第十三話 一難去って
※ゲロ注意
彼女は、いつも通り病院の窓口で仕事をしていた。
先日忙しかったのが嘘のような静けさで、近所のお年寄りが日当たりのよい待合の長椅子を占拠して話に花を咲かせていることを除けば殆ど人がいないといっても過言ではなかった。
「ロテア」
声を掛けられ帳簿から顔を上げると、そこにはよく見知った顔の男が立っていた。
短い茶色の髪の、少し頬骨が張った青年。明るい色をした左目という珍しいものを持っているせいで、少しひねた性格をしたところが魅力的な彼女の彼氏。
仕事終わりに立ち寄ったのか、鎧と剣を装備したままの格好だった。
「あら、リディン。どうしたの」
彼が病院に訪ねて来ることは珍しくなかったが――そのおかげで、二人はこうして今の関係を築くに至った――来て直ぐに向こうから声を掛けられたのは初めてだった。いつも、何かの用事の後についでで窓口に寄っていくのだ。
「話があるんだ。仕事終わりに、《獅子と鋏》亭まで来てくれ」
真剣な表情で告げられた言葉に、ロテアは思わず息を呑んで口元に手をあてた。
ずっと保留にしていた話だと、ロテアは直感した。
「ええ……行くわ、絶対に行くわ!」
目を潤ませて頷く彼女に背を向けて、リディンは病院を後にした。
「とうとうやったわね、ロテア!」
「ありがとう!」
祝福する同僚と、とうとう涙を零すロテア。リディンの背後では、受付がお祭り騒ぎになっていた。
リディンが強く拳を握りしめたことに気付いた者は誰一人としていなかった。
否、たった一人だけ、全ての事情を把握している人物がいた。
病院の向かいの建物の屋根の上に、パーシェが立っていた。もちろん、屋根に掛かる梯子などないし、窓からよじ登ったわけでもない。
「悲愛も始祖の思し召し、かねぇ」
しみじみと呟き、パーシェは左手の人差し指で空中に二つ円を描いた。
「おーい、ギル、聞こえるか」
何もない、誰もいない空に、パーシェの声が響いた。
『もう戻ってきていたのか』
ギルの声がパーシェの耳に届いた。ギルの姿は何処にも見えない。
感応系複合術<伝音の理>の効果だ。ギルの持っている術の結晶に、特殊な念音術の波動を共振させて遠距離での通信を可能にしている。
「これでも、三ノ疾風だからな。で、そっちの事後処理は?」
『全て終わっている。どうせ、聞くまでもないんだろう』
「おっと、商人の性でね。言質を取らないと安心できないんだ」
色々と兼業しているものの、パーシェは正真正銘の商家の息子だった。よく誤解されるのだが、神獣の社会では上位に名を連ねるからといって、軍や政治に深く関わる必要は無いのだ。
『……』
「そう怒るな。せっかくの土産が不味くなる」
『……! 食べ物か!』
「風切りの霊水を一箱持ってきている。この程度の酒と数なら、ギル坊でも飲めるだろ」
ギル坊、という言葉が出た瞬間、ぶつんと術が途切れた。これには、パーシェも苦笑を禁じ得なかった。
「だから、そういうところが子供っぽいっていうのにな」
パーシェはまた<伝音の理>を発動させようとし、直前で思い直して手を下ろした。
屋根を蹴り、パーシェはリディンの後を追って町の雑踏に紛れた。
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「面白い寸劇だったぞ、リディン」
「うるせぇ」
リディンがカウンター席でシチューをひたすら口に流し込んでいる様子を観察しながら、パーシェは目を細めて楽しそうに言った。
上層部への報告を終え、パーシェはケアリアの町に舞い戻ってきていた。今は、やけ食いをしているリディンの後ろで酒を煽っている。酒が入っているせいか、やけに上機嫌だ。
リディンはマナーをかなぐり捨て、スープ皿を持ち上げてスプーンで搔き込んでいた。皿の中身はギルが作った芋と鶏肉のシチューだ。
香草でぴりっとした風味に仕上げられた芋団子がとろりとした食感を出し、歯応えのある廃鶏にアクセントを加えている。
中々美味しいシチューなのだが、リディンは全く味わわずに胃袋へと送り込んでいた。
何やら荒れ模様のリディンを、ギルは仮面をつけたままでも分かるくらいにぽかんとして見ていた。
ギルの格好はいつもの赤革の鎧でも真っ青な詰襟でもなく、肌着と思しき厚手の黒いシャツだった。その上からポケットのついた前掛けを腰に巻いて、ポケットに料理に使わなかった香草を突っ込んでいる。
さっきまで厨房にいたので、前掛けをしていても何ら不思議ではない筈なのだが、白い仮面が完全に格好から浮いていた。
「何かあったのか」
どんどん減っていく鍋の中身に驚きながら、リディンへの心配半分、自分の取り分への心配半分でギルが尋ねた。
「ギル坊にはまだ早い、大人の事情ってやつだよ」
すかさずパーシェが茶々を入れる。
「飯を抜くぞ」
むっとして、ギルはパーシェに右手のお玉を突き付けた。
「残念、今日はもう食べてきた!」
酒盃を片手にパーシェはけらけらと笑った。
「お替わり!」
ギルに舌打ちさせる暇を与えず、リディンが空っぽの皿をギルの目の前に突き出した。
リディンの目は若干血走っていた。
黙ってギルが皿にシチューを注げば、リディンは再び怒涛の勢いで食事を再開する。
ギルは、リディンの左頬が赤くなっていることに気付いていた。しかし、色恋沙汰に疎いギルにはそれが何を意味しているのかは分からなかった。
パーシェは一部始終を知っているようで、ずっとにやにやしている。
「にしても、本当に芝居のような見事な様だったな。将来は役者に転職してもいいんじゃないか」
「なら転職祝いに酒でも恵んでくれ、つーか俺にも飲ませろ、酒!」
リディンが喚く一方で、パーシェは着々と酒瓶を開けていた。持参した十本の陶器の瓶のうち、半数が空っぽになっている。先に一本をギルに渡しているので、全部飲んでしまうつもりなのだろう。
「おいおい、医者が不養生していいのか?」
暴食をしている現状、既に養生しているとは言い難いが、一応パーシェは忠告した。
「いっそこのまま死にてぇよ!」
リディンは、スプーンを握りこんだ拳でカウンターを叩いた。
「今日この日ほど、俺は自分の身の上を恨んだことはねぇ」
明日、リディンはケアリアの町を離れ、多くの同胞が住む新天地へと移住することになっていた。
天煉族が絡んだ今回の一件に関する記録は既に改ざん済みである。病院に入院していた被害者だか加害者だかよく分からない一団は治療の甲斐なく全身火傷により衰弱死、公共墓地に埋められた。
そこにギルの能力でちょっと記憶を削る作業を施し、数日も経てばモンスターに怯えていた事実は全て『なかった』ことに変えられてしまった。
命渡のいた痕跡も粗方片付いた今、リディンがこの町に残るのも潮時だった。
例え三年以上付き合った彼女がケアリアにいようと、大義名分が無い以上、リディンは町を離れなければならなかった。
「まあ、別れが最悪なのはあんたの自業自得でもあるけどな。いきなり『別れよう』なんて言って揉め事にならないなら、そもそも付き合う筈もないし」
酒盃を傾けながらパーシェが言った。
あまりにも正論すぎて、肩をがっくりと落とすことしかリディンにはできない。
「恋人を振ってきたのか、リディン」
パーシェの言葉に、ようやくギルも状況が呑み込めた。
どうやら、リディンはこの町に恋人がいて、ここに来る前に別れてきたばかりらしい。そして、その際に張り手を頬に食らったと……
「さすがギル坊、理解が遅い。鈍感な男はモテないぞ」
「明日の朝飯は無いと思え」
「晩飯さえあればいいさ」
最早何かの儀式なのかと思うほど、パーシェはギルの発言全てに突っかかっていた。食事関連でしか優位性が保てないのかギルの返しも決まりきったものだ。
「じゃあどう言やぁよかったってんだよ! 馬鹿正直に全部話すってか! ギルじゃあるまいし」
リディンは漫才のような二人のやり取りに、苛立ちを募らせて怒鳴った。
「俺だって都合の悪いことは喋らない分別くらいはある」
さすがに馬鹿の代名詞にされるのは嫌なのか、ギルは的外れながらも反論した。
「そりゃあお前は喋らなくたって全部相手に丸わかりだからな」
「う……」
パーシェの指摘にギルは押し黙った。嘘が下手なことについては自覚があるらしい。
パーシェは腕を組んでしばし考えた。
「天煉の件が『無かったこと』になってるんだから、しばらく町の外で任務があるとでも言っておけばよかったんだよ。出て行った後で嘘だと分かれば捨てられたって向こうも分かるし、あんたも顔を腫らさずに済んでた筈だ」
提示された意外すぎるほど堅実な案に、リディンは頭を殴られたような衝撃を受けた。実際にカウンターに勢いよく頭を打ちつけていた。
がつん、という音と共にスープ皿とコップが震えた。
「……正直、そこまで考えつかなかった」
「おいおい、仮にも医者だろう」
「医者は万能じゃねぇよ、それに俺は医者じゃなくて治療師だ」
広い額をカウンターに擦りつけながら、リディンは沈んだ声で言った。
「それなら尚更判断力がいる仕事だろう」
戦場治療士に求められるのは、高度な医療技術ではなく怪我人を活かすための最適の判断だ。度胸と咄嗟の機転がなければ務まらない。
「仕事と私事じゃ違ぇだろぉ……」
リディンは姿勢を崩してカウンターにうつ伏せ状態になり、か細い声で呻いた。
「俺にはもったいないくらいのぉ、いい女だったのにぃ」
ぽとりと手からスプーンと取り落とし、リディンは動かなくなった。
リディンの様子がおかしいことに気付き、パーシェは眉を潜めた。
近寄って顔を覗き込むと、真っ赤に火照りきっていて目もどこか焦点を結んでいない。息もなんだか酒臭い。完全な泥酔状態だ。
しかし、リディンはここに来てから一滴も酒を飲んでいない。ただひたすらシチューを飲み物のように食べていた。
はっとしてパーシェは厨房に駆け込み、調理台の上に置かれた酒瓶を手に取った。空っぽだった。
パーシェが空瓶を持ってカウンターに戻ってくると、ギルがまんじりともしないリディンを観察していた。泥酔、というものを客観的に見るのはギルにとって初めてだった。
「おい、瓶の中身は……」
「シチューの仕上げに全部ぶち込んだ。酒を入れると身体が温まっていい」
パーシェの問いに、ギルはさらりと答えた。
一瞬、パーシェは絶句した。すぐに正気を取り戻し、リディンに駆け寄る。
「馬鹿! この酒は竜向けの特別キツいやつだ、この程度薄めたぐらいじゃ命渡はコロッといくぞ!」
切羽詰まった様子のパーシェに、ギルはぽかんと口を開けた。
「そんなに酒に弱いのか!」
ご丁寧にも、ギルは酒気が飛ばないようにシチューを少し冷ましてから酒を投入していた。酒臭さも、目立たないよう香草で調整していたためリディンも気付かなかったようだ。
ギルが驚く傍ら、リディンの顔色が赤からだんだん青へと変わっている。
「竜種が特別強すぎるだけだ! 急いで酒以外の飲み物を持って来い!」
「あ、ああ!」
ギルは急いで厨房に駆け込み、パーシェはカウンターからリディンを引き剥がした。
無人の通りの一角で、派手な水音が響き渡った。