緑持ち
簡単に言ってしまえば超人である森人ならばともかく、人間が樹海を探索するには相当の用心が必要だ。
大人しいとされる苔豚でも中には気性の荒いものだって当然存在するし、そういう輩に襲われればひとたまりもない。苔豚でなくとも、樹海に危険な生物など星の数ほどいる。
ガクは一応革の軽鎧を装備しているが、かといってあの苔豚に踏み潰されたなら革鎧にどれだけの効果があるかは疑問だ。
しかし、実際にこの世には樹海を探索する人間も居る。彼らは一般的にハンターと呼ばれ、近接戦闘や魔法の技能を有している。またハンター以外にも樹海を行く者がいる。村々や町、様々な国を旅する行商人などだ。彼らはハンターや森人などを護衛として雇って旅していた。
ではガクの場合はどうかというと、彼女はそのどちらにも当て嵌まらない。彼女は自称ではあるが考古学者なのだ。きちんとした師に教わったわけではないのでなんちゃって考古学者ではあるが、自称なので問題ないと言い張っている。ちなみに対外的な彼女の職業は教師である。
ガクの夢は神代と呼ばれる古代の遺跡を探索し、その謎を解明させることだ。もっとも戦闘力など欠片もないため、行商人などが行うように、友人であり森人でもある柚希に護衛を依頼している。
森人はほとんど人間と見た目に違いはない。飛び抜けて背が高いわけでも筋骨隆々なわけでもなく、むしろ柚希にいたってはほぼ同い年であるガクよりも背が低い。本人は決して口にしないが。かつてガクが訊ねたときは「……150センチ」とサバを読んだ。
そんな森人が超人的な身体能力を有している理由が、大気中に流れている不過視レベルの小さな物質エレメントだ。
エレメントは人間などにとっては緑化現象をもたらす害悪な物質だが、森人は逆にそれがなければ命を落としてしまう。個人によって様々だが、彼らは身体のどこかに核と呼ばれるエレメントを貯蔵する臓器を持っており、人間とは桁外れのエレメント保有量を持つ。
エレメントを利用することで魔法と呼ばれる不可思議な現象を起こすことが可能になり、また体内のエレメントを循環させる速度を早めることでより身体能力を強化させることができる。これらが森人を超人足らしめている要因だった。
エレメントは基本的に呼吸によって体内に取り込まれ、森人の場合は微量ではあるものの、皮膚からもエレメントを吸収する。さらに、エレメントはより密度の高い空間へ流れ込む性質を持っているため、森人とともに居れば人間が緑化する可能性は非常に低くなる。具体的にいうと、ガクに流れるはずのエレメントが柚希に吸収されるのである。
「理屈はわかるんだけどさあ」
柚希がもう我慢ならんと言いたげに眉を逆立てた。
「だからってひっついて寝る必要なんてないでしょ!」
「ややや喧しいっ! 獣とかが聞いてたらどうするのっ」
普通に怒鳴る柚希に対して、ガクは小声で怒鳴り返すというどこか矛盾した行動を取った。
「もー。やめよーよー。暑いよー」
「文句言うんじゃないわよ。あたしも暑いわよ」
「もう卯月も終盤だよ? もうすぐ辰月だよ? そろそろ暑くなるんだよー?」
「だから何よ。樹海は陽が射さないから寒いでしょうが」
「いや、それはそうなんだけどさ……。まさかここまでべったりくっつかれるとは思ってなかったからさぁ」
現状、柚希はガクに抱き付かれていた。より正確に言うなら、むしろ張り付かれていた。身体の前面だけでいうならくっついていないところの方が少ないくらいだ。
ガクが今回目指している遺跡は柚希のような森人であれば数時間以内に往復できる距離だったのだが、彼女は木の枝を飛び移るレベルで計算しており、人間であるガクを連れていては一日掛かっても辿り着くことは叶わなかった。恐らくガクの村へ帰るのは二日か三日は後のことになるだろうと柚希は予想する。
そうこうしている内に日も暮れてしまい、樹海で野宿するはめに陥った。柚希は普段から森を寝床とする森人であるためどうってことないのだが、そこそこ安全な村で雨風を凌げる家の暖かなベッドで夜間を過ごすガクには中々高過ぎるハードルだったらしい。一度も襲撃を受けていなかったならまだマシだっただろうが、彼女たちは苔豚と遭遇してから野営に入るまでさらに三度の襲撃に遭っている。苔豚が二回と、狼の群れが一回である。野営に入ってからは二度。こちらははぐれ狼一匹と虎一匹。案外焚き火というものは野生動物に効果がないのだとガクは学んだ。どうりで柚希が火を点けると聞いて怪訝な顔をしているものだと納得した。もちろん、その後で「先にゆえー!」「ぎょえー!」と彼女の首を絞めたのだが。
「それに、こんなにくっついてたらいざというとき動けないよ」
「あたしを抱えて飛びなさい」
「そんな無茶苦茶な!」
「あんたならできる!」
「う、うおぉ……。なんだろう、この妙な信頼は」
はあ、と嘆息して柚希は諦めることにした。実際、ガクの言うとおり、彼女を抱きかかえたまま跳ぶことはできる。しかし、問題は襲撃してきた獣の速度だ。ガクと離れていたなら彼女の壁になることもできるのだが、この状態では無理だろう。
「ま、油断しなけりゃいいだけの話だもんね」
「な、なに? 油断したらえらいことになるの?」
「まぁ、そこまで大したことじゃないかな。私とかガクの名前がエサになっちゃうくらいだよ」
「十分大したことじゃないっ」
あっけらかんと言ってのける柚希と対照的に、ガクは恐慌状態に陥った。少々面倒くさくなってきた柚希は手っ取り早い解決法を取ることにする。
「ていっ」
「いった! 何すんのよ!」
「あれ? 気絶しない……おかしいな、夜さんに教わったのにな。そいっ」
「いだいって! だから何を——」
「いい加減気を失え!」
「ぐはっ!?」
手刀で何度も首の裏を叩いて昏倒させる。ぐったりとしたガクを危うげなく抱え、柚希は立ち上がった。
「だから、今攻めて来たら、本気で抵抗するからね」
柚希はゆっくりと隙を見せないように物陰に立つ何者かから距離を取った。
「別に私たちを食べなきゃなんない理由なんてないでしょ。私もあなたを殺すつもりとかないしさ。ここは争い事なしでいかないかな?」
物陰から姿を現した者は、人間とは似ても似つかぬ異形だった。
灰色の硬い体毛。筋肉の肥大した巨大な体躯。人間の肉どころかそこらの大樹ですら一撃で薙ぎ倒せそうな大きな黒々とした爪。
灰色熊だ。
それもただの灰色熊ではない。二本足で立ち上がると体長は五メートルに届こうというほどであり、その瞳は緑。碧眼ではなく、翡翠色の鮮やかな緑。柚希の瞳のそれと同じ色。
柚希と同じく、エレメントを溜め込む核を持つ生物――緑持ちである。というよりそちらが正しく、人間で核を有した緑持ちが森人と呼ばれているに過ぎない。
緑持ちは「人的排除可能な天災」と呼ばれるほどの戦闘力を持っており、もしもこの灰色熊がガクの住む村を襲えば誰一人として生き残ることは叶わないだろう。
しかし、緑持ちは身体能力が強化されただけの生き物ではなく、知能も優れる。発声器官が人のそれとは違うので流暢に喋ることは不可能だが、人間や森人の言葉を解することくらい当たり前の話だ。
それだけ高い知能を持つため、村落の人間を襲う緑持ちは稀だ。そんなことをして狩り残りが他の連中を連れて来た場合、面倒事が続いてしまうのだから。
そもそもそこまでしなくても樹海ならば獲物は溢れている。なので普通の緑持ちはわざわざそんな苦労を負うことはなく、人間や森人と同じように、普通に森に住む生物を狩って食べている。
灰色熊は柚希を嗤うかのようにフゴッと鼻息を鳴らすと、その場を立ち去って暗闇の中へと飛び込み、悠然と去って行った。
「あの態度……別におまえがここら一帯の主ってわけでもないだろうに偉そうな」
不服そうに鼻息荒く吐き捨て、柚希はガクをしっかりと抱え直した。
「ちょっと……この場に居座るのはまずいかな」
緑持ちは一カ所に留まり続けるとエレメントを引き寄せすぎる。そのため他の緑持ちも誘き出してしまうのだ。ほんの僅かな時間とはいえ、この場には柚希と灰色熊と二体の緑持ちが集まったことになり、エレメント密度が局所的に高まってしまった。このままではさらに襲撃を受けるのは明白であるため、柚希はすぐにこの場を離れることにする。
「エレメント密度の薄いところ、か。どこかなぁ」
ガクを抱えた状態で木々を飛び移るのはまずいだろうと思い、柚希は足早に駆け出した。その直後、額に何かがぴたっと当たる。
「うぇ、雨?」
タイミングの悪いことに、枝葉を通り抜けた雨粒が降ってくる。葉を揺らして降り注ぐ雨はだいたいが大粒で、激しくはないものの鬱陶しいのは確かだ。
柚希は考える。雨宿りができて、野生の獣などから襲われ難い場所。
「……思い至るのは、あそこしかないんだけど」
ガクにその話をした理由も雨宿りが原因だったなあと思いながら柚希は樹海を駆ける。
目的地は彼女たちが当初から目指していた場所。
神代から緑に覆われつつも、今なお残る遺跡だった。
雨は時間が経つほどに勢いを増した。何重にもなった木の葉を潜り抜けて地上を叩く雨粒も多数ある。雨の臭いに湿った土の臭いが合わさり、土の中や苔むした軽岩の中に隠れ住んでいたカエルやミミズなどが顔を覗かせる。景色は白く濁り、まるで霧のように先を見通せなくなる。
「遺跡に着く前に雨脚が強くなったときはどうなることかと思ったけど……いい場所が見付かってよかったー」
樹海の木々は一本だけでも巨大なものが多いが、そればかりではない。村や町の近隣にあるような十数メートルほどの高さの木だって当然存在する。もっとも、そういった木々は大地に根を張った木の上にさらに新たな木が生え、またその上に……といった具合で重なり合って多層構造になっている。
こういったものを森人やハンターたちは棚木と呼んでおり、今回のように急な雨のときの避難場所になる。木自体が傘の役割を果たしており、それが重なっているため、枝葉の真下に入るとほとんど雨は当たらない。幹はというと、上から下へと雨水が滴っていくため、寄り掛かることは避けた方がいい。
「急な雨って嫌になるなぁ。動けないし、心細いし……」
柚希は眉を下げて嘆息混じりに呟く。
ざあざあと音を立てて降り続ける雨は植物にとって恵みなのかもしれないが、根無し草の森人にとってはありがたいものではない。もう少し南に行けば水場も少なくなってくるので雨を喜ぶかもしれないが、この辺り――セルロード地方では水が豊かで川も多数あるため、厄介なだけだ。
「ふう……」
ちょうど落ち葉が積もっていた場所を見付けたので葉を蹴ってどかし、そこへ座る。同じようにしてガクを座らせて自分の肩へ体を預けさせる。じんわりと、衣服越しに彼女の体温が柚希へ伝わってきた。
「あー、でも、うん。今日は、まあいいかな」
寂しくないし、と漏らす。
ガクは穏やかな寝息を立てている。普段は安全な村で暮らしているのだから、今日のように常に危険に晒されてしまうのはかなりのストレスなのだろう。柚希も雨に濡れまいとそれなりの速度で走ったのだが、ちっとも起きる様子はなかった。
「友達だし。絶対守らなきゃ」
森人にとって毎日の睡眠は必要不可欠というわけではない。もちろん毎日一定時間の睡眠を取った方が良いのは当然だが、二、三日に一度程度でも十分身体は動く。
これだけの雨では視界に頼らない方が良いと判断し、柚希は目を閉じることにした。聴覚に集中し、接近するものを察知することにする。眠らないようにするため、数分ごとに目を開けて交互に手をぎゅっと強く握る。
「うん、寒くない」
呟く声は、ガクの寝息と同じくらいに穏やかだった。