第三話 歪みと狩人
リディンが家路についたとき、既に日が暮れかけていた。
太陽が城壁の向こうに完全に隠れて辺りがすっかり暗くなった頃、リディンは晩飯のパンを片手に表通りから少し脇に入ったところにある我が家にたどり着いた。
本来、今日は夜勤明けで半日休みだった筈なのだが、騒ぎに駆けつけてきた自警団の副団長に取っ捕まり、病院に押し入ったことや不法侵入した仮面の男について延々と尋問を受けるはめになってしまった。
結局、一日の大半をランプの切れた薄暗い部屋でむさ苦しい男たちに囲まれて過ごし、同じことを何回も繰り返し説明して神経をすり減らした。
これで最後かもしれない平和な日常を部外者に引っ掻き回され、リディンは心底疲れきっていた。昨日から寝ていないこともあって、寂れた通りを歩く足は鉛のように重たい。
「ただいま……」
家で待つ家族はもういないが、惰性でドアを開けるのと同時に呟いた。
「遅かったな」
誰もいない筈の家の中から響いた声に、リディンは晩飯の包みを明後日の方向に放り投げた。反射的に背中の剣へと手を伸ばし、暗い部屋の中に目を走らせた。
「誰だ!」
「俺だ」
声の主はすぐに見つかった。二階へと上る階段の手すりに、人影が寄りかかっていた。明かりの灯っていない暗がりの中でもかろうじて特徴的な赤と青の色彩を判別することができたので、リディンは少し警戒を緩めた。
しかし、顔見知りとはいえ人の家に勝手に侵入するような相手に対して、剣を掴む手を離すほど彼もお人好しではない。何より朝方のことについてリディンはまだ怒っていた。
「お前、今更現れるとはどういう了見だ。それに、どうやって入った」
ドアには錠がきちんと下ろされていて、開けるための唯一の鍵はリディンが常に持っていた。もちろん、こじ開けられた形跡などない。
「二階の書斎の窓が開いていた。この辺りの建物の壁は登りやすくていい」
どこかで聞いたような台詞をしれっと吐くと、侵入者は手に持っていた仮面を顔に近づけた。
その動作を見て初めて、リディンは男が仮面をつけていなかったことに気がついた。しかし、時既に遅く男の素顔を確認できる機会を逃してしまっていた。
仮面の男は足下に置いていた荷物から火口袋を取り出すと、テーブルに歩み寄って燭台に火を点け始めた。程なくして獣脂のロウソクに火が灯り、部屋の内装を照らしだした。
綺麗に拭かれた食卓と三脚の椅子、砂埃を掃き出し敷物を敷いた床、部屋の隅には磨かれた水瓶、壁には鮮やかな獅子のタペストリーが飾られている。天井の蜘蛛の巣もこまめに払われているようだ。
男の一人暮らしにしてはかなり片付いているように見えた。
仮面の男は手元に残った火種を暖炉に捨てた。燃えかすしか残っていない暗い暖炉の中で、小さな炎はくすぶって消えた。
「主の家なのだろう、どうして入らない?」
仮面の男の態度は、招かれざる客とは到底思えないものだった。リディンは口を閉ざしたまま出入り口から一歩も動かなかった。
常に飾り紐で引き摺っている槍こそ手元に見えないが、男が腰に巻いているベルトの背中側に猟刀の鞘が通してあるのをリディンは知っていた。剣より小さい得物でも、病院で垣間見た仮面の男の身体能力を考えると不利な要素になるとは思えない。
「別に危害を加える気等無いのだが、どうすればまた信じてもらえる?」
いつまでも警戒を解く様子のないリディンに、仮面の男が困ったように声をかけた。
「俺はお前の財布を当てにしていただけで、信用したことなんか一度も無い。お前はぽっと出の田舎者にしても常識ってものがなさ過ぎるし、行動も突飛過ぎて一欠片も信じられねぇ。そもそも、お前は一体何者なんだ」
今までリディンが飯時に付き合っていたのは、一重に全て奢りだったからだ。自警団の下っ端をやっている現状では、家の維持費が家計の大きな負担になっていた。親が残した家財を売る気など毛頭ないリディンにとって、日々の食費が浮くなら奇人の相手も我慢できた。
「何者もなにも、前に城門で言っただろう」
仮面の男は何を今更、と肩を竦めた。
「俺は、モンスターを狩る狩人だ」
胡散臭すぎる言葉に、リディンは眉間に皺を寄せた。
「そういう世迷い事は、そこいらのガキ相手に吹くんだな」
その言葉を聞いたのは、これで二回目だった。
この男は、行商人の護衛としてケアリアの町にやってきた。そのときの審査をしたのがリディンであった。審査名簿に書いた文字があまりにも汚く読めなかったので同僚に代筆してもらい、名前と職業を尋ねると、堂々と同じことをのたまったのだ。
ふざけるなと怒鳴ると、じゃあ傭兵でいいと、いとも簡単に折れた。
「嘘ではない。それに明日の朝、モンスター退治に向かうつもりだ」
明日の朝食を発表するような調子でさらりと仮面の男は言った。
「は?」
「もう少しこの町でゆっくりするつもりだったのだが、どこぞの馬鹿のせいで急がねばならなくなった」
馬鹿、というのはおそらく病院にいる連中のことだろうとすぐに察しがついた。しかし、その言い方はまるでモンスターが襲ってくるのは既に決まっていたことで、被害者のせいで時期が早くなったと言っているようにリディンには聞こえた。
「……どうしてそんな話を俺にする」
自警団は城門の封鎖を明日には決行するつもりであり、リディンはその自警団に所属している。無断で町の外に出ると知って、リディンが止めないわけがなかった。
「言っておくが、いくら積まれても外への手引きなんざしねぇからな」
「そんなことは考えていない」
「じゃあ何だ」
「一緒に行かないか?」
「……は?」
リディンは今度こそ耳を疑った。
「冗談もいい加減にしろよ」
「別に、戦えとは言っていない。後ろで見届けてくれるだけで結構だ」
「そしてお前の骨を拾って逃げ帰るだけの仕事か。冗談じゃない」
「大丈夫だ。俺は死なんし、主も絶対に生きて帰す」
「何で俺なんだ」
「それは……」
急に仮面の男は歯切れ悪くなった。
「ともかく、返事は明日でいい。『包帯と獅子亭』で待っている」
仮面の男は逃げるように階段を上っていった。リディンも後を追って二階へと上がる。
仮面の男が向かったのは書斎だった。かつてリディンの父が使っていた場所で、二年の間ずっと無人になっていた部屋だ。
仮面の男は扉の横に立てかけていた槍を掴むと、そのまま書斎へと入っていった。リディンも躊躇うことなく書斎に足を踏み入れた。
少し埃が積もっていることを除けば、階下の居間と同じように綺麗に整頓された部屋だった。重厚な卓もゆったりした椅子もないが、壁際の本棚の半分を埋めている書物は背表紙に箔が押されて分厚く、貴重なものであることを窺わせていた。
窓際にぴったりとくっつけてあった机は乱暴に横へとどかされていて、開け放たれた窓の前には仮面の男が立っていた。
「まだ話は終わってねぇぞ、ギル・レージィ」
名前を呼ばれ、仮面の男は窓に掛けた足を止めた。
「お前は何故そこまでモンスターに詳しい、どうして俺に構いたがる、何で常識が一欠片も無い!?」
最後のチャンスとばかりに、リディンは矢継ぎ早に疑問を投げかけた。
「……田舎者で悪かったな」
「最後の問いにだけ答えてるんじゃねぇよ」
仮面の男――ギルは、リディンに背中を見せたままそう言った。
尤も、リディンにはその言葉すらきちんとした答えになっていない。
「お前は『何』だ?」
何者とは聞かなかった。リディンが知りたいのは、もっと根本的な部分だった。
何故そこまで知りたいと思ったのかは分からない。ただ、自分はもっとこの一連の事態についてもっと知るべきだと感じていた。
「……今は、話せない」
リディンの追求に、ギルはやっとのことで言葉を絞り出した。
次の瞬間、ギルは窓の外に身を躍らせた。
リディンは窓にとびつき、すぐに下へ目を向けた。しかし、そこに人影は見当たらなかった。病院のときと同じく、ギルは煙のように消えてしまった。
続いて窓の外を見上げたが、僅かに張り出した軒しか見えなかった。
「まさか、な」
口に出して否定してみたが、リディンはどうしても屋根の上に誰かがいるような気がしてならなかった。
◆ ◆ ◆
リディンの家の屋根の上に、一つの人影があった。
リディンの予想通り、ギルは下に降りたのではなく上に隠れていた。
ギルはリディンが窓から頭を引っ込めて閉じるまで息を殺し、完全に寝静まったのを見計らってようやく一息ついた。
もちろん、リディンはまだ夕食すらとっていなかったので、その間中ずっとじっとしていたことになる。だが、ギルはそれほど苦と思っていないようだった。
槍を傍らに置き、硬い煉瓦で葺かれた屋根を今日の寝床として横になった。
ギルは仰向けになって空を眺めた。薄曇りで星は見えないが、月はぼんやりと浮かんで見えた。
幽かな風がギルの癖毛を僅かに揺らした。
「ああ、奴にも一緒に来ないか誘った……別に、二人ぐらい平気だろう……じゃあ何が問題だ」
自分以外誰もいない筈の屋根の上で、ギルはぶつぶつと呟き始めた。日中の町中でやれば変人扱いされるだろうが、ここでなら見咎めるものはいない。
「元はと言えば俺のせいだ……まあ、確かにそうだが……」
言葉を濁すギルの髪に、絶えることなく風が吹き付け続ける。
むっとした様子で、ギルは上半身を起こした。
「……考えなしというのは認める。だが、このまま放ってもおけない」
先程よりも強い風が吹き抜けた。
「天煉の奴らが折れるまでの間だけでいい……駄目だったら……俺が責任を持って片をつける」
唐突に風が止んだ。ギルは再び大の字になって手足をのばした。
「できれば、そんなことにならなければいいんだが」
ギルが寝返りを打つと、襟首に何かがふわりと当たった。
左手の指でさぐって摘まみ上げると、それは真っ黒なカラスの羽根だった。