第二話 奇行と疑惑
すぐに後を追ったにも関わらず、食堂から出てすぐにリディンは仮面の男の姿を見失ってしまった。目立つ格好をしているというのに、異常なまでの神出鬼没さだ。
しかし、仮面の男がこれから向かうであろう場所は予想がついていた。
リディンは剣と盾をきっちり背負うと、病院のある通りへ向かって駆け出した。
ケアリアには大きな病院がいくつかある。その中でも、正門から最も近い位置にある病院は一番規模が大きく設備も整えられていて、そこに今回の犠牲者たちも収容されていた。
病院の前には、多くの野次馬が集まっていた。
好奇心か、不安か、恐怖か――一人一人の表情は様々だが、犠牲者を一目見たい、もっと多くの情報を得たいという目的だけは一致していた。
もちろんそんなことが許可されるわけも無く、入り口では看護士と自警団員が協力して入り込もうとする民衆を阻止していた。
リディンは仮面の男を探してざっと周囲を見回したが、野次馬の中にはあの目立つ青と赤の色は見当たらなかった。それでもどこかにいないかときょろきょろしていると、入り口の自警団員の一人がリディンに気がつき、手を振った。
「よう、どうした。お前、今日非番だったろ」
声をかけられ、リディンは野次馬をかき分けて顔見知りの自警団員に近づいた。
「一応夜勤明けだ。それはそうと、ここに白い仮面をつけた男が来なかったか?」
「仮面の男? 見てないな」
自警団員は訝しみながらもリディンの問いかけに答えた。
「そうか、邪魔したな。お疲れさん」
リディンは礼を述べるとすぐに野次馬の群れから脱出した。
あんなに目を引く格好をしていながら警備の目に映っていないということは、本当にここには来ていないとみて間違いないだろう。
(――まあ、別に正面から入り込むとは限らねぇし)
リディンの見立てでは仮面の男には少し頭が弱い節があったが、警備の中を中央突破するほど馬鹿ではないらしい。
となると、リディンに思い浮かぶ経路は三つ。
一つ目は、病院の裏口。だが、ここは自警団が正面と同様に警備している筈なので、入ろうとすれば一悶着が起こるだろう。
二つ目は、裏手の搬入口。大量の医療品を中に運び込むための特別大きな扉で、作業がなければ人気は無いに等しく、潜入にはもってこいだ。但し、少々扉の立て付けが悪く開閉に大きな音が出るので気付かれないとは思えないが。
三つ目は、その搬入口に併設された貨物用昇降機。鍵がかけられているうえに動かすには人手が必要だが、昇降機の外柵はただの壁よりかはよじ登りやすい。その行動が隣家の主婦に目撃される可能性を考慮しなければ一番堅実な道だといえるだろう。
尤も、これら以外の策が無いとも限らない。
何処を探そうかと、リディンは物思いにふけりながらおもむろに空を仰いだ。
別に、その行動に深い意味があったわけでも、何か予感がしたわけでもない。
ただ、空を仰いだ視界の隅にとんでもないものが映ってしまったのは事実だった。
思わずリディンは目を擦ったが、幻覚の類ではないらしく残念ながら消えてくれなかった。
病院の屋根の端から少し垂れてゆらゆらと揺れているものがあった。それは、臙脂に黒に群青に乳白色――多様な色を編み込んだ飾り紐だった。持ち主と同じく、この辺りでは珍しい一品だ。
飾り紐はかなりの長さがあったので普段は槍に巻きつけていた筈なのだが、それが少し緩んで垂れているようだ。
問題は、何故そんなものがそこにあるのか、ということだ。
リディンが発見してからそれほど間を置かずに、紐は視界から引っ込み、代わりに黒い頭がぬっと突き出た。
「なっ!」
ぎょっとするリディンに気付く様子もなく、仮面の男は屋根のへりを掴むと空中に身を躍らせた。
それなりに体格があるというのに、仮面の男はまるで猫のように一瞬で病院の二階の窓に滑り込んだ。手に絡めた飾り紐を引っぱって屋根に残した槍を回収し、侵入した形跡を残すことはなかった。
その間、リディンは現実を受け止めきれずに口をぽかんと開けていた。
四つ目の経路、屋根の上から病院に飛び込む。通りを見渡して見つからないわけだ。
ようやく我に返ると、リディンは野次馬の中へと飛び込んだ。下っ端とはいえ自警団に所属しているので、一般市民を無理やり押しのけるだけの膂力は十分に持っていた。
「お、おいっ! いきなりどうした」
「悪い、通してくれ!」
狼狽える同僚を烏合の衆の方へ突き飛ばし、リディンは扉を開けて病院の中に強引に入り込んだ。
リディンを皮切りに、人々は我も我もと先程より勢い良く入り口に詰め寄せてきた。それを必死で押さえ込む看護士と自警団の面々に少し後ろめたさを感じながら、リディンは後ろ手に扉を閉めた。
病院の玄関は小さな広間のような造りになっていた。長椅子が並べられ、採光のためのステンドグラスが吹き抜けを彩る様は教会に見えなくもない。ただ、この場所で行われていることは神による救済ではなく、人による救済だ。
「あら、リディン。珍しいわね、慌ててどうしたの」
中へと駆け込んできたリディンを見て、窓口で待機していた看護婦の一人が親しげに声をかけてきた。白と灰色のエプロンドレスがよく似合う、亜麻色の髪の妙齢の女性だった。表が騒がしいというのに取り乱す様子がなく、かなり肝の据わっているようだ。
「はぁ——え、あっと、今朝担ぎ込まれた連中の病室はどこになったんだ」
いきなり馴れ馴れしい態度の看護婦にまごつきながら、リディンは目的の病室を聞き出そうとした。
「何よ、自警団の一員なのに知らないの。まあ別に貴方になら教えても問題無いとは思うから特別に教えてあげる。そのかわり、この間の件、今月以内にちゃんと返事してよね」
「あ、ああ……」
何だったか全く思い当たらないが、とりあえず生返事をする。
「一階の緊急処置室じゃ場所が圧倒的に足りなかったから、確か三階の第六大病室に治療しながら移動させたって聞いたわ」
「ありがとう、じゃ」
「絶対返事してよね!」
リディンはお礼もそこそこに階段へと走った。その後ろを看護婦の声が追う。
病院の三階では、既に騒ぎが起きていた。
階段を全速力で駆け上がったリディンの耳に、医者と言い争いをしている聞き覚えのある声が届いた。
「何処から入ってきたのですか!」
「上からだ。この辺りの建物の壁は登りやすくていい」
「とっ、兎に角、ここから直ぐに出て行ってくださいっ」
「それはできない。あの馬鹿共に尋ねたいことがある」
「まだ治療中です。用件は後ほど自警団を通じて伝えてください」
「それだと間に合わない、急いでいる。通してくれ」
「お引き取りください!」
病室の前に例の仮面の男がいた。応対している医者はかなり小柄なうえに細身で、いかにも気が弱そうに見えた。
それでもなんとかとどめようと身長も体格も上の相手に頑張ってはいるが、仮面の男は出入り口を塞ぐ医者を押しのけて今にも無理やり押し入ってしまいそうだった。
「おい、いい加減に――」
「ひゃあっ!」
リディンが仮面の男を諌めるために近づこうとしたが、既に遅かった。
押し問答に痺れを切らした仮面の男は、医者の細い首根っこを掴んで持ち上げてしまったのだ。医者の両足は宙に浮き、口から情けない悲鳴が漏れた。
医者は目に見えて肉付きが良くなかったが、仮にも成人男性であるので片腕で持ち上げることは至難の技だ。仮面の男はリディンとそう変わらない体格に見えるが、怪力の持ち主であるようだった。
顔を真っ青にして口をぱくぱくとさせている医者を、仮面の男は脇へとぞんざいに放って病室へと入っていった。
「ひいっ」
宙づりから解放されて尚、医者は恐怖で足元がおぼつかずそのまま転びそうになった。
すかさずリディンが横から腕を伸ばして医者の身体を支えた。
「大丈夫か」
「……え、ええ。平気です」
医者はリディンの助けを借りてようやく真っ直ぐ立つことができた。
しかしまだ顔を青ざめている医者の様子を見て、リディンの頭に血が上っていった。
リディンは聡明さと同時に、それなりの情の熱さも持ち合わせた男である。それに加えて、夜勤明けから一睡もしないまま振り回されっぱなしで、かなり気が立っていた。仮面の男の傍若無人な振る舞いに、もう我慢の限界だった。
「あの、リディンさん?」
医者がおずおずとリディンに声をかけたが、リディンはそれを無視して病室のドアに向き直った。
「いい加減にしやがれ詰所に突き出すぞ!」
ドアを乱暴に開け、リディンは病室に突入した。
仮面の男は病室の真ん中で突っ立っていた。左手に飾り紐を絡めて槍と荷物を肩に担ぎ、右手は所在なげに宙で止まっていた。
リディンの姿を認めると、仮面の男は右手を自分の顔の前まで持っていき、人差し指を口元にあてた。
「病院で騒ぐな、迷惑だろう」
「テメェが言うか、元凶!」
人を食った言い方に、とうとうリディンの堪忍袋の緒が完全に切れた。
リディンはつかつかと歩み寄ると、仮面の男の肩を乱暴に掴んだ。茶と金の目と無機質な硝子の視線が至近距離で交錯した。リディンの目が怒りで燃えているのに対し、目元を隠している仮面の男の表情は相変わらず読み取りづらかった。
「何をそんなに怒っている?」
仮面の男はきょとんとしてそう言った。
意識的に煽っているのか無自覚なのかは分からないが、リディンはその場で殴り飛ばしたい衝動をぐっと押さえ込んだ。
「……言いたいことは山程あるが、取り敢えず表出ろ」
リディンは怒りのこもった声で脅し、親指で背後の出入口を指す。
例え仮面の男がごねたとしても、無理やり階下まで引きずっていく心積もりでいた。
「いいぞ、もう話はついたからな」
「は?」
意外にも、仮面の男はあっさりと了承した。あまりにもあっさり過ぎて、リディンも虚を突かれた。
一拍おいて、リディンはその言葉に眉をひそめた。
仮面の男が病室に入ってからリディンが追いかけるまでそんなに時間があったわけではない。精々一言二言交わせるくらいの間だった――それも、相手が重傷を負っていなければの話だ。生死の境を彷徨うような怪我をしているのに、すらすらと言葉を紡げるとは到底思えない。
リディンは病室内に改めて目を向ける。
左右にベッドが五台ずつあり、その上には酷い有様の患者たちが寝かされていた。患者は皆全身に包帯を巻かれ、肌の露出は全くと言っていいほど無かった。リディンは包帯の下に焼け爛れた皮膚があるのを知っていた。搬送したときの様子を思い出すと、朝食が腹からせり上がってきそうになる。
患者は皆静かに眠っていて、仮面の男と会話した様子は全くなかった。
搬入時は失神している者も火傷による熱と襲撃の悪夢でうなされ喚いていたのに、もう容態は落ち着いてきているようだった。
その様子に、再びリディンは強烈な違和感を覚えた。
仮面の男は踵を返して病室から出て行こうとしていたが、リディンは肩を掴む手に力を入れて引き止めた。
「お前……一体何をした」
「何もしていない。話をしにきただけだ」
少し顔を逸らしながら仮面の男は言った。リディンは表情を見逃がすまいと目で追いかける。
「全員寝てるのに、どうやって話したんだよ」
「……話した後寝たのだ」
尤もらしいリディンの指摘に、視線から逃げるように顔を背けて仮面の男は言った。表情こそ読み取れないが、声には焦りの色があった。
何かを隠しているのは明白だった。
「まさか、何か術でも使ったのか?」
試しに鎌を掛けてみると、掴んだ肩から面白いほど動揺が伝わってきた。
どうやら、仮面の男が何かしたせいで怪我人たちは痛みが消えたように安眠しているのは事実のようだ。
いよいよ、仮面の男の正体が怪しいものになってきた。
リディンが更に問いつめようとすると、急に仮面の男は肩に乗ったリディンの手を乱暴に振り払った。
そして、リディンが何かしらの反応を返す前に、小動物さながらの動きで病室の窓へと飛び乗った。五歩の距離を二歩で走り、ふわりと窓枠の上に着地する様はまるで猫のようだった。
「またな」
そう言って、唖然としているリディンを一人残して仮面の男は外へと身を躍らせた。
我に返ったリディンが慌てて窓に駆け寄って下を見たが、姿はおろか足跡すら残さずに消えてしまっていた。
「どうなってるんだ」
呆然と呟くリディンの後ろから、遅まきながら自警団が病室に乗り込んできた。