第六話 朱い目の悪魔
真紅と呼ぶには明る過ぎ、単純な赤というには深みのある色合いはまさしく鮮血と例えるべき色だった。
その忌むべき色を、ギルは両目に宿していた。
「何だよ……それ」
リディンは返す言葉を見つけられなかった。
冗談と笑い飛ばしたくとも、目の前に証拠を突きつけられてしまっては、否定のしようが無い。
しかし同時に、リディンはギルが今まで仮面を人前で決して外さなかったことに納得した。
悪魔の目が赤いことは子供だって知っている。逆に、それ以外の情報は皆無と言っていい。かろうじて、悪魔たちの王――つまり魔王が世界を滅ぼそうとしているという噂があるくらいだ。
悪魔の具体的な能力、容姿、対抗手段といった情報は不思議と全く知られていない。しかし、悪魔というものが存在することに異を唱えるものは誰一人おらず、赤に近い色彩の瞳を持つ者は社会的に忌避される傾向にある。
この辺りでは珍しい純品の黒髪に仮面という組み合わせは恐ろしく目立つが、素顔を見るまで誰も悪魔だとは気付かないだろう。実際、一緒に飯を食べていたリディンでさえ全く気付かなかった。
もし町の中でギルが悪魔だとばれてしまった場合、モンスターの襲撃の前に、町が壊滅していた可能性もあった。
何しろ、モンスター三体をあっという間に片付けてしまうほどの実力を持っているのだ。自警団を叩き潰すついでにケアリアの町を崩壊させるのも容易いに違いない。
町中でギルが自警団と正面からぶつかっていたら……と考えると、リディンの背筋を冷たいものが流れた。結果的に、リディンがパーシェに返り討ちにされたのはよかったのだ。
一方、ギルはまだ現実を受け止めきれていないリディンに背を向けると、自分が倒した巨鳥の元に歩み寄った。
一頭は泡を吹いて完全にのびているが、まだ意識のある二頭は傷付いた足で立ち上がろうと必死になっていた。
ギルの接近に、巨鳥たちは嘴を鳴らして威嚇する。
ギルは巨鳥に手が届く一歩手前で足を止め、仮面を持った右手を水平に持ち上げる。
仮面は手を離れ、地面にぶつかって乾いた音を立てた。
「無駄に足掻くな、寝てろ」
そう言って、ギルは右手の人差し指で親指の爪を弾く。
親指の先がが赤く光り、きらきら輝く粉が巨鳥の上に降り注いだ。赤い粉を浴びた二頭の巨鳥は、倒れ伏して動かなくなった。
続いてギルは槍の石突きで地面に文字を書き連ねる。相変わらずの下手くそな文字で、リディンが辛うじて読めたのは冒頭の『月』という単語だけだった。
文章を書き終えると、ギルは槍を地面に垂直にたてた。
「『――』」
ギルは、戦う前と同じように喉の奥から唸り声を絞り出した。声に共鳴するように虚空から黒い紋様が現れ、元からそうであったかのように槍の鞘の上に定着した。
黒い紋様が付加された槍を、ギルは天空に向かって突き上げる。すると、黒い文様は鞭の棘と同じように朱色に輝き始めた。
朱色の輝きは鞘全体に広がり、次第に先端が尖って鞘の上に擬似的な刃を生み出す。
――チッ
微かな音と共に、刃は朱い稲妻となって天空を駆け上った。
槍の先から発生した朱い雷光はリディンの網膜に焼き付き、軽い目眩と確かな既視感を引き起こした。
そう、確かにリディンは同じ朱い雷を見たことがあるのだ。それも、遠くない昔に。
「朱い雷……あの時の!」
糸口さえ掴めば、後は簡単に思い出せた。
ギルが現れる二日前、リディンは町の城壁の上で朱い雷を見ていた。そして、その不自然な雷を見てリディンは単身雷の落ちた方へと急行したのだ。
一人で何とか出来ると思った訳ではないが――何を何とか出来るというのだろうか?――それは、リディン以外に対処できる者がその場にいなかったからだ――対処?――リディン以外に、『抵抗力』を持った者は今の自警団にいないのだから――『抵抗力』? いや、確かそれは緩衝圏というものだったような?
記憶に空いた不自然な穴にリディンは気付いた。考えれば考える程、頭の中に思い浮かんだ言葉の意味が全く分からず、思い起こした過去の行動にまるで自分らしさを感じる事ができない。
しかし、どの行動も自分らしく動いた結果の筈なのだ。町の人々を無法者から守りたいという意思から――――『無法者』?
無法者という単語が頭に引っかかる。
何故、今自分はモンスターから町を守ろうと考えなかったのだろうか。
「そうだ……そうだった」
今度こそ、リディンは全てを思い出す。
十五年前、十九歳のときに自警団に入った時から、リディンは無法者に立ち向かっていた。
そこから先は、どうして今まで思い出せなかったのか不思議なくらい記憶が容易に引き出せた。
ギルの奇妙な言い回しに下手くそに見える文字、見覚えの無い看護婦、誰も住んでいない通り、書斎の棚に残された本、獅子のタペストリー、そして家を手放したくない本当の理由……
どの記憶も絶対に忘れる事が無い筈のものばかりなのに、ついさっきまでリディンの中から完全に抜け落ちてしまっていた。
自分が『非常によくあるまともでない生まれ』で、大切な任務を負っていることを覚えていないままこの数日間生活していたなど、思い出した今となっては恐ろしい。
「急いで離れるぞ」
一人、驚愕の事実に打震えているリディンに背を向け、突然ギルが再び森の中へ飛び込んだ。
「あっ、おい、待てって!」
物思いに耽っていたリディンは完全に出遅れてしまい、ギルの後を慌てて追ったが既にその姿は遥か彼方にあった。最早リディンの目にはギルが点のようにしか見えなかった。
明らかに先程よりも速い。どうやら戦闘で身体が解れて無意識にとばしているようだ。
「置いて、行くなぁーーーーっ!」
リディンが渾身の力で叫ぶと、ギルはぴたりと足を止めて振り向いた。そのまま、リディンが木々の間を縫って走ってくる様子をじっと見て追いつくのを待つ。
少々の時間を要してリディンがギルに追いついた時、リディンは肩で息をしていた。
仕事上、リディンも体力はそれなりにある方だと自負しているが、防具を着ている上に剣と盾を背負った状態で何回も全力疾走をすれば、さすがに息も切れる。更に言うと、リディンは今日まだ何も食べていない。これ以上の行軍は難しかった。
「悪い……ちょっ、ちょっとでいいから休ませてくれ」
リディンが膝に手をついて息を吐いている様子に、ギルは休憩をしないわけにはいかなかった。
「ほら」
ギルは自分の小さな荷物から水筒と兵糧袋を取り出すと、リディンに向って投げた。
「有り難く貰っとくぜ、と」
リディンは空中で両方ともうまく掴み、水筒から水を一口飲んだ。がぶ飲みしたいところだが、いつ帰れるか分からない現状では大切に飲まないといけないので、その衝動をぐっと抑え込む。
潤った口に石のように硬く焼き上げた乾パンを放り込み、唾液と水で柔らかくしてなんとか噛み砕き胃袋へと送ることを三回繰り返し、リディンはようやく一息ついた。樹木に寄りかかって体力を回復させることに専念する。
もう一口だけ水を口に含むと、リディンは水筒と兵糧袋をギルに投げ返した。
兵糧袋を受け取ったギルも水筒から水を飲み、乱雑に袋に手を突っ込んで乾パンを掴み出す。自分の口に乾パンを二枚咥えると、乾パンが水分を吸収して柔らかくなる前に噛み砕き、ばりばりと派手な音を立ててあっという間に食べきってしまった。
「……」
ギルの獣じみた食べ方にリディンはしばし絶句したが、顎の力が相当強いんだなと思う程度で思考停止して深く考えないことにした。
リディンは自分でも驚く程落ち着いていた。一日の間に此れだけのことが起こればパニックにならない方がおかしいし、常人なら悪魔の元から一刻も早く離れたいと思うだろう。しかし、リディンには休憩を取る精神的な余裕があり、別段ギルを拒絶する感情は沸き上がらなかった。
さっき『色々と』思い出したこともあるが、リディンの生来の聡明さと冷静さが幸いした。
ふと、リディンはギルの顔を盗み見た。
きりっとした黒い眉。朱い双眸は感情が薄く、眉間には僅かに皺が寄っている。
仮面を外したというのに、まだ仮面を被っているのではないかと疑ってしまうほどギル・レージィの表情は薄かった。
どこか作り物にも思えるギルの顔を観察していて、リディンの中でとある疑問が沸き上がってきた。
「おい、一つ聞いていいか?」
「何だ」
ギルは仮面のような表情を崩すこと無く応じた。
「お前一体いくつ?」
リディンの一言で、ギルの表情にひびが入る。が、ぐっと堪えて無表情を貫き通した。
「……いくつに見える」
リディンは改めてギルを観察した。
上を向いた癖っ毛のおかげで目立たないが、ギルの背丈はそれほど大柄でもないリディンよりも若干低かった。まだこれから成長するとも既に頭打ちになっているとも取れる微妙な身長だ。
体格はリディンよりもがっしりしているくらいで、大人と言っても差し支えない。
ただ、くりっとした大きな赤い目のせいで何処か無理に背伸びしているような印象を与え、実際子供のような浅い言動が垣間見えることがあった。その点を踏まえて考えると、『ヒト』で言うところの――
「十五、六くらいか」
「誰が童顔だ!」
リディンの言葉に対して、反射と言っていい程の勢いでギルが怒鳴った。努力虚しく、仮面の表情は砕け散ってしまった。仮面が砕けてしまった後の顔もどこか覇気が無いように見えたが、むっとした様子には青年というより少年を思わせる無邪気さがあった。
「これでも俺は……あ、えーと」
何故かそこで言葉を詰まらせ、ギルは目を泳がせた。指折りで何かを数え、確認している。
しかし、途中で数が分からなくなったのか、手を開いて再び数え直すことを繰り返している。どうやら、数字に滅法弱いらしい。
「…………確か、えーと……十九歳だ!」
リディンが冷めた目で見つめる中、四回数え直してようやくギルは結論に辿り着いた。
「色々と説得力ないぞ、それ」
ギルの努力の結果を、当然の如くリディンはばっさりと切って捨てた。
歳を若く見積もられて怒ることが子供っぽいのは置いておくとしても、威勢がいい割に自分の年齢で口ごもるのは明らかに変だった。さすがは『田舎もの』だな、とリディンは思った。
「どうせそれも嘘だろ」
「う……」
実に分かりやすくギルは固まった。
リディンは寄りかかっていた木から離れると苦笑いをした。
「ま、純血種は『ヒト』の年齢に例えるのが難しいからな。それでももう少し嘘が上手くなった方がいいぞ」
リディンのその言葉に、ギルは目を見開いた。
「思い出したのか!」
「ああ、大体な。それで、だ――」
リディンはギルの肩にそっと左手を置いた。そして、逃げられないようにあらん限りの力を込めて肩を掴んだ。
右腕を振り上げて拳を作り、リディンはきょとんとしたギルの顔を思い切り殴る。
バチッ
リディンの拳が頬に当たる寸前で琥珀色の光が弾ける。光はギルの顔を後方へと吹っ飛ばし、それに追随する形で身体も大きくよろめいて後ずさった。
リディンが『ヒトならざるもの』の血を引いているが故に可能な技であり、『ヒトでは無い』ギルにも十分通用するものであった。
「取り敢えず、これでここ数日の茶番劇は無かった事にしてやる」
若干怒りの篭った静かな声で、リディンはきっぱりと言った。
今リディンがギルに放った一撃は防護用の手袋で殴るよりも強い程度で、表面的な衝撃は精々鋼の手甲くらいしかない。
しかし、この攻撃は頭に打ち込む事で最大限の威力を発揮し、大抵の相手なら一撃で昏倒させる効果がある。そもそも、この技は安定剤が無い時に錯乱した怪我人を無理やり寝かしつける(?)ためのものであり、鬱憤晴らしに相手にぶつけるものではない。
もちろん完全に失神しないよう加減はしたし、リディンもギルがこれくらいで倒れるような輩ではないと確信しているからこそ、常人相手には躊躇う技を躊躇い無くぶっ放している。
案の定、ギルは数歩後ずさっただけで踏み留まり、頭を左右に振って目眩を吹き飛ばした。殴られた左頬は赤くなっているが痛がる素振りを全く見せず、ギルはそのままリディンに真顔で向き直った。
「一発でいいのか」
「……は?」
「別に二、三発殴ってもいいぞ。気が済むまで殴ってくれて構わない」
まるで八つ当たりされることが至極当たり前だというように、ギルは真面目な顔で言った。
リディンは目をぱちくりさせた。一発殴って気を納めたら殴り返される覚悟であったのに、一気に拍子抜けした。そして、今度こそギルが被虐嗜好を煩っているのではないかと疑う。
「ガキは基本殴らない主義だ」
こういう手合いの趣味に付き合わされてはたまらないと、リディンは適当なことを言って逃げた。実際は、自宅近くの空き家に落書きしていた悪ガキの尻を叩いたこともあるし、手際の悪い新入りに容赦なく肘鉄を食らわせたこともあるが、ギルの知るところではないので黙っておいた。
「誰がガキだっ!」
「お前が四十だろうが五十だろうが、考え方が子供染みてるうちはガキだガキ」
ギルの『本当の年齢』に見切りをつけてリディンは言った。
すると、パーシェにからかわれたときのようにギルは途端に勢いが無くなった。どうやら図星らしい。
口をつぐんで視線を泳がせ、ばつが悪そうにしている様子は叱られたわんぱく坊主のようだった。
ギルの顔には、自分の子供染みた側面をある程度自覚しているが、それでも納得できない、と非常に分かりやすくでかでかと書かれている。
「……」
リディンは無言で息を吐いた。
悪魔の特性なのか個性の問題なのかは分からないが、ギルが相当面倒臭い一種の馬鹿であることは明白だった。