。
彼女だけは「へー、そうなんだ」とあっさり済ませ、それ以上にココの作ったお菓子に魅力を感じていた様子だった。それが信じられないほどに嬉しく、だから柚希が来るときのためにココはお菓子作りのレパートリーを広げようと模索するようになった。いつからか、それは彼女にとって数少ない生きている理由になったのだ。
だから、そんな友人に危険な場所へ行って欲しくなどなかった。
けれど、あの銀狼へ感謝の意を伝えたかったのも本当だ。
どっちつかずの気持ちにオロオロしているココを尻目に、柚希はもう決めた様子でいろいろ考えている。
「や、やっぱり駄目だよ柚ちゃんっ。いいから、もう、それは……」
「なんで?」
「危ない、から……」
「だからさー、危ないのなんていつもなんだって。ガクには話してないけど、この間遺跡に行ったときだって、実は熊の緑持ちに襲われそうになったんだもん」
「えぇっ!」
ココは双眸を見開いた。柚希は笑い、だから大丈夫だよと告げる。
「あのときもなんとかなったし、今回もなんとかなるって。きっと」
「そんな無茶苦茶な……」
「無茶苦茶って言うなら、私の師匠のみっちゃんの方が無茶苦茶だよ。正直、あの無茶苦茶加減に比べたら今回のなんて余裕過ぎるね!」
顔を蒼褪めさせる柚希だが、ココはそれでも引き下がろうとはしなかった。何故か今度は柚希の方が困った顔になる。もう柚希の中では決定事項のようだ。こうなると頑固なのはココも知っていた。それが原因でシノやガクと喧嘩することもしょっちゅうだ。
「あ、それならさ!」
柚希は目を輝かせながら言う。
その翠緑色の輝きがどこか銀狼の瞳と似ていて、ココは思わず声をなくした。
「ココがお菓子作って待っててよ。それも力作! そしたら私、たとえ死にそうになっても帰ってくる自信あるよ!」
それは……とココも考える。
確かに、柚希ならそれだけを理由に帰って来そうではあるのだ。
なにしろ、身体障害者というのはこの世界で邪魔者でしかない。それはシノが初対面で浮かべた表情のとおり、人間だけでなく森人にとっても常識だ。
けれど――柚希はそんなことよりもココの作ったお菓子の方に注目した。
そんな彼女だからこそ、と思ってしまうのは仕方のないことだ。
ココだって、あの銀狼に感謝の意を伝えたい気持ちは本気で本物なのだから。
「それ、じゃ…………お願い、できる?」
「うんっ」
「あ、でもっ。無理は、しないでね。本当に……」
「しないしない。お菓子食べたいし」
絶対に生きて帰ってくるからねと言って、柚希はココをウーリエに届けてから慌ただしく樹海へ向けて走っていった。
「…………わたし、だめだなぁ」
ココの瞳から涙が零れ落ちた。
片筋は後悔で、片筋は希望だった。