喫茶店マスターと常連客
からん、とドアベルが乾いた音を立て、来客を知らせる。
「いらっしゃ、い、ま」
耳に優しい柔らかな響きの店主の声が、戸惑うように途切れた。
たった今入って来たばかりの客はそんな店主には一瞥もくれずに、勝手を知っているとばかりに何の迷いもなく一番奥の席に腰を下ろす。
平日の昼下がり。ランチタイムも過ぎ、さほど広くもない店内には他に人影もない。店主の趣味で選ばれたクラシックの曲が流れる他は、熱帯魚の水槽のエアーポンプからのぽこぽこという微かな音しか聞こえない。
「今日はお一人ですか」
目の前に出された物を見て、唯一の客の動きが止まる。
「すみません。今日は別の物をお願いしたいのですけれど」
ほかほかと湯気を上げているカフェオレは、この少女がいつもこの席で飲んでいる、いわゆるお気に入りのはずである。にもかかわらず別の物を所望するという予想外の反応に、店主は内心驚きを感じた。
「それは申し訳ありません。では、なにをお持ちしましょうか」
「コーラを、お願いします」
その注文の品は、未だかつて彼女が飲んでいるのを見た記憶がないほどに珍しいものである。
「かしこまりました」
しかし店主はそんな心の中を窺わせる事はなく、テーブルに載せたカップをトレイに戻してカウンターの奥に戻って行く。
粗く砕いた氷をグラスに入れると、カランと綺麗な音色が響いた。ボトルからコーラを移し、レモンの輪切りを一切れグラスの淵に引っ掛け、炭酸の弾ける音を聞きながら少女の前に差し出した。
「お待たせいたしました」
少女はなにも言わず、じっとグラスを見つめている。まるで睨みつけるかのようなその眼力にいつもの彼女らしからぬ様子を見取り、店主は小首を傾げて、同じように無言で眺めていた。
数分が経過し、グラスの表面に水滴が伝い始めた頃。少女はおもむろにグラスを手に取り、中の液体を一気に喉に流しこんだ。しかしさすがにコーラの酸の強さに途中でむせ、ごほごほと苦しげに咳をする。
やや離れた位置でそれを眺めていた店主が、新しいおしぼり数枚を手に慌ててテーブルに駆け寄り、むせている少女の背中を優ししい手つきで摩った。
「大丈夫ですか」
「だ、じょ、ごほっ、ごほっ」
「無理に喋らなくていいですから」
涙が滲んだ眼で見上げて来る少女に、店主が僅かにたじろいだ様子を見せる。しかしそれもほんの一瞬の事で、すぐに元のように気遣わしげな目で少女を見た。
「も、大丈夫、です」
「そうですか?」
ようやく息が落ち着いて来た少女は、ほっと一息ついて再びグラスにその小さな唇を寄せる。
「コーラは苦手だったんじゃないんですか」
遠慮がちな店主の言葉に、少女は意外そうに眉を上げた。それが答えである。
「コーラと言うより、炭酸がだめなんです。飲むには飲めるんですけれど、その後気分が良くなってしまうと言うか悪くなってしまうと言うか」
「もしかして、酔うんですか」
少女の頬に赤味が差す。図星をさされて恥ずかしいのか、それとも炭酸にあてられたためなのか。恐らくその両方なのだろうと、店主は心の中で考えた。
「おかしいですよね、子供みたいで」
「そんな事はありません。時々いらっしゃいますよ、あなたみたいな体質の方は」
店主は職業柄、炭酸が苦手な人間がいる事も炭酸で酔う人間がいる事も知っている。さらには彼自身の身近にもいる。だから彼女が特別だと言うわけではない事も知っている。
「いいんです。おかしいのは、自分でも分かっていますから」
しかし少女は、苦い笑みを刷いた口元をさらに歪ませた。まるで今にも泣きそうなその顔に、店主は少しだけ慌てた様子を見せる。
「こんなお子様だから、彼にふられちゃうんです」
彼、という人物を、店主は知っていた。少女と一緒に連れ立って、何度かこの店に姿を見せた事があったからだ。どう見ても高校生の彼女と大学生の彼は、さして広くもない店内で、少なからず客の目を引いていた。
しかしそれは奇異な物を見る目ではなく、微笑ましい物を見つめる温かい目だった事を、店主は良く知っている。それほどに穏やかで可愛らしいカップルだったのだ。彼女達は。
「なにか、言われたのですか」
「ご存知だと思いますけれど、わたし、いつもはカフェオレやミルクティーを飲んでいるんです。でもこの間彼と出かけていてあまりに喉が乾いていた時、自動販売機にはホットコーヒーか炭酸飲料しかなくて。わたし、缶コーヒーは苦手なので、仕方なく炭酸飲料を買って飲んだんです」
そして少しほろ酔い気分になったのを見た彼が、彼女に言ったのだそうだ。
「炭酸で酔う奴なんて、初めて見た。医者に診せた方がいいんじゃないのか」
その言葉を受けた彼女は、酔っていた事もあり、ついうっかり彼を突き飛ばしてしまったのだそうだ。そこまでならばたいした問題ではなかったはずだ。しかし後が悪かった。
勢いでよろけた彼が尻餅をついた先には尖った石があり、さらにはとっさに手をついた場所には見知らぬ犬の粗相の跡があったのだという。
想像すると、なかなかに壮絶だ。店主はほんの少しだが彼に同情した。
「大声でなにかわけの分からない事を叫んで、そのままさようなら、でした」
笑ってはいけない。笑ってはいけないのだが、こみ上げて来る笑いを抑える事に失敗して、店主は小さく吹き出してしまった。
「やっぱり、おかしいですよね」
溜息を一つ落とし、少女はグラスに半分ほど残ったコーラを一気に飲み干した。こんどはむせる事はなく、静かにことりとグラスを置く。
店主が笑いを納めて見てみると、じわりと滲み出ていた涙が大きな目の縁から零れ落ちた。
「笑ったりしてすみません。あなたがおかしかったわけではなく、その、彼の姿を想像してしまったものですから」
正直に懺悔すると、少女は溢れ出る涙もそのままに、店主の顔を仰ぎ見た。
「あなたはおかしくありませんよ。炭酸で酔う人間は、本当にいますから。ここにももう一人」
「え? まさか」
「ええ。お恥ずかしながら、ぼくも子供の頃から炭酸がだめなんです。だからチュウハイもコークハイも飲めません。同じ焼酎でもお湯割りなら平気なのですが」
真面目な顔でそう告げる店主を、少女は目を大きく見開いて見つめる。元から大きな目だと思っていたが、さらに零れ落ちるのではないかと思うくらいに大きく開かれている。
「それは、わたしを慰めるための嘘じゃ、ないんですか」
「違います。今は営業中なので証拠をお見せできませんが、今度改めて証明させていただきます」
あまりに真面目な店主のその様子に、少女の顔が綻んだ。
「楽しみにしています」
「ええ。でも、よろしいんですか」
店主が、口元に笑みを浮かべながら少女に問いかけた。
「証明するという事は、酔ったぼくと同席しなくてはならない、という事ですよ」
「え。あ」
店主の言葉の意味を理解した途端、少女の顔がさらに真っ赤に染まった。
「ですから、当分の間証拠をお見せできない事になります。あなたが高校を卒業されてからでもかまいませんか」
「は、はい。でも」
「それまでお互い、不用意に炭酸を飲まないように見張っているというのはどうでしょう」
「見張り、ですか」
少女が少し考え込むような素振りを見せた事で、相手が未成年どころか現役高校生だと思い出し、勢いづいてとんでもない事を言い出したと気付いた店主が慌てた。
「もちろん、あなたさえよければ、の話ですが」
まさか失恋で傷心の彼女に言えはしない。実は以前から可愛いと思っていた事など。大学生の彼との、静かだが睦まじい様子を見て、苦い思いを噛み締めていた事など。
「少し、考えさせていただいてもいいですか。今はまだ気持ちの整理がついていないので」
けれど彼女の答えは、決して店主を拒絶するようなものではなく。
「それ、は、気持ちの整理がつくのを待てば、期待してもいい、という事なのでしょうか」
「自分でもまだ良く分かりませんが、多分、期待していただいても、いいと思い、ます」
少女は真っ赤になった顔でそう言うと、頬に光る涙の跡を手の甲でぐいと拭った。
「え、と。それでは、今日はこれで。おいくらですか」
空いている椅子に置いてあったバッグに手を伸ばし、少女が財布を取り出そうとした。
「今日は、ごちそうさせていただきます」
「え。でも、申し訳ありませんから」
店主の申し出を固辞しようとする少女に、彼は小さく首を横に振る。
「ぼくにはこのくらいしか、あなたにしてあげられる事はありませんから」
少女は勢いよく立ち上がり、店主に向かって少しだけ笑みを浮かべた。
「いいえ。そのくらいの事が、わたしにとってはとても嬉しい事なんです。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げ、少女は踵を返して出入り口に走って行く。
「それじゃ、また明日、来てもいいですか」
ドアから差し込む光を背に受けて、少女が振り返って尋ねた。
「もちろん。いつでも毎日でも来て下さい。お待ちしています」
「ありがとう」
光の中に飛び出していく少女の顔には、来た時にはなかった笑みが浮かんでいる。
やがて静けさが戻った店内に、新たな来客を告げるベルの音が軽やかに響いた。




