野心ーYASHINー
ふと頭に思い浮かんだストーリーを文章で具現化しました。少し村上春樹先生のあの小説の影響があるかもしれません。初めて書いた小説です。どうぞよろしくお願い致します。
世田谷区沿線の賃貸マンションがこれほど過ごし易いとは思わなかった。昼前に起きてテレビをつけ、それを観るともなく適当な菓子パンを食べ、インターネットをやるかやらないか迷った挙句に漫画を読みふけり、その後更にインターネットに没頭し、気がつけば午後三時。
決起したかのように立ち上がりシャワーを浴び、適宜頭髪とヒゲを整えやっとこさ家を出る。
駅へ向かうはずが、用もない100円ショップに立ち寄り、幾多の品物に魅了された挙句にキシリトール入りガムだけを買い、店を出た。近くには大きな街が多い。
言うべくもなく、何か算段を企てる必要などない。そこに行けば、するべき何かがあるのだ。
内田はもともと都会生まれ育ちではない。地方から大学入学の為に上京してきた男子だ。それまでは一度として都会での生活を経験したことはなかった。東京に訪れたことはあったが、テレビゲームの有名な街に遊びに来たり、学校の社会見学でミュージカルを観に訪れた程度であった。都会の雰囲気はおろか電車の乗り方すら危うかった。おそらくどこにでもいるような田舎の高校生であった。
しかし慣れとは恐ろしいもので上京して4ヶ月。見事に東京の景色に溶け込めように、成長というか成育されていた。彼が住んでいるのは世田谷区だ。高級住宅街ということで有名と思われる区域だが、その居住区の種類は様々で、いかにも有名芸能人や国会議員が住んでいそうな大邸宅もあれば、1970年代を思わせるような古臭いアパートや、湿気が染み込みヒビが入った一軒家、一体誰が行くのかというような今にも地震で倒れそうな歯科医などもあった。
内田は家賃6万円のワンルームのアパートに住んでいた。もちろん親の仕送りで。高値の物件に住んでいると思いきや、東京のワンルームアパートの家賃の相場は、駅前なら大体このくらいでどこも変化はなかった。彼のアパートは駅から徒歩3分の位置にある。家賃の相場について考える思考は、彼の頭にはなかった。ただ提供された場所に住む。それだけだった。
彼の生活はそれなりだった。見る人によっては充実した学生生活のように見えるであろう。本人も友人に何限の授業のテストが辛いだの、ああだこうだと不満を述べながらも、その後幾人かで慣れたての居酒屋に押しかけ、翌朝にはその中の誰かしらの家で雑魚寝をしながら朝を迎えることが度々あった。友人というのはなんという麗しい響きなんだろう。
夏休みを終える頃には、彼はもっぱら家でインターネットばかりしていた。友人はいた。彼らに呼ばれれば行って遊ぶ。恋人もいた。性交もするにはするが、性格の食い違いか、なかなかもって小さな出来事が発端で痴話喧嘩が多かった。彼女のお気に入りの下着が見つからないとか、昨夜飲みに行った後にどうして連絡の一つもくれないのとか、あとはご想像にお任せする。内田は度々友人にそのことを相談したが、決まってその女はお前に毒だ、別れろと言われた。そうすると内田は決まってふさぎ込んでしまう、主体性の無い男の子だった。ちなみにその友人に恋人はいなかった。
10月を過ぎ、若者たちは授業の乗り切り方を理解し始めていた頃、主人公の内田青少年は恋人のいない隙を見計らってはインターネットのアダルトサイトを観るようになっていた。しばらくするとその手のホームページを訪問するスキルは短期間で驚くほど成長した。もっとも、一度その光景を恋人に目撃されたことがあったが、彼独自の感性と状況判断能力をもってそれを乗り切った。彼はごく普通の青年だが、その時の問題解決能力は神業に近かった。
懲りることなく彼は好みの女性のアダルト動画を大量に観た。彼の恋人は美人出会ったが、胸の大きな女子ではなかった為、彼は胸の大きな女性のアダルト動画を大量に観た。顔へのこだわりはあまり無いらしかった。
冬を迎え、クリスマスプレゼントだ、忘年会だ、という恒例行事を、恋人と友人の狭間でどっちつかずに立ち回った後、年が明けると彼は冬休みのほとんどを田舎の実家で過ごした。その滞在期間が常識の範疇よりもちょっぴり多かったせいか、周囲の人間は内田が精神的にどうにかしてしまったのではないかという話を語り出した。一部の人間は内田死亡説まで流し出した。ただ恋人とは連絡を取っていた様なので、彼女との間の問題は特になかった様である。単なる「年末年始は必ず実家」という彼なりの掟だったようだ。
冬は太古の人間にとって、乗り越えるにはとても厳しい季節であったはずだが、内田にとっては独自のファッションスタイルを披露する格好の季節だった。お気に入りの厚手のコート、アルバイトをして購入したブーツを着て雪の降った後の街を歩くことが彼の楽しみであった。ちなみに彼の友人にはいわゆる個性派の人間が多く、全体的に服装にもまとまりがない。端から見るとちょっよ変わった集団に見えただろう。その情景は彼らの「誤った個人主義」を象徴するかのようであった。内田はその時はとても幸せな生活を送っていたのかもしれないが、その時は気づく術はなかった。幸せとはその中にいる時には気づかないものである。
4月になり、彼らは2年生になった。大学のキャンパスの正門では新歓でごった返している。後輩ができるということは本来誇るべきことなのかもしれない。なぜなら、自分達が同じ場所にいることに一年間耐えることができた証しになるのだから。しかし内田は後輩の存在が出来ることを怖れた。自分より下の人間に対してどのように接していいのかわからないからだ。しかし彼は深く考えるのをやめ、その場その場で毎日をしのいでいった。
ゴールデンウィークも夏休みに比べれば大した休みにならない。中央線では今日も人身事故で電車が止まっている。この連休が明けると更にその数が増えるのだろう。
それは午後2時過ぎ頃であっただろうか。内田の携帯電話が鳴った。母親からだった。母親との連絡は通常1ヶ月に1回は取っていた。大体は生きてる?大丈夫?食べ物はちゃんと食べてる?とかの内容だが、毎回「大丈夫だよ。ところでおじいちゃん、おばあちゃんは元気?そっちで変わったことはあった?と内田の方からの質問返し。その多さにたまりかねて母親が電話を切る方向へ持っていくという展開がお決まりだった。ちなみに上京後、一度だけ内田の方から母親へ連絡をよこした。所持金が心もとないので2万円だけ仕送りを上乗せしてほしいという内容だった。内田は電話に出ると、その内容に血の気が引いた。飼っている犬が死んだ————
名前は太郎。飼い始めた時の性格は激しく、家族は手を焼いていたが、4歳を過ぎた頃からまるで去勢をしたかのように落ち着き始め、家族や近隣の住民を和ませる存在になっていった。犬に笑顔というものがあるのだろうか。太郎はそんな笑顔をした犬だったからだと思われる。
内田は、誰しもがいずれは死ぬのにも関わらず、太郎は永遠不滅の存在であるという、一種の信仰心のようなものを持っていた。太郎はこの世のせわしないものを無視したかのように平和に暮らした犬で、何よりいつも元気だったからだ。せわしない東京の生活で犬のことなどすっかり頭から離れていたが、忘れていた故か、このニュースが彼に与えたダメージは、その後に控えたアルバイトになかなか持って大きな影響をもたらした。実は、太郎は数ヶ月前から様子がおかしく、餌を食べる量も減っていた。母親はそのことを息子に連絡しなかった。彼女なりの配慮だったが、裏目になる結果になってしまったようだ。
内田はアルバイト先に電話して、今日は休めないかと頼んだ。しかし犬が死んで落ち込んでいる理由で休みたいという主旨がうまく伝えられず、拒否された。心そこにあらずの状態でアルバイトをする内田だった。アルバイト先はチェーン店の居酒屋だった。笑いながら楽しそうに酒を飲み会う人々。いつもどおりの光景だったが、内田にはいつも以上にそれらがガラス細工のように見えた。今日は2回注文ミスをして一度店長に怒られた。誰かに自分の思いを知ってもらいたいという気持ちで、休憩室にて同い年くらいの女の子に犬が死んだことを呟いた。そうなんですねと返答され、話は特に発展しなかった。それはそうだ。あくまで犬の話なんだもの。
五月になると新緑の季節になる。住宅を彩る樹々の葉は。まるでこの世界全てをその濃密なグリーンで埋め尽くしてしまいそうに見えた。それに比べて、内田はどちらかというと内向的な生活を続けていた。以前より恋人といる時間が増え、学校の授業じゃそっちのけで抱き合うように暮らしていた。女は少し内田への興味が薄れていくように見えた。この男にこれ以上興味を持ってはいけないという彼女なりの本能だったのかもしれない。今、この男は堕ちている。彼女は思った。堕ちている人間といることは、あまり良くないことだ。まして犬が死んだくらいで動揺する男だ。そう、彼女は猫派だった。
大学生活二度目の6月を迎え、普通は試験やらレポートやらを意識し始めるが、そんことよりも友人と居酒屋に入ることが好きな内田はその日も単価の低いチェーン店の居酒屋で酒を飲んでいた。生ビールとなんこつの唐揚げ、イカの一夜干し、他の皿も揚げ物が中心で野菜はほとんど頼まない。同じ卓にいる友人は、チェーン店の居酒屋には飽きていて、仕事に疲れたサラリーマンがいくような小さな立ち飲み屋行きたかったが、この男(内田)が強引に毎度この店に誘うので、渋々この店で飲んでいるのだった。
彼らのする話の内容はほとんどたわいもないものだった。深夜テレビに出てくるマニアックなお笑い芸人の話や、音楽は最近何を聴いてるかとか、もちろん、クラスの女子で誰が一番可愛いか等だった。
同じ卓にいる友人の名前は松本。以前内田から恋人とのたわいもない悩みを聞かされ、当の本人には恋人がいない男だ。松本は、大体の人間とうまく渡り合う事が出来た。内田以外にも友人が沢山いるが、内田は細かいことを気にしない性格だったので、松本は何でも彼に話す事ができた。ストレス発散に、遠回しに内田に毒づいてみたりすることもできた。内田といると、カラオケやボウリングをしているような気分になれた。一方内田は松本を自分より下に見ていた。松本はそのことに気づいており、内田からその気概の断片がたまに見えると、松本は決まって遠い目をするのであった。しかし松本は、内田の中にある感じたことのないバイタリティーを気に入っていた。それは内田がこれから起こす野心の原動力となるものなのかもしれない。
「アンナ・キャラウェイって知ってる?」松本が言った。
内田は知らなかった。松本にとっては沈黙を埋める何気ない一言に過ぎなかった。
「誰それ?」
「アメリカのポルノ・スター」
そういうネタは彼らの中にあって当然だった。
しかし内田は知らないということなので、松本は「じゃ、いいや」と言いその場は流れた。
数日後、通常通り家でインターネットをしていた内田は、ふとそのアンナ・キャラウェイの名前を思い出したので、インターネットで検索してみた。金髪の女性だったが、ことの他胸が大きかった。やはり中に何か入れているのかと思いきや、調べてみると豊胸手術はしていないという。顔は魔性とあどけなさを足して2で割ったような不思議な魅力を持っていた。日本人のアダルト女優とは異なる魅力に惹かれた内田は、来る日も彼女のアダルト動画を観た。恋人と会う時間を塗っては動画を観た。恋人と会う時間以前より減っていた。内田の頭の中はアンナ・キャラウェイのことでいっぱいだった。するとある日、また恋人と些細な喧嘩を起こし、それ以降二人は会わなくなってしまった。恋人と会わなくなると、内田は一層、アンナ・キャラウェイの動画を長い時間観るようになった。そんなある日、緊急事態が起きた。アダルトサイトにはコンピューターウイルスがつきものだ。内田のパソコンが動かなくなってしまった。無料のウイルス対策ソフトを使ってはいたが、通用しなかったようだ。内田は動揺を隠せずにいたが、数日すると、近くのDVDレンタルショップで日本人アダルト女優のDVDで妥協することでことなきを得た。
レポート提出が近くなり、近くのインターネット喫茶や大学の図書館のパソコンで作業をするようになった。しかしどうにも気が収まらない。心に隙間が空いたようだ。アンナ・キャラウェイのことが頭から離れない。DVDレンタルショップには彼女の作品は出回ってはいない。新しいパソコンを買うにも金がない。親にも言い出し辛い。買ってもらった18万円のノートパソコンだ。壊れた理由を言えなかった。馬鹿正直なので適当な嘘をつくこともできなかった。鬱積した思いを残したまま定期試験とレポートをなんとかこなした。内田は心の切り替えはうまい方であった。
大学2年生といえば、留学にうってつけの時期とされる。内田のクラスメイトに、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアを尊敬している男が、夏休みを利用してオーストラリアへ留学に行くという。内田は一度、彼の家に泊まったことがあるが、本当にマーティン・ルーサー・キング・ジュニアのポスターが貼ってあった。また、タヒチ88とか、聞いたことのない外国の音楽のCDも置いてあった。彼には内田が持っていない心の領域があった。内田はそれを高尚なものと捉え、自分もそんな風になりたいと思っていた。しかし、彼はアメリカには行ったことがあるのだろうか?気にはなったが、内田は訊くことはしなかった。銃社会アメリカが恐いので、触れたくなかった。彼が大学に入学する前に、アメリカの高校生が校内で銃を乱射して同級生を虐殺した事件があった。恐ろしいと思ったが、あまりに遠くの出来事なので、リアリティを感じなかった。内田は、その銃を乱射した高校生が好きだったロックバンドの曲を聴いたことがあった。悪魔のような格好をした人が悪魔のような歌を歌い、なぜかイエスキリストの名前を叫んでいた。よくわからないが、気持ち悪いし、うるさい曲だと思った。しかしこういうのを格好いいと思わなければいけない気がしていた。
兎にも角にも、内田は「夏休み中の留学」というアイデアを得た。この言い方なら、親は資金援助せざるを得ないらしい。内田の両親は共に働いていたので、そのくらいの金はあるようだったが、家庭内では金の話はあまりされなかった。そのため、内田は金に関して少し無頓着であった。特に、親といえど金を貰うありがたみ、というものが少々欠落していた。
内田にはこれといって特技は無い。勉強もそこまで優秀というわけではなく、運動も苦手な方で、高校の時のマラソン大会は彼にとって一年間で一番辛い時だった。部活は囲碁・将棋部だった。
しかし、彼にはどこか人とは違う発想力があった。それは決して毎回良い方向へ向かっているとは言えず、どちらかというと正常なコースを逸走したようなものだったのだが、それがうまく周りの人間を勘違いさせ、こいつはある意味天才かもしれないという理由で、なんとか同級生の仲間に入る許可証を得ていた。例えば、彼は常人ではまず考えられないブラックジョークを言ったり、何とも言えない絶妙なタイミングで人の会話を遮り、話の腰を折ると思いきや、話をどこか独特の面白い方向に持って行く、という「妙技」と言えるようなものを持っていた。
それにしても今回の発想は過去のそれより群を抜いて奇抜であり、向こう見ずだった。恋人と別れ、しばらく女を抱いていないストレスか、インターネットのない生活に耐えきれなくなってしまったのか、彼は一つの危うい決意をしてしまう。
アンナ・キャラウェイに会いに行く。
阿呆だ。そんな目的で海外留学に行く奴がいるのか。普通は英語学習か、友達との思い出作りか、世界の有名な景色を拝みたいというのが常だ。
しかし、彼の意思はなかなかもって硬かった。彼はいつも他人の意見に従って行動する方で、自分から飲み会を提案したりはしないし、選んだ大学も、年上の兄弟が受験したからそれになぞって受験したようなものだ。そんな人間が一転して主体性をもって行動し出した。きっかけがあれば、人間は全く別人のように動くことができたりする。
アメリカの銃社会への恐怖は消えていた。例の悪魔のようなロックバンドの曲も、一曲くらいは歌えるようになっていた。暗記が内田の得意分野だった。暗記せずに、海外の歌など歌えるはずもない。
内田は母親に連絡し、留学資金をねだった。理由は海外留学。母親はあっさりとこれを了承した。むしろ、息子が意思を持って留学してくれることが嬉しかったようだ。本当のことを知らない方がいい、ということは想像以上に多いものである。金は近日中に振り込むからということになった。喜ぶ母を尻目に、内田は自分の家に意外とお金はあるんだなと思っていた。ただ、ひとつ条件があった。一人では不安なので、同伴者を連れて行くことだった。内田は面倒臭いがやむをえないと思った。
誰か同伴者を見つけなければならなくなった。迷うことなく松本の顔が浮かんだ。会った際に早速誘いをかけたが、「金がない」「単位が追いつかない」という理由であっさり断られてしまった。数日間、内田は悩んだ。まさか松本に断られてしまうとは。一度は計画を諦めかけたが、諦めきれず、別の人物を捜すことにした。
「いいよ」
大学の近くの居酒屋で二人きりで飲んでいた。相手は少し考えた後に彼の返事にそう答えた。友人の名前は林。松本とも顔が知れている、同じクラスの飲み仲間だ。性格は極めて豪快。若くして消費者金融で借金はする、キャバクラや風俗店に足を運んだりもした。内田は飲み会の席で林の武勇伝を肴にすることが多かった。酔った林が勢いで友人の一人に飛び膝蹴りを放ったこともあった。ある意味悪友とも言えた。しかし、今回の計画に林が賛同してくれたことに、内田は喜びを隠せなかった。心のどこかで、豪快な林を尊敬していたからだ。林は「俺が一緒に行ってやるんだからちっとは喜べよ」と言った。内田は笑顔でいることを忘れていた。内田はやっと笑顔を見せた。比較的整った顔をしていた内田だが、その笑顔は猿のようだった。
海外旅行に行くにはパスポートが必要だ。林は過去にシンガポールへ家族で旅行したことがあるので、すでに持っていた。ちなみにこの時、林一家はアメリカへ旅行する予定だったが、旅客機のパイロットが当日失踪した為、渡航中止になった。しょうがないので、代わりにシンガポールへ行ったということであった。
一方、内田は海外旅行をしたことがない。内田にはパスポートが無いので発券する必要がある。どうしたら発券できるのか。親からの情報によると、新宿にある東京都庁の近辺に、パスポートを発券してくれる場所があるらしい。休日を利用し、都庁へ向かった。「パスポートセンター」というサインに沿って、地下へ下っていく。そういえば都庁にはテレビによく出てくる偉そうな都知事がいたような気がする。内田にとって、そう言った類の人々は別世界の住人であり、脳の機能も自分とは別のものを備えているように思えた。権力を持った怖い大人。ただ、どうして国会議員にならないだろうと不思議に思うことはあったが、内田にはよくわからなかった。パスポートの発券は難しいものではなかった。申請用紙に自分の名前を書いてくださいと言われた。それがパスポートの有効期限の10年間、パスポート上に記載されるのだという。なるべく間違えないように書いたが、普段書いているはずの自分の名前が少し歪んでしまった。それを10年間使うのである。
それを気にしなければ、手続きは問題なく終わった。手数料は締めて一万五千円也。写真代は千五百円。二日間アルバイトしないと手に入らない金額だろう。事務員は黒髪の綺麗なお姉さんだった。
あとはスーツケースが必要だ。こちらも内田は持っていなかった。手持ちのボストンバックでは心もとない。内田は都市部の家電量販店でスーツケースが売っていることを知っていた。なぜ家電量販店でスーツケースが売っているのか。内田はそんなことは気にしない。家電量販店には内田の大好きな酒も売っている。文句を言うことなど何もないのだ。
スーツケースの値段は大体一万円から三万円ほど。一万円代にコストを抑えたかった内田は、鍵のついていない一万六千円程度の物を選んだ。頭の少し禿げかかった中年の販売員は内田を心配してか、どこへ行くのか尋ねた。「アメリカです」と答えた。念の為、鍵が付いている物の方がいいと言われた。スーツケースの中身の盗難事例もあるし、中には麻薬探知犬のトレーニングの為にわざわざ客のスーツケースに入れて、そのまま忘れ去られて搬入され、入国先で御用となってしまうこともあるというふうに言われた。内田は二万四千円の鍵付きのスーツケースを買うことにした。
内田は林と居酒屋へ入り、出国の打ち合わせをした。出国は七月二十四日。テストが終わって、二度目の夏休みが始まってすぐの頃だ。滞在期間は一ヶ月。本当にアンナ・キャラウェイに会えるかどうか、二人で話し合った。林は内田からこの話を持ちかけられるまで、アンナ・キャラウェイのことは全く知らなかったし、日本のアダルト女優については非常によく知っていたが、アメリカのポルノ・スターのことなど全く興味はなかった。この時も、内田に言われて思い出したように、そういえば彼女に会うためにアメリカに行くんだったと言い出した。向こうには銃がある。撃ち殺されたらどうする?というような話をした。現にニュースで、アメリカ留学中の学生が、ハロウィンパーティで仮装をしたまま近くの家でトイレを借りようとしたところ、強盗と間違われて撃ち殺されるという事件があった。二人ともその事件については知っていたが、特には触れずに、いつもどおりの会話をした。内田の脳内では、どうやってセキュリティガード的なものを突破してアンナ・キャラウェイに近づくかを考えていた。林の脳内は未知なる世界への期待と漠然とした不安。二人とも全く別のことを考えていた。
七月二十四日午前六時。出発の朝が来た。体力温存の為に空港近辺のホテルに宿泊する提案もあったが、できるだけ費用を抑えたい為、当日朝に新宿駅で待ち合わせして出発する手はずになった。しかし、ここで一つ問題が出た。空港まで行く路線でまさかの人身事故だ。発生が五時五十分。飛行機離陸時間は十一時。運転再開を二時間後も見積もると、間に合わない可能性が大だ。内田が肩を落としていると、林が言った。「俺の親父の車を使おう」その時の林の顔はとても頼もしく見えた。偶然にも林の父親は今日仕事が休みだという。すぐに新宿から電車で林の家へ向かう。林は都内にある実家暮らしで、内田も何回か泊まりに行ったことがあった。林の部屋の中に山のように積み上げられたアダルトDVDや成人向け雑誌が印象的だった。更にそれらは「母ちゃんに整頓してもらっている」という林の一言はもっと印象的だった。
とにかく今は早く空港に向かわなければならない。新宿を出て三十分程で林の家に到着した。家には誰もいなかった。そういえば両親は昨日から旅行中だという。車の鍵のありかは林が知っていた。申し訳ないが今は一刻を争うので、事情説明は後ほど電話ですることにした。まだ少々時間があると言っても、何ぶん空港までの不慣れな道である。それにまた何かの事故で足止めを食らうとも限らない。車に乗り込み、運転席の林がエンジンをかけた。全く現状とは関係ないが、他人の車の中というのは独特の匂いがする。内田はそれを嫌いじゃないと思った。
車を走らせてから一時間程経っただろうか。今の所問題無し。この調子なら余裕で空港まで着くだろう。目の前にディズニーランドが見えてきた。ふと恋人とここに来たときのことを思い出した。その日は彼女の誕生日で、プレゼントに四千円のポーチを買ってあげた。今でもその時の、品物の値段をこそこそと気にする、ケチな自分い嫌気が刺す。友人は二万円のネックレスを自分の彼女にプレゼントしたそうだ。愛の値は金で計れなければ何で計ろうか。一緒にいた時間の長さ?「愛してる」と言った回数?いずれも内田にとって金の方が重いもののように思えた。なんだかんだで、本当に大事なのは金だという風潮がある世相だった。金が無ければ、今目の前を通過するディズニーランドにも入れはしない。アンナ・キャラウェイだって見向きもしてくれないだろう。大人になっていくにつれ、それがどんどん表面化していくのだ。学生である自分達の中に、今のうちから将来の金脈となる根を張り出している連中もいるだろう。自分はそういう人達からは見下される存在かもしれない。しかし金よりも重いものとはなんだろうか。それは若さだ。こればっかりは金をいくら積んでも、漫画の世界でもない限り、手に入らない。「俺はまだ若い」内田は心の中で大きく呟いた。空港が近づくにつれ、内田の神経は研ぎ澄まされていくようだった。
空港を前にして、検閲があった。内田と林がお互いのパスポートを検閲官に見せ、先に進もうとしたところ、
「運転手の方は免許証も見せてください」
と言われた。
数秒ほど応答がないので、林の方を見た。
林が固まっている。
前方の窓ガラスを見つめていて、検閲官の方を見ようとしない。
「おい」内田は話しかけた。
「免許証だってよ」
林からの返答がない。
「まさか・・・・・!」
そのまさかだった。林は無免許だった。前にシンガポールに行った時には電車で空港まで来たため、免許証は必要なかったという。
そのあと、「家に免許証を忘れた」と嘘をついたが、挙動の不審さからか、すぐにバレてしまい、空港を目の前にして、我々の身柄は拘束されることとなった。
内田達は今、空港近くの警察署へ向かっている。林は「俺に構わずお前は行け」とドラマによくありそうな行動を取ったが、内田も無免許運転ほう助の罪で連行されることになった。大きな荷物もあることだし、どうやってこの状況をかいくぐって先へ進めというのだろうか。林の劇的な芝居は無駄に終わった。
空港の検閲官から警察へ身柄を引き渡され、今二人はパトカーの中にいる。そういえば幼稚園の頃、体験学習で近所の警察署のパトカーに乗せてもらったことがあったっけと内田は思った。自分と同い年の仲間で、成長してからパトカーに乗った奴は自分以外に何人いるのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。まさかこんなことになるなんて。林は首を下に下げたまま何も言葉を発しない。パトカーに乗せられる直前に、一言内田に「ごめんね」と言った。無責任な男だとは思っていたが、まさか無免許で運転していたとは。あまりに平然と運転していたので、逆に凄い神経の持ち主だと思った。しかし今ここで褒めてどうする。こんなところで終わってしまうなんて、と内田は思った。
警察署に着くと、内田と林は別々の部屋に通された。いわゆる取調室。内田は部屋の中で見張りの警察官と二人きりになっていた。内田には、林を責める気持ちはあまりなかった。自分無謀な旅に付き合ってくれた感謝の気持ちがあったからだ。プラマイゼロとはいかないが、次に顔を合わせるときにはそこまで責任を追及するようなことは言わないでおこうと、内田は思っていた。
それにしても長く待たされている。別に殺人を犯したわけでもあるまいに。もうすぐ待たされて一時間になるのではないか。昼食に出ているにしてもまだ時間は早すぎる。一体何が行われているというのか。
しばらくすると、刑事らしき男が入ってきた。
「待たせてしまっているね」
「あの・・・・林は?俺の友達は?」
「あ、彼ね。実はね。彼の取り調べはもう終わっているんだよ」
「え?」内田は状況が理解できなかった。
「それでね、今重要なのは君の方なんだよ、内田君。君のスーツケースなんだが、この署に何匹かいる麻薬探知犬が反応した」
「は?」
内田は信じられなかった。
「比較的簡単な鍵だったのでスーツケースはこちらで開けさせてもらった。しかしそれらしきモノは出てこなかった」
内田は当たり前だと思った。
「そこでね。どのように隠してあるのか教えて欲しいんだよ」
「え?」
内田は段々と冷や汗をかいてきた。本当に身に覚えがない。まさかあの家電量販店の中年販売員が自分をハメようとするなどありえるだろうか。
内田は言った。
「身に覚えがありません」
刑事は一息つくと「そうか」と答えた。
「こちらに来てもらおう」
そう言われ、内田は部屋から出され、地下へ続く階段へ連れて行かれた。内田には状況は良い方向に向かっていないことがわかった。地下にある廊下をいくらか通り過ぎ、突き当たりのドアを同行していた警察官の一人が開けた。中に入ると、そこは薄暗く、湿った空気が漂っていた。素人でもここが留置場であることはよくわかった。内田は幾つかあるうちの一つの房へ通された。
「しばらくここにいて貰おう」
内田は言葉を無くしていた。自分には麻薬など一切覚えがない。冤罪なのは明白だ。しかし相手は警察だ。下手に無罪を主張しても取り合ってもらえるとは思えない。呆然と考えを巡らす中、ガチャンと牢屋の鍵が閉められる音がして、内田はビクッと体を動かした。
「しばらくしたらまた来る。その時は本当のことを話すように」
そう言い残し、刑事達は行ってしまった。
思考停止。まさしく思考停止の状態で、内田は手足をピクリとも動かさずに立っていたのだった。
内田がしばらく立ったままでいると、房の奥の方から「Hello」という声がした。内田は心臓が飛び出そうになる程驚いた。暗がりの中から、黒髪の外国人女性が現れた。
「 ドウシテ、ツカマッタ、ノ?」
片言の日本語で話す女は大きな瞳で、内田をじっと見つめていた。
————こんなことがあるものなのか。
内田は混乱した。自分は取り乱してはいるが、ここが警察署の留置場で、麻薬所持の疑いで拘置されたばかりなのはわかっている。しかしその留置場で男女相部屋なんてことがあるのか。他の房に目をやると、ほとんど寝ている囚人の男たちが目に入った。女性は他には見当たらない。
「えっと・・・ドラッグ!ドラッグ!の冤罪ってなんて言うんだ?ポリス!ポリスメイドミステイク!」
「アー、ソーデスカ。オキノ、ドクデスネ。ワタシハ、ティファニー、ヨ」
内田は無理に英語を話そうとしていたが、日本語がわかるようなので、無理して英語で話さなくてもいいことに気がついた。
「アイム ウチダ」
内田は少しその女性と会話した。
ティファニーも麻薬所持で捕まったが、こちらは本物だった。アメリカから麻薬を輸送しようとしたが、日本の空港に来て御用なったという。日本はセキュリティが甘いのではと甘く見たという。
ティファニーは内田がどこへ行くところだったのか尋ねた。
アメリカと答えた。何をしに?と言われた時に、内田は非常に返答に困った。本当のことを言うべきか適当にごまかすべきか。しかし嘘をつくのが苦手な内田は本当のことを話すことにした。相手はただの一般人ではない。内田はその時何かしら淡い期待を既にしていたのかもしれない。彼女は非常にスタイルが良く、その豊満な胸は、アンナ・キャラウェイのそれと互角と言っても違わない。彼女が着ている薄緑のジャージのような上着が、少々小さめのサイズだったのでより、彼女の胸の大きさを際立たせていた。
内田は今回の旅の目的をよく考えた。アメリカへアンナ・キャラウェイに会いに行くことだ。それは、あわよくば彼女とセックスができればということ込みである。そう考えると、今ここで彼女に似た外国人と関係を結ぶことで、今回の旅の目的は達成と言っていいのではないか。正直場所はアメリカでなくても良いのである。周りの囚人は全員寝ている。場所が場所だがやるのならチャンスは今しかないのではないか。内田の停止した思考が一気に回り出した。どうやって、どのようにして、そういう空気に持っていくか。相手は本物の犯罪者だ。怖い反面その点有利でもある。きっと異性との関係は奔放に違いない。口に出して頼めばそのままOKかもしれない。でもいきなりはどうなんだろうか。殴られたりはしないだろうか。
下を見ながら思考を巡らせる内田を尻目に、ティファニーは立ち上がり、内田のすぐ横に座り込んだ。内田の鼓動は急速に高鳴っていった。
向こうから来た。
いやまだだ。ただの友情の表現なのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、彼女は上着のジッパーを下ろし始めた。信じられない光景に、内田の視界が一瞬グラついた。彼女の顔に目をやると、薄笑いを浮かべており、それが一層淫らなものに思えた。
確実。ほぼ確実にやる気だ。しかも向こうから。
それとも、ここまで来て蒸し暑いから脱いだとでもいうのか。または行為の後に大金を要求するつもりだろうか。考える内田を尻目にティファニーはどんどん服を脱着、ブラとパンツだけになっていた。
もうやるしかない。これは神の意思だ。神がこの不条理な現実に救いの手を差し伸べたのだ。意を決して内田は彼女の方を見た。
豊満な胸は目算通り、アンナ・キャラウェイと同じくらいの大きさだった。それよりも内田の目を引いたのは彼女の下半身だった。パンツが内田の手前まで伸びてきている。
何故?
そこには、上半身とアンバランスなことに、内田の見慣れた男根が付いていた。いや、内田のものよりかなり大きい。それは既に肥大化している状態だった。
思考停止。またしても思考停止。内田の脳は今日ほど忙しい日はなかったろう。
そんな内田の意思とは関係なく、彼女は後ろから内田のズボンとパンツを脱がしていった。
「ホワット!?」
なぜか内田が英語を喋っていた。既に内田の尻があらわになっていた。
「ワタシ、モトハオトコダカラ、コッチネ」
ワタシモトハオトコダカラコッチネ——————
「あのー、その胸は?」内田は訊ねた。
「Fake tits【豊胸よ】」
内田は「ですよねええええ!」と言うのが精一杯だった。内田の顔は笑っていた。もう笑うしかなかった。
刑事が部屋に戻ってきたのは既に行為が終わった後だった。
「内田。内田康介。釈放だ。麻薬の正体は君が古着屋で買ったと思われる外国産のTシャツだ。原産国でついたと思われる麻薬の匂いがべっとり付いていた。それがスーツケースの中を転がりまわったらしく、いたるところに匂いが付いていて分からなかった。無免許運転ほう助の保釈金も、君の親御さんが来て支払うそうだ」
憔悴しきった内田は房の中で横たわっていた。そして薄れゆく意識の中で、彼は、この一連の出来事をいつか絶対酒の肴にしてやる、面白おかしくふれ回ってやると、心に固く誓ったのであった。
終
最後まで読んで頂いてありがとうございました。