ぬいぐるみ
「夏樹ちゃんってぬいぐるみみたいだよね」
その言葉を聴いたとたん、私の中の電気がふっと消えたみたいに暗くなった。
別に先輩の口調が悪かったわけでもない。いたって冗談めいた口調だった。
別にその先輩と私は中が悪かったわけでもない。むしろ、私は仕事ができて大変な美人で頼りになる先輩が大好きだった。
別に状況は別に特殊なものじゃなかった。
いつもの会社のいつものお昼。いつものサンプルの積みあがった休憩室で、先輩2人とお弁当を食べていた。
それなのに、その言葉で私の中は冬の訪れた野原のように冷たくなった。でも、私もそれなりにいい歳の大人なので、努めていつもどおり先輩の言葉に相槌をうった。
「ええ? どういう意味ですかぁ?」
「なんていうか、フワフワしてて」
「わからないですよ」
「いや、純粋っていうか。まだ女になってないからかなぁ」
「こらこら、まだお昼よ」
もう一人の先輩がたしなめる。
「あ~、でも夏樹ちゃんが女になるとかいやだなぁ。そのままでいてね」
なんと答えたらいいものか分からなくて、笑って誤魔化した。
先輩は、つい最近離婚をして、会社の営業の人と付き合い始めた。だから、最近とても恋に対するテンションが高い。話題がそのての話になるのは珍しいことではなかった。
だけど、私はそういった話がどうも苦手だった。なんせ、この会社で一番若いけど今まで彼氏がいた経験がまったくないからだ。当然ながら処女である。同じ女である先輩方がどれに気づかぬわけがなかった。特に私は童顔で丸っこい体型をしている。そのことが余計に拍車をかけていた。なんというか、子供っぽいのだ。
化粧もしているし、髪もそめているが、それでもいつでも鏡の中の私は大人には見えなかった。
私は男ではないから、男の目線で自分をはかることはできなが、やはり魅力がないのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、あっという間にお昼は終わってしまった。あわただしくお弁当箱を抱えて流し台へ走る。鳴り響く蛇口の水音と換気扇。追い討ちのような電話のコール音に、考えが掻き消える。でも胸の中の電気は消えたままで、暗い空間に冷たさだけが残った。
その日の帰り道はもう暗かった。
もうだいぶ日が長くなったとはいえ、定時を過ぎてしまった空は暗い。
別に仕事がたまっていたわけではないが、なんとなく駅までの道なりを一人で歩きたくて、わざと先輩達が帰ってしまうまでグズグズと仕事を長引かせてしまった。
ひんやりとした空気に思わずジャケットの前をしめる。風が白いスカートの裾をひらひらと揺らした。
その日着ていたふんわりとしたベージュのワンピースと淡いミントグリーンのカーディガン。
この格好がいけないのだろうか、ふとそう思った。
いや、でもだからといってかっちりとしたジャケットや、タイトスカートが自分に似合わないことも知っている。リクルートスーツなど、まるで七五三のようにもみえたものだ。それにやはり、私はふんわりしたワンピースや映画に出てきそうな細かい模様のレースや淡いパステルカラーの服などが好きなのだ。胸下切り替えのワンピースやスモッグ形のトップが多いので、友達からはよく「そんな服ばかり着ているから体型が崩れるのよ」と言われた。しかし、体にぴったりした服を着るのは苦手だった。自分の体型に自信はなかったし、前にそれでからかわれたことがあった。
ああ、もしかしたら私の好きな服は、自分を守ってくれる鎧のような服なのかもしれない。
体を隠してくれる形。空気に溶けるような淡い色。すぐに逃げられるようなぺったんこの靴。
帰り道でもぼんやりと考えて歩く。いつも一人になると考え事をしながら歩くので、私の歩調は人よりも遅い。おまけに時々考えがいやな方向にいってしまうと、足取りが左右にぶれやりするので、はために怪しい人になってしまう。前に部長なんぞに見られた日には、「酔っているのかと思った」と、たいそうからかわれたものだった。
どうしてこうなのだろう。
自分には上と下に女の姉妹がいるが、二人はそんな性格ではなかった。
姉はスレンダーで社交的で、もう結婚がきまっているし、下の妹は歳が離れているが、私よりもよほど意思が強くしっかり者で、すでに男は四人目だ。
顔はそれほど似ていなくもない。しかし、いつぞや家族で撮った写真でも、自分は浮いているようにみえた。
家族はみんななにかしらスポーツをやっていたけれど、私は昔から絵や作文ばかり書いていた。内向的で、人見知りなことも手伝って、ますますインドア派になっていく私は、当然身体のほうも生活をあらわす丸っこい体系になっていった。私も一応女なので、ソレを気にして食事をひかえたり、ちょっと動いてみたりはするものの、やはり正確の根本が変わることはなく、私は家族の中で一番ふくよかだった。私は、そんな自分が世間の人とずれた感覚をもっているのを少なからず理解していた。
いつだって、私のいうことは的をはずれて、どこか遠くを目指すように、いつもどこかに消えてしまっていた。心や頭の中に浮かぶ光景に引きずられ、周りがみえなくなることもしばしばだった。そのことで人から嫌われるといったことはなかったが、知り合う人から「面白いけど、変な子ね」と笑い混じりに言われることが少なくなかった。
そう言われることで、変に落ち込むことがなかったのは私の楽観的な性格と、家族のおかげだと思う。
母は本が好きで社交的で、いろいろなこと(現実的なこともスピリチャルなことも)が世の中にあると頭でも心でも感じ取っているような人だったので、私の性格をただ単純に「そういうもの」だと受け入れてくれていたし、姉妹も私の性格にたいしてゴチャゴチャと文句をいう風ではなかった。(まぁ、姉妹の場合まだまだ自分のことが一番で、私のことなど考えている時間がなかったともいうが)
特に父は、私のこの性格に対して何もいわなかった。
父はなんというか研究者のような性格をしていて、自分の好きなことには熱心なくせに、興味のないことには、ほとほと面倒くさがりな性分だった。そして、ありがたいことに私は父にとって「興味のないこと」のほうに分類されているらしかった。
愛していないというわけではない。むしろ私は家族の誰よりも父と仲がいい。
父は全然社交的な性格ではないので、なにかと私と気が合うのだ。私の変な性格も影響して、私は思春期になっても、父を嫌いになったり、遠ざけるようなことはしなかった。それどころか中二まで一緒に風呂にはいれるような仲だった。ちなみに親子イベントの風呂拒否をしたのは、私ではなく父のほうだった。
そんなぬるま湯のような家族に囲まれて、性格を矯正させられることもなく、私はすくすくと成長し、芸大に進んだ。理由は絵を描くことしか興味がなかったのと、人とずれた感覚が私をそうさせたのだと思う。
芸大というのは、私にとって社会で初めて楽になれる場所だった。実家以外で安心できる場所など、そうそうないものだと思っていた。
クラスは、中学校や高校で、クラスに一人いるかいなさそうな不思議ちゃん系の人が大勢いた。みんな個性的な感性をもっていたし、服装もバラバラだった。何より楽だったのは、一人になっていてもちっともおかしくないことだった。
中学でも高校でも、友達が少なく、一人になることが好きだった私は、いつでもひっそりとできる場所をさがしていた。
しかし、学校というものは大抵どこにでも人がいて、一人で落ち着ける場所などそうそうなく、仕方なく図書室などで読書にいそしんでいて、常に誰かから見られているような気がした。
でも、芸大は違った。一人になりたいときは敷地内で、スケッチブックをひざに乗せ、鉛筆をかまえているだけで、誰も話しかけようとしなかった。時折り、友達が手を振ってくれて、ソレに応えたりするけど、決して誰も絵を邪魔するということはなかった。それは暗黙のルールのようなものだった。
しかし、学校である以上、やはり卒業という名のタイムリミットがあった。
親しくなれた友達は数人いて、それらはかけがいのない大切な存在で、ここにきて得たものも多かった。しかし、やはりずっと居られる場所ではなかった。
中途半端に常識人な私は、自分に絵で食べていけるほどのものがないとはっきりと悟っていた。しかし、その現実を知っていながらも、ぐずぐずとしているうちに、あっというまに時間がきて、私は次の行き先を見失ったまま、大学を卒業した。
しかし、実家に帰ることはしなかった。
なんとなく、そこに戻ったら「どうにもならなくなってしまう」というのを私は感じ取っていたのだと思う。それは感覚的なものでもあったし、「田舎に帰っても職はないから親のすねをかじりつくしてしまう」という現実的な見解でもあった。
だが行き先の選択肢は少なく、兵庫にいる姉に頼ることになった。少しでも絵に関することをしたかったが、その希望もむなしく絵に関する職は全く内定がとれず、私は一般職にも手を出し、なんとか事務職につくことができた。
世の中は甘くないと知りつつも、職をえられなかった現実に疲労していた私に、その就職は嬉しいものだった。だが、就職して一ヶ月もたたないうちに私は何度も何度も泣くはめになった。もともと、のんびりしていてテキパキと動くことの苦手な要領の悪い私は、当然、仕事のできない人の部類に入っていた。電話のコール音が恐ろしく、早口な言葉はまるで暴風雨を思わせた。頑張ろうとして、無理やり開いていた傘が無様にへし折られるような感覚をなんども味わった。やめようかと何度も何度も繰り返し思ったが、それでも私はやめなかった。
実にいろいろな想いが私の中でシャボン玉のように飛んでははじけた。
こらえ性のない最近の若者、というレッテルの中に入るのが嫌だったこと。
職を失った私の面倒を、私がみきれないということ。
また家族に迷惑をかけてしまうこと。
再就職できる可能性がほとんどないこと。
友達、社会への体裁。
まぁ、いろいろあるが、要はやめること自体が面倒だったのだと思う。
でもこれだけでは、えらく暗いので良い言い方もしておくと、私は長期戦で物事を把握するタイプなのだ。せめて三年は見極め時だと思っている。
あれほど楽だった大学でも、はじめの一年、実は苦しかったことがある。私は友達を作らなきゃという焦燥に、自分でもわけがわからずかられていて、なんとも気のあわないグループにかかわってしまったことがあったのだ。何であの時、自分がそんなことに焦っていたのかは分からないが、とにかくそのグループに関わるようになって、なにかしら私はドロドロと胸の奥に重石をおかれたように感じることが多かったのだ。大学にいったのは間違いだったとすら思った。しかし、一年くらいたって、グループ内でも他の友達が増えることで、グループが分散していき、自然消滅になったときには私もだいぶ落ち着いていて、やっと視界がひらけた感じがした。大学内でも、そばにいるだけで気持ちがいいという感じの人を何人か見つけ、勇気を出して話しかけると、その人たちはだいたい今でも連絡を取り合える仲になった人が多い。私にはこういった経験が多かった。だから、今は苦しいときなのだ。そう思って、自分を納得させていた。ただじっと呼吸をひそめて、遠くにあるものが目の前に見えるまで耐えるんだ。
幸い最近ではだいぶ落ち着いて、仕事の予定を頭にたてられるようになったし、先輩達との仲もまず良好だった。人よりもずっと遅い成長だけど、それでも進歩だ。
思考の中にいきなり甲高い音が響いた。
はっとして現実に戻ると、いつのまにかホームにたどり着いていて、掲示板がチカチカと瞬いて、電車がくることを知らせていた。その下に「人身事故のため六十分遅れがでています」とテロップが流れていた。
あぶない、あぶない。大分長いことトリップしていた。
さぞかし危ない足取りで歩いていたことだろう。やはり一番最後に帰ったのは正解だった。
電車がゆっくりとスピードを落として入ってくる。人身事故のせいで、社内は満員だった。乗りたくはなかったが、この様子では後に来る電車も、たいして変わらない込み具合だろう。
仕方なく私は意を決して、人ごみの中に身を投じた。
私の後から後から、雪崩のように入ってくる人々が私をさらに奥へとねじ込んだ。
思いがけず奥に押しやられて、身動きが取れないくらいすっぽりとある空間に私が納まったところで電車のドアが、まるで生き物みたいにため息をはいて閉まった。よっこいせ、といった様子で電車が進みだす。
他人よりも背が低い私は、空気を求めて顔をあげた。
そこに、まるで大きな老木のような顔があった。
向かい合わせになる形で私の目の前にいるその人は、見知らぬ男の人だった。無精ひげが生えていて、目の下にクマがくっきりと出ていて、なんだか呼吸が荒い。なのに、眼鏡の奥の伏せ目にはなんだか不思議な光が宿っていて、長い年月を生きた老木なのに、生き生きとした若葉をつけているような不思議な感じの人だった。
だけど、正直ちょっと気持ち悪い。植物に例えておきながらも、荒い息と、少し汗ばんでいる額は野生の獣を目の前にしているみたいに生々しくて、恐かった。だが、身動きのとれない状態でその人と離れることは叶わず、仕方なく耐える。
次の駅まで三分もない。普通電車だから、すぐに次の駅につく。降りる人もそれなりにいるだろうから、その隙に離れよう。
そう決めたら気が楽になった。落ち着いたので、空気を求めて顔をあげながら、ちらりと男性をみやる。よくみればその人は片手で掴んだつり革に、全体重をのせるようによっかかっていた。つり革を掴んでいないほうの手が、荒い呼吸をおさえるかのように口元にあてられる。
ひょっとして電車に酔っているのだろうか。
そう思ったとき、電車が駅に到着して大きく揺れた。人の波も同じようにゆれ、私も周りと同じように、流れに逆らうべく足を踏ん張ったが、さらに大きな波に襲われて、私は転倒しそうになり、咄嗟に短い片腕でつり革を掴んだ。
思いっきり腕がのびて、足の筋肉がこわばる。胸に重たい衝撃がはしって、なにがおこったのか分からなかった。
小さな悲鳴がきこえる。大丈夫ですか、と切羽詰った声がいくつか聞こえた。
私はゆっくりと状況を理解し始めた。
私の頬に、柔らかい黒髪がふれていて、じんわりと汗ばんだ他人の体温が胸に侵食していた。
私は老いた大樹を支える添え木のように、目の前の倒れてきた男を王子様よろしく抱きとめていた。男性のほうはどうやら気絶でもしているらしく、一向に起き上がる気配がない。周囲の何人かが手をかしてくれて、私はようやく体制を立て直した。しかし、さすがに成人男性を支えるのは荷が重く、周囲の人が私と一緒に男性を支えてくれた。
そのうち、誰かが電車内のSOSボタンを押したらしく、担架をもった駅員が数人駆けつけて、人ごみが割れた。私はえらく自分が注目されているのに気づき、頭の中が真っ白になった。そこでつい、
「この方の知り合いですか?」
と駅員に尋ねられて、マヌケにも
「ええ、まぁ」
と答えてしまった。しまった、と思ったがもう遅く、私は駅員さんに促されるままに担架にのせられていく謎の人の傍らにまるで恋人のように寄り添い、あげく救急車に同乗するはめになってしまった。
すべてが一瞬のうちに起こってしまって、病院に着いた私は半分放心状態で、ベッドに眠る男性の傍らに座っていた。
でもまぁ、私があまりにも放心していたので「恋人が倒れてパニックになっているのね」と誤解してくれた病院の方々の手により、男性の連絡先等を病院側が調べてくれたのは幸いだった。
知り合いだとかいっておいて、まったく相手の連絡先を知らないというのはいくらなんでも怪しい。まさか、今更「実はまったく知らないアカの他人です」なんて言うのもえらく恥ずかしかった。まぁ事実だけど。
目の前の男性は、そんな羞恥心いっぱいの私はまったく無視して夢の世界に興じているらしい。
電車の中で見たキラキラした目は今は閉じられている。青白い顔に、くっきりしたクマは変わらずだが、それでも少し楽になったらしく、額の汗もひいて、寝息は安らかだった。
医者が言うに寝不足・過労らしい。
年齢はどうみても三十前半くらいの男性が、平日の帰宅ラッシュにスーツも着ないで乗っていた。いや、それどころかジーンズにくたびれたシャツ。ラフな格好にもほどがある。いったいなんの職業なのだろう。
手持ち無沙汰な私は、とりあえず暇つぶしに、男性の眼鏡をこれでもかというほどハンカチで綺麗にこすってやった。
窓の外はすでにどっぷりと日が暮れ、病室の時計は夜の十時をまわっている。たまたま病院は駅から離れたところにあったので、駅にたどりつくまで徒歩三十分。そこから目的駅まで十分。この騒ぎでまた電車が遅れてしまったので、人はまだ多いだろう。なけなしの財布の中身を使ってタクシーを使うべきだろうか。ああ、次の日も仕事だというのに、貴重なプライベート時間が減ってしまった。でも、ここまで時間がたったらどうでもよくなってきたなぁ。
ちょっとやさぐれモードに入りかけたときに、病室の白いドアが開いた。
入ってきたのは、やけに人懐っこい笑顔のスーツ姿の男性だった。
「いやぁ、お待たせしました! すいません、仕事でちょっとここから離れた場所に行っていたものですから時間がかかってしまって……」
「あ、ええと……」
「あ、僕のこと先生から聞いてないんですかー。やっぱりねー。先生、そういうとこズボラだからなー。でも、先生に彼女がいるなんて知らなかったですよー。あ、僕は久原ツヨシといいます。久しい野原にカタカナでつよしです。よろしくお願いします」
「あ、え、あ、は、はい」
その人はなんとなく営業の人のように流れるようにしゃべった後、自然に名刺を私にむかって差し出した。しゃべり方がなんとなく仕事を思い出して、嫌に感じた私だったが、受け取った名刺を見て、少し印象がかわった。
それは普通に営業の人が使っているような簡素な名刺ではなく、自体や細かな配置やちょっとした色使いまで、きちんとこの人が選んで作ったのだろうなぁと思える美しい名刺だった。
名刺には「○×出版社 久原つよし」と書かれていた。本好きの私でなくても知っている大手出版社の名前だった。
「出版社の方なんですね。あの、失礼ですが倒れたこの人はどういう………」
「あれ? 彼女さんなのに何も知らないんですか? ええと……」
「すいません、私、遠野夏樹といいます。誤解をさせてしまって申し訳ありませんが、私、この人と何の関係もないんです。ただ、満員電車でたまたま居合わせて、倒れ掛かってきたこの人を受け止める形になってしまって」
「あれ? でもお医者さんからは貴方が先生の知り合いだと伺いましたが」
「すいません。混乱して、とっさにそう言ってしまって」
なんだか改めて言うと本当に馬鹿みたいで、私は頬が熱くなった。
しかし、久原と名乗った青年は、気にした様子もなくにっこりと笑った。
「なんだ、そうだったんですね。それは災難でした。うちの先生がご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「いえ、別に」
私の中の人見知りの機能が作動してしまって、私の会話はそこでとまってしまった。しかし、久原さんは、どうみても二十台で、下手をしたら同い年ではと思うくらい童顔なのに、その所作も会話も実に見事な大人の対応だった。
「いや、運が悪かったですね。いつもはこんなことないんですよ。この人作家でね、僕は担当なんです。たまたま先生は最近徹夜続きで、たまたま原稿の最終〆切が今日で、たまたま僕が今日は車で送ってあげられなくて、たまたま電車嫌いの先生が乗った電車が人身事故で満員で、おまけにこの人夜に弱くて、暗くなると眠くなるらしくて。子供みたいでしょう? いや、最近の子供のほうが夜遊びしているぶん夜に強いのかな」
その口調が、担当というよりも友人のようだったので、仲がいいんだなと思った。
久原さんはベッドの傍らに立つと、「先生」の顔をジロジロとのぞきこんで、ちょっと安心したように微笑んだ。
「よかった。顔色はいいし、あなたのおかげで変に怪我もしていないみたいだし。改めてありがとうございました」
「いえいえ」
几帳面に腰を九十度に曲げて礼を尽くす久原さんに私は恐縮してしまった。
顔をあげた久原さんは、なぜかいきなりはっとしたように私を見た。いや、正確には私の服装を見た。
「失礼ですが、遠野さんは学生ですか?」
「いえ、社会人です」
「職種は?」
「OL……えと、事務職です」
そ言った途端、久原さんは背景にガーンという文字が見えそうなほど、分かりやすく動揺した。
「あああ、ということは明日もお仕事ですよね? 家、家は遠いですか? 弱ったなー。本当にご迷惑を……。先生も倒れるなら相手を選んでくれたらいいのに」
久原さんはぶつぶつと文句をいいながら、彼の先生を睨んだ。
「どちらにしても、きちんとお送りさせていただきますね。あ、もちろんタクシー代はコチラが持ちますので」
「え? いえ、悪いですし………」
「大丈夫大丈夫。これくらいなら先生の稼ぎで返していただきますから。ささ、行きましょう。あまり遅くならないうちに」
久原さんは実に手際よくことを進めていく。私はされるままに、タクシー乗り場に向かうしかなかった。もっていた眼鏡を病室の机の上におくと、ベッドの上の人物が微動したが、私はソレに気づく暇もなく、なし崩しにタクシーに乗せられ、久原さんに見送られて帰路につくことになった。
翌日、昨日のゴタゴタですっかり疲れていた私は、重い頭を片手で支えるようにして目を覚ました。いつもどおりの朝だった。
昨日、あんなことがあったとはいえ、疲れでさえ仕事が忙しかったときと変わらず、自分の日常はなにひとつ変化をみせず流れていた。
食欲がわかなかったので、あったかいカフェオレだけをたくさん飲んで、炊飯器のご飯は全ておにぎりにしてラップにくるみ、化粧をして、着替えて、少しだけぼんやりして、私は家をでた。
外は雨こそふっていないものの、微妙にくもっていて肌寒い。でも、冷えた空気が少しだけ頭をすっきりさせてくれた。でもホームに入ってきた電車の様子を見てまた気が落ち込んだ。ひしめきあう人をみて、いつもどおりの光景なのに、なんだか泣きたくなった。しかしいつもどおりに電車の中に足を運ぶ。湿った空気にじんわりと汗ばんできて気持ち悪くなった。
やれやれ、なんでこんなに気がめいっているんだろう。
電車が動き出す。体が揺れる。
車窓の外に、公園に咲いた桜が見えた。
ああ、雨が降ったら散ってしまうだろうか。
刹那で過ぎ去っていく桜を見送りながら、暗い空のせいで少しくもった車窓に見慣れた自分の顔がうつった。私は思わず振り返った。
見慣れた自分の顔の後ろに映っていた人物がそこにいた。
大きな老木。あの時そう思ったけど、今日は少し違った。上下ともに黒い服に身を包んだ彼は、まるで針金人形のように細くて、光る眼鏡の下には相変わらず濃いクマがあった。しかし、今日は顔色もよく、猫背だがしっかりと立っている。なんだか柳の木のようだ。しっかりと生きているのに、しだれた枝がふわふわと風に舞って不安になる。
そんな風に思っていたら、しだれた枝が風にふかれたように自然に動いた。覚えのある目がこちらを見ていた。立ち姿とギャップのある動物の目。
あまりにもばっちりと目が合ったので、びっくりして思わず目をそらす。
どうしよう。そらしてから思うのもなんだが、挨拶をしたほうがいいのだろうか。でも覚えているだろうか。結局、あの人は私の顔をみないまま別れた。覚えていなかったら逆に変な人だ。
どうしよう。このまま無視してしまおうか。
少しだけ視線をむけてみる。すると、心配することはなかった。
彼は私のことなどとうに忘れたかのように、狭い人ごみの中で、手のひらサイズの手帳のようなものに何かを書き込んでいた。
作家だということだから、なにかアイディアでも浮かんだのかな。
認めたくないけど、なぜか私はがっかりしていた。そして同時にほっとしていた。
覚えていないことが少しショックだった。だが、こんなとこで話しかけられたら困る。人前で話しかけられるのが私は得意じゃない。しかも初対面の人となど、なにを話していいのかまったくわからない。考えただけで額ににじんだ汗が大粒にふくれあがって滑り落ちてきそうだった。
私は深く息をはいた。そして自分の気苦労だったことを思い知った。彼は結局、電車が私の目的地についても、手帳とにらめっこしたままだった。彼のほうが扉に近い位置にいたので、そばを通り過ぎる。無視するわけじゃないけど、さりげなく気づかなかったかのように出て行こうと、人ごみをすり抜けたときだった。彼の目がふたたび私を捕らえたのだ。しかも、今度はしっかりと、彼は会釈をした。
あきらかに私に向けられた挨拶だったので、私は会釈を返す。しかし、扉にむかう人の流れで、私は立ち止まることなく外へ押し出される。話しかけることはできなかった。そういう状況だった。でもすれ違う寸前に、誰かの手が私の左手を掴んだ。誰の手が確認する間もなく、その手が私に紙片を握らせる。やがて外の空気に体が包まれて、人ごみの熱気が遮断される。
左手に掴んだものを確認する前に電車を振り返る。発進する電車の中に、もう一度、無表情に会釈する彼が見えた。
朝のホームは立ち止まることを許さない。それは変わらない。でも、私の心臓だけはいつもと違ってバクバクと活動的で、階段をあがりきると息切れした。
改札の出口で待ち合わせしている学生達に混じって私も立ち止まる。
やっと開けた紙片には、少しがたついているけど綺麗な字でこう書いてあった。
「覚えていなかったらすみません。昨夜お世話になった三原といいます。お礼がしたいので、気が向いたら連絡をください」
並んだ文字の下に携帯の番号。
たかが数字だというのに、私はなぜか駅で、耳まで赤くなった。
*
その日の仕事が終わる頃には、私はいったん冷静になった。
自分の部屋に戻って、お風呂に入り、たっぷりのミルクティーをいれ、ベッドに腰掛ける。そこで私はようやく小さな白いメモに今一度目を通した。
今度は耳も赤くならず、少しだけ鼓動がはねたがそれ以上はなにもなかった。
そして私は携帯を取り出し、番号を押す。
コールの音が響くとまた緊張が私の中で沸きあがった。自分の中の緊張と一緒に、私は決めていた答えを何度も復唱する。
「気にしないでください。お礼なんていいです」
私は彼に会うつもりはなかった。
誰かに話せば「これも出会いのチャンス」「そんなんだから彼氏ができない」といった罵声がとんでくることが分かっていたので、このことは誰にも話していない。たった一人で決めた。
正直にいえば恐かったのだ。
自分は初対面の人が苦手だ。ましてや話した経験の少ない男性という生き物に、いきなり二人きりという状況など、なにを話していいか分からない。
こちらは助けた側で、向こうは助けられた側。
邪険にされることはないだろうが、変に期待も失望もされたくないし、してしまいたくない。
私はプライベートと仕事を切り離すのが下手な人間であると自覚していた。この出会いがどうなるのであれ、会ってしまえばなにかしら私は動揺してしまうだろう。そしてそれは、私の日常に支障をきたす。
断ろう。こうしとけばよかったといつか思うかもしれないけど、過去になったら忘れられる。
そんな私の心中に無機質なコール音が響く。そして、急にそれはぶつりと途切れて、初めて聞く男の人の声が響いた。
「もしもし。三原ですが」
「三原さんの携帯ですね。はじめまして。今日の朝、メモをいただいたものです」
「ああ、あなたですか。昨夜は大変お世話になりました。ありがとうございます」
「いえいえ、気にしないでください。その後体調はいかがですか?」
「ちゃんと寝なさい。食べなさい。と、まるで思春期の女の子みたいな説教をされてしまいました」
淡々としたしゃべり方だったが、不思議と受話器の向こうで彼が軽く笑っているのがわかった。
この人は、喋りながらだけど、言葉ではなく雰囲気で、物事を人に伝えるのかもしれない。
「でも今朝は顔色も良くなられていたみたいでよかったです」
「お恥ずかしいかぎりです」
不思議と、私の受け答えは思ったよりも落ち着いていた。私は本来電話が苦手なのだが、彼の言葉はなんだか聞き取りやすい。彼はゆっくりとした一定のリズムでしゃべった。言葉がなんだか気持ちよかった。
「遠野さん、でよろしかったでしょうか?」
「あ、はい。」
「久原さんからお名前を聞きまして。けれど、連絡先が分からなかったものですから御礼のいいようもなくて……。久原さんも慌てていたみたいで、私がきいたら「連絡先を聞くのをわすれていました!」って大慌てでしたよ」
「そうなんですか。でもよく分かりましたね。あの時間帯に私が電車に乗っているって」
考えてみれば不思議だった。確かに職業は教えたから、働く時間帯はだいたい分かるだろう。でも電車の時刻や車両がぴったり合うなんて………とにかく不思議だ。
すると、電話の向こうでも同じことを思っている気配がした。彼は冗談交じりに笑いながら
「誤解しないでくださいね。別にあなたをつけていたというわけじゃないですよ。僕もびっくりしたんです。僕は夜が苦手なので、朝方の電車であなたを見つけようと思って、とりあえずは一週間くらい、違う時間帯の電車を選んで乗ってみようと思ったんです。まさか、一日目で見つかるとは思っていなかったんですけどね」
「そうなんですか。よく私と分かりましたね」
「ええ、久原さんから特徴はきいていたんですけど、なんとなくこの方かなぁと思ったんです。僕自身はあなたの顔もおぼえていなかったんですけど、倒れて気を失う寸前に感じた雰囲気と似ていたので」
「雰囲気ですか?」
「ええ、なんというか………ぬいぐるみ、みたいな」
「………」
「すいません、気を悪くされましたか?」
「あ、いいえ」
「すみません、僕はその、よく言われるんですよね。作家のせいか、それとも僕自身の性格なのか「言っていることがよく分からない」って」
「いえ、そんな」
「すいません、本当は電話とかすごく苦手なんです。だから一度ちゃんと会ってお礼が言いたいんです。よければ会っていただけませんか?」
「………わかりました。どこで待ち合わせますか?」
土曜日の午前九時、JRの駅から少しはなれたオープンカフェ。それが彼と私の待ち合わせ場所だった。彼の要望で、時間帯は午前中の、彼のお勧めのカフェ。日にちは私の要望で、土曜日となった。
幸いその日は快晴で、ここちよい風が吹いていた。
短い私の髪が煽られ、小花柄のマキシ丈のワンピースが波打つ。
特別にお洒落をしたつもりはなかった。向かい合う彼もそのつもりはないようで、ところどころ色落ちした黒っぽい色のジーンズに深緑のゆるいトップス。神経質そうな眼鏡の奥に潜む目が、今は桜に向けられていた。
彼のおすすめのカフェは小さな川沿いにあった。わずかしかないベランダの部分に備え付けられたテーブルには、河川沿いに植えられた桜の花びらが舞っていた。
九時オープンのカフェは当然開いたばかりで、客は私たちしかいなかった。彼はどうやら常連らしく、店長らしき男性に挨拶すると、決まっているかのようにベランダの席に座り、私にメニューを差し出した。どうやら自分の注文は決まっているらしかった。
「飲み物はなにが好きですか?」
「紅茶が好きです」
「それならアッサムのミルクティーがおすすめです。他のだとカフェオレですね。ここのはカフェオレボールででてくるんです」
「カフェオレボールって、手で包んで飲むタイプの?」
「はい。大きめのボールでたっぷりでてくるので、僕は好きです」
「なら今日はカフェオレにしてみます」
私がそういうと彼はなんとなく嬉しそうに目を細めた。男の人に免疫のない私は、その微笑がなにを意味するのかわからなくて、ただ頬を赤らめてしまった。
「ケーキはどうしますか?」
「おすすめはありますか?」
「そうですね。この次期なら桜のケーキが……とすすめるのが一般的なんでしょうが、僕のおすすめは定番ですね」
彼がそういって指差したメニューは、華やかに並ぶケーキの写真たちの中で、一番大きな写真で、一番飾り気のないチーズケーキだった。シンプルな外見の下に「当店の定番」と文字が打たれている。
「じゃぁ、これで」
「いいんですか」
「いいんです」
「僕とおそろいになりますよ?」
この台詞もまた、私にはどうとっていいのか分からない。駆け引き上手な女性ならどうとるだろうか。だが、そんなこと考えてもしょうがない。私はできるだけ落ち着いて、彼の周りの空気を見る。
電話で話したときのように、彼の言葉の横をすり抜けて、彼の雰囲気をつかむのだ。
私はじっと目を凝らした。
桜の花びらがはらはらと舞っていた。彼は決して花の似合うような格好いい男の人というわけではなかった。だけど、違和感なくそこにいた。そして私は理解した。
彼はなんの駆け引きも持たずに、ただそう思ったから口にしたのだ。無用心で無防備な人だと思った。だから安心した。
「いいですよ」
彼はうなずくと、ウェイトレスにメニューを返した。ウェイトレスが行ってしまうと、また私の中にむずむずとした居心地の悪さが浮かんできた。すると彼は突然、椅子に座りなおして、背筋を伸ばした。
「改めて、昨日はありがとうございました」
彼はつむじが見えるほど深く頭をさげてきた。私はびっくりして、「頭をあげてください」と言った。幸い、店にはまだ誰も入ってきてなかった。
彼はゆっくりと頭をあげた。
何故だか困ったような顔をしていて可愛かった。
「でも本当に助かりました。僕はどうも夜に弱くて……しかもすごい人ごみで、もう気が遠くなってしまって」
「人ごみ苦手なんですか?」
「ええ」
「なら、朝の通勤ラッシュに乗るなんて………」
「ええ、普段なら絶対にしません。でも、恩人がいるのに直接お礼をいわないなんていうのは僕はいやだったので」
「それにしてもすごい確立で当たりましたね」
「ええ、本当に。僕も驚きました」
「ところで……」
「なんですか?」
「どうして直接話しかけないでメモにしたんですか?」
「なんとなく」
「なんとなくですか?」
「ええ。なんとなく、あなたはあんなに人が多い場所で話しかけたりして注目されるのがいやなのではないかと思ったんです」
「………」
「どうしました?」
「びっくりしています」
驚きを感じながら、私の胸は不思議な落ち着きを放っていた。
桜の花びらの色が身のうちに広がるような感覚に、私はうまれて初めて見知らぬ男性の顔を直視した。
三原さんは、例の獣のような目をしばたたせ、同じように私をみていた。
ああ、私たちは今なにかを共感しているのだ。
なぜだかそう確信した。
それは空気のような、感情のような、言葉にするのが難しいものだけれど確かに互いの胸のうちにあった。
もっとこの空気を感じていたかったが、「お待たせしました」という定員の声と、テーブルに置かれたカントリー柄の大きなカフェオレボールから立ち上る湯気に、その空気は溶けるように消えた。消えた途端、本当にそれがあったのかと思うほど、胸が痛くなった。
「飲んでみてください」
見原さんは、ごつごつした白い両手をカフェオレボールに添えた。
「さっきみたいな気分にはなれないだろうけど、痛みは消えますよ」
ああ、やはりさっきの感じをこの人は分かっていたのだ。
そのことが嬉しくて、私はいわれるままにカフェオレボールに手を添えた。薄い黄色のカフェオレボールはじんわりと温かかった。
「いただきます」
普通のカップよりも厚いのみ口が逆に安心する。口当たりがやわらかく、まったりとしてほんのり苦い液体が、私の胸を熱くした。本当に胸の痛みが消えたので、なんだか飲み方とあいまって、どこか古い国のお薬のようだと思った。
「おいしいです」
「そうですか。よかった」
彼もまた美味しそうに、手馴れた様子でカフェオレを口にしていた。彼のボールは柔らかな栗色で、彼の手にすっぽりと収まり、まるで自分のカップのようだった。
「さっきの話ですが、どうして驚いたんですか?」
その言葉に、私は話題をまき戻す。先ほどの気分にまたなれるだろうかとも思ったが、どうやら奇跡はそう何度も起こるわけではないようだ。続けざまに運ばれてきたケーキにフォークを添えながら私はいった。
「実を言うと、私、会う気はなかったんです」
私は彼がなにかを言う前に、早口で言った。
「誤解しないでくださいね。三原さんが嫌だったとか、そういうんじゃないんです。私、人見知りで、しかも男の人にあまり免疫がないので、できることなら会わずに終わらせたいと思っていたんです」
「でも、こうして会ってくれましたね」
それはゆっくりした口調だったので、私も少し気を持ち直して、彼のテンポにあわせるようにしてゆっくりと続きをいった。
「はい。さっきおっしゃったとうり、私、人前で注目されたりすることが苦手なんです。だから、そんなとこまで見抜いていた見原さんのやり方に驚いたんです。あとは……」
「あとは?」
「―――ぬいぐるみのような人、とおっしゃられたので」
私の一言に、見原さんは少しだけ視線を揺らした。そして口元に手を当て、しばらくなにかを考えているようだった。
私は何もいわずに、それをぼんやり眺めていた。これは必要な沈黙だと思った。
私はその間にケーキを口に運んだ。ほんのり甘くて、少し酸味の利いたチーズケーキが、口の中でとろけた。
「おいしいですか?」
見原さんは、変わらぬ口調でそう聞いた。
「とっても」
自然に笑顔になった。それくらいケーキは美味しかった。
私のそんな顔に安心したのか、見原さんの肩にはいっていた力が、まるで風船から空気が抜けていくみたいに消えていった。見原さんはフォークを使わずに、タルトを片手でつかむと、豪快にがぶりと噛み付いた。
もぐもぐと、口の端にタルトをつけた彼は、本当に美味しそうにタルトを食べた。彼はケーキをゆっくりと飲み込むと、口の端をぬぐった。
「よかった」
初めはどの行為に、会話に対してむけられた言葉か分からなかった。
「本当は電話口で、あなたが気を悪くされたのではないかと、もう会ってはくれないんではないかと僕も思っていたんです」
私は少し赤くなった。見抜かれていた、そのことが少し恥ずかしかった。
「三原さんは鋭いですね」
「小説家ですから。―――人を観察するような癖がついているのかもしれませんね。それでトラブルを起こすこともよくあるので、あなたに言ってしまった後も「ああやってしまった」って電話の向こうで落ち込んでいたんです」
「全然、気がつきませんでした」
「僕は考える前に言葉がでてしまうので、小説家としてはありがたいんですが、対人関係ではそれが原因のトラブルも多くて、久原さんにはいつもお世話になりっぱなしです。でも、あなたがあの言葉のせいで僕に会う気になってくれたのなら、悪いことばかりじゃないみたいです」
三原さんはその後沈黙し、一息すって改まって私に質問した。
「ぬいぐるみのような人、というのは、遠野さんにとってなにか特別な意味があるのですか?」
質問されることがわかっていたであろうその質問を、改めて声に出して言ってもらうと、私は少し考え込んでしまった。三原さんは、私の沈黙に目で合図を送ってくれた。「考えていいですよ」とその目は訴えてきてくれていた。三原さんは本当に、空気で人にものを伝えるのが上手い。おかげで私は落ち着いて自分の考えをめぐらせ、その間に三原さんはケーキを食べ終えた。
「―――たまたまですが、先日同じ事を言われて、なにか縁のある言葉だったので」
私が短く理由を述べると、三原さんは指で自分の口元をぬぐいながら、ゆっくりと喋った。
「確かにそれは興味深いですね。僕があのとき何気なく言った言葉が、偶然、遠野さんの言われた言葉に一致した。確かになにかの縁を感じますね」
あくまで彼は真面目な口調だった。
「三原さんはどういった意味で、そう言ったんですか?」
「うむ………改めて聞かれると難しいですね。先ほども言ったとおり、僕は感覚的なもので言葉を言ってしまうので、理屈は後から見つかる場合が多いんです。逆に、遠野さんはそう言われたときにどう感じたんですか?」
「………私は、自分が生身じゃない、生きていない、そんな風に感じました。もちろん、悪意でいわれた言葉じゃないって分かっています。でも、そう言われて、なんだか寂しい気持ちになりました」
この人は笑ったりしない。そう信じられたから、私は嘘をつかなかった。
でもやはり恥ずかしくて、耳まで熱くなるのを感じた。思わず視線をそらしてしまったけど、誤魔化したりはしなかった。私が恥ずかしさでウズウズしていると、やはり三原さんは笑わずに、真剣な表情でなにかを考え込んでいた。
私たちの会話には沈黙が多いな、と思った。
はたからみればおかしいかもしれない。店内には徐々に人が入り始めていて、奇妙な私たち二人に、通りかかった人が目線を向けた。私は、おかしいと思われているのが自分だけだったらいいな、とそっと祈った。目の前のこの人が悪く思われるのはいやだ。私はそれくらい三原さんを気に入ってしまっていた。
「遠野さん」
名前を呼ばれて顔を上げた。長考を終えた三原さんはなんだか困った顔をしていた。
「僕は正直、何でそう思ったのかまだ分かりません。僕は君の事を全然知らないし、感覚的な直感は、僕にとってほとんど、だいぶ後になってから理由がわかったりするから。今はまだ答えられません。だから、あなたが感じたような寂しい意味合いだったのかもわからない。だから、今はまだあなたが寂しい気持ちになったことに対して、どういえばいいのか分かりません。」
その声は誠実さを含んでいた。
彼は私を傷つけたことに対して謝りたくても謝れないのだ。
なにが悪くて、なにが私を傷つけたのか、本気で考えてくれた。そのことがなにより嬉しかった。
「じゃぁ、いつか答えがでるんでしょうか?」
「そうですね。僕もこのままにしておきたくないですし………。僕にとってもこれは、見逃しがたい疑問です」
「なら、答えが出たら教えてくれますか?」
「もちろんです。でもその代わり、というわけではないんですがお願いがあります」
「なんでしょう?」
「答えを出すために、もう少し遠野さんを知りたいんです。よければ少しの時間でいいので会っていただけますか? 僕は電話がどうも苦手なので、少しでも直接会ったほうが理解しやすいと思います。もちろん、遠野さんにも僕にも仕事があるので、時間があるときでかまいません。答えが出たら、まっさきに伝えにいきます」
「わかりました」
できるだけ冷静にこたえた。
本当は胸の中で、いろんなものを含んだ嵐が渦巻いていた。それは恥ずかしさや、嬉しさや、大胆さや、不安が入り混じって、暴風雨でそこかしこに叩きつけられる木の葉みたいに、私の内をなぶっていた。
誤魔化すように口に運んだカフェオレに桜の花びらが混じったが、私はそのままごくりと飲み干した。
体の奥まで桜色に染まるかのようで、私はとても幸せな気分になった。
いつもの朝がめぐってくる。
螺旋階段のようにぐるぐると回る朝を、私はいつもと同じように過ごしていた。
起きて、濡れたタオルを電子レンジで暖めて、ホットタオルでつかの間のんびりすると、化粧をして服を着替えて、たっぷりのお茶と軽めの朝ごはんをとる。出掛けに燃えるゴミの日だったことを思いだして、靴のまま台所まで行ってゴミを取ってくるという横着をしながら、家をでる。
ゴミを捨てて、お気に入りの曲を聴きながら、少し雲ってひんやりとした空気の中を歩く。
駅のホームにつくと、私は鞄から薄い桜色の便箋をとりだし、片手に握った。やがてホームに電車が入ってきた。いつもの電車、いつもの車両に乗り込む。手紙がつぶされないように、私はそっと抱きしめた。
人に流されながら端のほうへ行くと、その人はこちらをみて少しだけ微笑んだ。
(おはようございます)
唇がそう動いたのをみて、私も三原さんに口パクで同じように返す。
私は、守っていた手紙をさりげなく差し出すと、三原さんも同じように手紙を差し出す。真っ白な便箋にきっちりと糊付けされていて、「遠野さんへ 三原より」と書いてあった。
私は三原さんらしいと思って、はにかみながらその手紙を受け取る。
電車がブレーキをかけて、人ごみが揺れる。
三原さんはさりげなく私を支えてくれて、扉が開くと同時に、自分のいたスペースに私を誘導すると、自分は電車をおりた。最後に少しだけ振り返って会釈した。私は微笑んで彼を見送った。
時間がなく、電話の苦手な私たちがとったコミュニケーションは、わずか一駅分の電車の中で手紙を交換するというものだった。
手紙のないようなお互い自由にしようと思ったが、きっかけが掴みづらいこともあり、最初のテーマは「自己紹介」にしようということになった。二通目以降のテーマは互いの手紙の最後にいれること。
その日、定時きっかりに退社し、家にたどり着いた私は三原さんの手紙の封を切った。
三原さんの手紙の便箋は、意外にも柄が入っていて、彼らしいうっすらとしたアイビーの入った背景に、彼のどっしりとしているのに細やかな字が散歩しているように並んでいた。
私は自分の手紙が今読まれているかと思うと恥ずかしくなった。私は字が下手なのだ。
彼の字は、綺麗というわけではないが読みやすい字だった。
文面が短く、便箋一枚に収まっていたが、彼らしい雰囲気があふれていて「あ、ここで書くのをいったんやめたんだな」「あ、楽しそう」という風に、感情が見て取れた。
彼の文章は自分の自己紹介だが、過去のことは一切書いておらず、今現在の近況がかかれていた。彼が小説家として今、どんなことをしているか。三原というのはペンネームではなく、本名だとか。しかし、最後の一文に、私は少なからずがっかりした。
『僕のペンネームを遠野さんに教えることはできません。もちろん作品の名前もです』
彼によると、やはり知っている人に自分の作品を読まれるのは気恥ずかしいということだった。その文章の雰囲気が、やはり照れくさそうだったので、私も無理に聞くのは辞めておこうと思った。いつか偶然に見つかるか、それとももう私の本棚にあるのかもしれない。そう考えたほうが楽しそうだった。
正直、このときの私はかなり浮かれていて、それでいて額縁の外側から絵を見るようにして自分を見ていた。浮かれて、頭から花が咲きそうなほど笑顔でいても、自分自身が彼を異性として「すき」と思っているとか、その手の誤解はしなかった。したくなかった。
私はきっと今、ロマンス小説のような展開に、小さな少女のように恋をしているのだ。だからきっと、期待をすればするほど、現実に直面したときに、私の中の熱が急激に冷え、私はこの出来事に見向きもしなくなるのだろう。まるで苦い思い出のように。
だけど、できるなら初めて話したときのあの感覚を忘れたくない。誰かとなにかをあそこまで分かち合うことのできた素晴らしい瞬間を忘れたくはなかった。
だから私は七色の風船のように飛び交う鮮やかな気持ちを、そっと下から眺める姿勢を忘れないように努めた。あくまで綺麗な光景。七色の風船が現実という名の地面に落ちて、色あせてしまわないように。
私は、買ったばかりの桜色の便箋をとりだし、なるべく丁寧な字で次の手紙を書き始めた。
私が書いた一枚目の自己紹介は、簡単な家族の紹介や、今している仕事について(といっても内容ではなく時間帯とか休みについてだ。少しでも彼に会いたいという打算的な考えからだった)書いた。そして二番目のテーマは「三原さんの紹介してくれたカフェについて」と書いた。ただ、彼がどういった経緯で、あんな可愛いカフェにいきついたのか興味があったからだ。そして彼の手紙の最後に私宛のテーマが書かれていた。
『遠野さんの好きなこと』
正直迷うテーマだと思った。思わずペン先もとまってしまった。
でも、三原さんに対して取り繕う必要はないと思って、私は正直に書いた。
テーマに迷ってしまったこと。
正直、打ち明けるのが恥ずかしいこと。
私の好きなことは絵を描くことだということ、
でもとても下手だったこと。
芸大に言ったけど、仕事にはできなかったこと。
それらを短く簡潔に、なるべく重たい話にならないように気をつけた。最後に読み返して、誤字脱字をチェックすると、便箋とおそろいの封筒に入れてふたをする。
まるで秘密の手紙だ。この中に私が詰まっている。
そう思うとドキドキして、ああ、手紙は心を送ることなのかと改めて思った。
二通目の手紙はお互いに少し、湿り気をおびていた。
その日は雨だったので、私は手紙を濡らさないように取り出すのに苦労した。
三原さんは、なぜかコンビニのビニール袋を渡してきて、びっくりしながら彼を見送った後にその袋を開けてみると手紙がはいっていて思わず笑ってしまった。
『遠野さんへ
昨日は手紙をありがとうございました。
僕の字は読みにくくなかったでしょうか。普段はパソコンでばかり仕事をしているので、よみにくかったらすみません。
遠野さんのテーマは意外で、僕にとってあのカフェでの思い出を思い出すのに、いい機会になりました。ありがとうございます』
文面はこんな感じで始まり、続きには三原さんらしいエピソードが書かれていた。
カフェの店主は初老のかっこいい男性で、彼の奥さんに連れられて初めてカフェに行ったこと。
かっこいい外見なのに、本人も奥さんも可愛いものが大好きで、お孫さんのためにあのカフェをひらいたこと。
奥さんが亡くなってからも、あの場所を守り続けていること。
ケーキは全て亡くなった奥さんのレシピで愛がこもっていること。
男性客の客引きとして、頻繁に来るように言われたこと。
それは面白おかしくて、三原さんが店長さんのお爺さんと、いかに仲が良いかよくわかった。彼の文章はそのときのウキウキとした気持ちがたくさん伝わってきたし、あのカフェオレボウルの湯気のように、なんだかポカポカとした。彼はそんな思い出をふまえてか、今度のテーマには「懐かしい思い出」と書いてきた。
私はしばらく考えた末に、彼ほどではないけれど、私の大切な友人との思い出を書いた。高校時代の、なんのたわいもない思い出だった。けれど、書き進めていくうちに鮮明に蘇ってきて、その日は思わず、友達に電話してしまった。
電話口の彼女は、突然の電話に驚いていたけれど、思い出の話をすると「ああ、自分も覚えている」と嬉しそうに言ってくれた。
電話が切れた後、私はそのことも手紙に書いた。
そうやって連絡を取り合って二週間たった頃、三原さんは珍しく電話をしてきた。金曜日の夜のことだった。
「土曜日にまたカフェにいきませんか?」
私は快く承諾し、前と同じように回転と同時にカフェに行くことにした。その日は少しだけ雨が降っていたので、仕方なくジーンズをはいて、上に薄い青色のシフォンのワンピースをあわせた。カフェの近くで、同じようにジーンズをはいた三原さんが佇んでいて、彼の吐き出すタバコの煙がゆらゆらと揺れていた。彼は煙を目で追うようにぼんやりとしていたが、私に気がついて、携帯灰皿にタバコをおしつけた。彼の手首にひっかけられていたビニール袋と傘ががさがさと音をたてた。
「こんにちは。待ちましたか?」
「いいえ」
「タバコ、吸われるんですね。初めて知りました」
「いえ、本当にたまにしか吸いません。人前や仕事のときは吸わないようにしているんです」
彼が少しだけあわてていたので、私はなんだか嬉しくなった。
「いっらしゃい、三原さん」
店先で、アイビーとガーベラに囲まれて挨拶をしてくれたのは、三原さんの手紙に書いてあった店長さんだった。
白髪交じりの灰色の髪をオールバックにして、しゃれた眼鏡をかけている。ギャルソンの姿が似合う、背筋の伸びたカッコいいお爺さんなのに、笑顔は人懐っこかった。
「おはようございます。園崎さん」
薗崎という名の店長さんは、三原さんに全力といってもいいほどニコニコと微笑み、私に目を向けた。私は少し緊張しながら「おはようございます」と挨拶した。
薗崎さんは笑うとえくぼができた。
「いらっしゃい。三原さんが前にも連れてきていた女性だね」
女性、という聞きなれない言葉が自分をさしているのだと思うと、なんだか恥ずかしくなった。そんな私を、園崎さんは気にした様子もなく私たちを店へと招きいれた。
前に座ったテラスの席には、少し雨粒が落ちてきていて、桜の花びらが張り付いていた。
園崎さんは私たちに「おいでおいで」と子供を誘導するかのように手をひらひらとさせ、なぜか店の奥に導いた。
客席ではないらしいその空間は、薗崎さんの雰囲気で満ちていて、ここは彼のプライベートな部屋なのだとすぐにわかった。
丸くて優しい感じのするテーブルに、刺繍の入ったテーブルクロスが敷かれ、手縫いらしい可愛いクッションがゆったりとしたソファ調のイスに、こじんまりと乗っかっていた。
出窓には、ピンクとオレンジのガーベラが、小さなカラスコップに飾られていて、その横には小さなオルゴールだとか、ビー球だとか、ごちゃごちゃとした可愛いもの達が、ひしめきあっていた。
「妻を知る人は、これを妻の趣味だと思っていたようだが、実は私の趣味なんですよ」
園崎さんはそういってソファの一脚をひいてくれた。私は遠慮がちに腰掛けると、向かいに三原さんが座った。
「このテーブルクロスもクッションも私の趣味でね、刺繍が得意なんですよ」
園崎さんの、しわがたくさん入った味わい深い手が、まるで孫の頭でもなでるかのように、そっとテーブルクロスに触った。
「お上手ですね、とっても」
私が本心からそう言うと、彼は自慢げに「そうでしょう」といって笑った。ちっとも嫌味じゃない笑い方だった。
園崎さんはそのままキッチンのほうへと引っ込んでしまった。私は改めてテーブルクロスの刺繍を指でなぞるようにしてみた。
クリーム色の生地に、原色の糸ばかり使った刺繍は、鮮やかで大胆でそれでいて優しい、園崎さんそのもののような感じがした。
「園崎さんがね、新しいカフェオレボールができたから飲みにおいでって誘ってくれたんですよ」
「え、カフェオレボールも手作りなんですか?」
「はい。といっても彩色の部分だけです。器はなんでもご友人が焼いていらっしゃるみたいです」
「芸術肌の方ばかりなんですね」
「僕は芸術家なんてたいそうなものではないですよ。でも、園崎さんはそうかもしれない。あの人はやるとなったら潔癖なくらいこだわる人だから」
三原さんといい、園崎さんと、もう見ることのできない園崎さんの奥さん。そしてご友人。類は友を呼ぶというが、まさにそんな感じだった。園崎さんと三原さんの優しい感じもよく似ていた。
「この部屋も、園崎さんがお孫さんのために作った部屋なんです。特別な人だから、特別な部屋を造らなければならないって、ある日突然」
そういわれて、改めて部屋を見渡す。床に敷かれたふわふわの白いカーペットに、変わった形の証明。外国みたいな壁紙に、絵本ばかりの本棚。
どこをみても愛情にあふれていて、そこかしこに園崎さんのエネルギーが感じられた。
「とっても素敵な部屋ですね。でも、そんな部屋に私たちがお邪魔していいんでしょうか?」
私が不安そうに聞き返すと、三原さんは笑った。
「大丈夫です。僕が自分でふらりと立ち寄ると絶対に入れてくれないけど、園崎さんからお呼ばれしたときはいつもこの部屋なんです。遠野さんのことも………ああ、そうだった」
そこでなにかを思い出したらしく、三原さんは持っていたビニールの袋からクリアファイルを取り出した。
「これ、ありがとうございました」
それは五通目の手紙で、三原さんが私の絵をみてみたいといったので、渡した絵だった。といっても、ここ一年ほどはまったく書いていなかったので、大学のときの卒業式典で書いた作品をいくつか見せたのだ。(もちろん出来のいいほうのものばかり)
卒業式典のテーマは人それぞれで、私は自分の好きな小説や詩の一文を絵にすることをテーマにした。要するに挿絵のような感じだった。私の描く絵は基本が普通用紙かそれより小さいくらいのサイズだったので、百枚ほど書いて、その中から五十枚ほど選出した。まぁ、百枚といってもアイディアも多く、ラフ画が大半をしめていた。
「園崎さんにも、これを書いた人がくるんです、って言ったら即OKがでました」
「ええ! 見せちゃったんですか!」
「あ、すみません…… 」
「い、いえ。なんというか……うわぁ、恥ずかしいなぁ」
申し訳なさそうな三原さんをみて怒れなくなってしまう。まぁ、怒るほどでもないのだけど、やはり恥ずかしかった。絵を見られるってことは、心の内側をのぞかれるようなことだと私は思っていたのでなおさらだ。どんな小さな絵や落書きでも、絵にはその人の心が出る。特に卒業制作は私の中で想いが強かったので、それが前面にでてしまっている。感じ方は人それぞれだが、同じように芸術面に少しでも関わる人というのはやはりそういった面でも鋭い。園崎さんもその部類の人だからこそ、妙に恥ずかしくて、私は汗をかいた手で早々とファイルを受け取った。すぐにしまおうとしたが、三原さんにとめられた。
「ああ、待ってください」
彼はそのまま、ファイルを机の上にひろげるようにジェスチャーした。私は正直あまりみせたくなかったが、個室だということもあって、しぶしぶとファイルを広げた。
彼はぱらぱらとページをめくり、一枚を指差した。
「僕はこれが一番好きです」
それは花のような女の子が、男の子を見送っている絵だった。
「サン=テグジュペリの星の王子様の一文より」
絵の右端に、小さく印字された文章を彼は読み上げる。
「僕も星の王子様は好きです。これは薔薇と王子様の別れのシーンですね」
そのとおりだったので、私はうなずいた。
サン=テグジュペリの「星の王子様」。
王子様の星に、たった一輪咲いた薔薇の花。プライドが高く、気の強い薔薇は、王子様に我侭を言って困らせるけれど、王子様が星を出て行くとき、初めて素直になるのだ。
「薔薇の花が『わたし、ばかだった。ごめんなさい。幸せになってね』って王子様を見送るシーンが大好きなんです」
私の絵の中の薔薇は、まさに薔薇の花弁を重ねたようなドレスを着ていて、引き止めたい気持ちを隠しながら、王子様を見送っている。乙女ちっくな絵だった。
アーサー・ラッカムやエロール・ル・カインが好きな私は、昔の小説の挿絵のように、ペン画の絵を描くのが好きだった。細かいドレスのフリルをちまちまと描く作業は、人によっては嫌がるものだったけど私には全然苦じゃなかった。線を一つひくのも楽しかった。
私もこの絵が気に入っていたので、それを三原さんに好きになってもらえたことはとても嬉しかった。でも、私の中でこの絵は一番じゃなかった。その理由を、三原さんがずばり言い当てたときには少なからず驚いた。
「でも、遠野さんはこの絵に色を塗りたくなかったんじゃないですか?」
私はしばらく沈黙した。そのとおりだった。
「―――初めは、古い紙に書いてあるみたいに黄ばんだ用紙で、ペン画だけを印刷するつもりだったんです。でも、先生から色をつけたほうが絶対目立つからって言われて」
薔薇の少女のドレスや頬に塗りつけたピンク。少年の金髪。どれも私の意図を読み取ったように不自然にうかんでいる(少なくとも私にはそう見えた)
たくさんの作品が飾られる卒業式典で、作品が埋もれてしまわないようにするというのは先生としては当たり前の意見だったのだろう。しぶしぶと色をつけた私の作品を「やはりこの方が目立つ」と先生はいってくれた。でも「目立つ」と「この方がいい」というのは違うのではないかと私は思っていた。だけど私は結局逆らえずに、そのまま作品をだしてしまった。飾られた作品たちを見て、私は物悲しい気持ちになった。せっかく最後の作品だったのに。
「やっぱりそうなんですね。僕、この絵と、これを見てそう思ったんです」
彼がもう一枚みせたページには、私が初めて描いたペン画がのっていた。小さなメモ用紙に描かれた落書きのような作品。実際、授業中に暇つぶしで描いたものだった。小さな妖精のような魔女が、月の入った植物をランプ代わりに散歩している絵。なにげなく描き始めて、筆がのってしまったので、思わず綺麗にペン入れまでしてしまった作品だった。
「遠野さんの作品って感じがどれもあると思うんです。なんだか切なげで、雰囲気がある。でも、卒業作品だけ、色がぬってあって、息苦しい感じがしたんです。蛇足ってわけじゃないけど、色をぬれって言われて塗りました、みたいな」
そこまで言い当てられて私は真っ赤になった。恥ずかしくて仕方なかった。自分の弱さや怠惰さまでこの人に知られてしまった気がして、消えてしまいたかった。
「三原君、ダメだよ。女性をいじめるなんて」
園崎さんがにやにやとしながら、部屋に入ってきた。
三原さんは「え?」と短く声を上げ、咄嗟に私を見た。
私は心のそこからさらなる羞恥心がこみ上げて、額が汗ばみ、思わずうつむいてしまった。
三原さんは少しオロオロと手を空中で遊ばせた後、私に声をかけようとした。でも、薗崎がそれをさえぎるように私の顔をのぞきこんでにっこりと笑った。深く刻まれたしわの一つ一つが優しげに「大丈夫」といわれているような気がした。
「遠野さん。よければショーケースからケーキを選んでくれないかな? 新作のケーキもあるから。ああ、三原君はここで待機だよ。君はいつものだろう?」
三原さんは何か言いたげだったけど、
「いっておいでよ、遠野さん」
と短くいった。私がうつむいていたので、三原さんがどんな表情をしているのか分からなかったが、声には「ごめんなさい」って気持ちがたくさんあるように感じた。
ああ、そんなことはない。私も悪いの。
でも言葉にはならなくて、私はゆっくりとうなずくことで返事をして、園崎さんに連れられるまま、厨房へはいった。
色鮮やかなショーケースには宝石みたいなケーキが、まるで雛人形みたいに綺麗に並べられていた。だけど、その色彩がやけににじんで、私はようやく自分が泣いていることに気がついた。
あわててぬぐおうとしたら、フリルのついたやけに乙女ちっくなハンカチを園崎さんが差し出してくれた。彼は本当に紳士的で、店の椅子を一脚もってくると、そこに座らせてくれた。
「お客さんがきたりしませんか?」
「大丈夫。実はさっき内緒でクローズの看板をだしてきたから」
彼は何度も大丈夫と繰り返した。この店は自分の気まぐれでやっていると知っているお客さんが多いから、不定休だし、それもまた縁だよ、と。私は「すみません」と謝りながらも、子供のように素直に涙を流した。
彼は厨房用の小さな椅子の上に腰掛け、ゆっくりとした口調でしゃべった。
「三原君はね、無自覚に鋭くて、しかも思ったことを口にぽんぽんと出してしまう癖があるんだ。そのせいで対人関係が微妙にうまくいかなくてね。でも喧嘩するようなタイプでもないから、自然に、人数が少なくてできる商売になっちゃったんだよね。まぁ、それも人生だし、彼も後悔していないとは思う。結果的に僕も良かったと思っているんだ。今の職業は彼に合っているとね。でも、なんというか………今の環境に慣れすぎちゃって、セーブするのが下手なんだよね。大事な人でも、傷つくかなーとか考える前に、言葉がとびだしちゃうんだよね」
「………園崎さんは、三原さんをよく知ってるんですね」
「うん、実はね。彼が会社員なんて似合わないことをしていた頃に知り合ったんだ」
私は意外な事実に驚いた。
「彼ね、初めは小説家になろうなんて微塵にも思っていなかったみたいで、とりあえず食べていくために適当なところで働こうとしてね。でもまぁ、適当なところっていっても彼は頭がよかったから、大手の出版社にたまたま入っちゃってね」
聞けば、それは久原さんと同じ出版社だった。私はさらに驚いた。
「彼は言うことが鋭いし、手先は器用だったから、どんどん重宝されちゃってね。望んでもいないのにどんどん周りから上へ上へと押し上げられちゃったんだね。で、気がついたら周りが敵だらけになってたわけだ。上は良い意味でも悪い意味でも、ハングリー精神の旺盛なライバル達の溜まり場だからね。で、彼はようやく周囲の状況を見て、これ以上、上には行きたくないと彼の上司に言ったんだ。いつもみたいにそのままの気持ちをね。だが、上司はそれを許さなかったんだ。逆に「向上心がない」って怒られたらしくてね」
「三原さんは、会社をやめたんですね」
「うん。僕と知り合ったのは、ちょうど揉めていたその時だったんだ。彼はやめると決心していたけど、会社としては彼を手放したくなかっただろうからね。色々となんだかんだと言われては、辞めるのを先送りにされていた頃で、みるからに元気がなくて、疲れきっている感じだった。初めてこの店に来たのは六月で梅雨の日だった。妻がまっピンクの傘の中に、青白い顔した幽霊みたいな彼を連れてきた。ボンヤリしていて、話しかけても反応が薄いんだ。まるで、言葉を無理やり押さえ込んでいるような感じでね。自分の鋭さが嫌になっていたんだ。僕はそういう彼を見て、放っておいたほうがいいのかと思ったが、妻はそういうことに鈍くてね。なんと冗談で作った馬鹿でかいカフェオレボールになみなみとカフェオレをいれて、よろよろしながら彼の前においたんだ。彼はそれを見て、やっと少しだけ笑ってくれたんだ。嬉しかったよ」
あれだよ、といって園崎さんが指差した先に、まるで大きなすり鉢のようなカフェオレボールが、その中に華を飾られ、白いレースのカーテンに隠れるように鎮座していた。
「なんとか彼の同期だった友人の協力で、会社をやめることができたみたいだけど、前にもまして人付き合いが下手になってしまってね。少し恐くなったんだと思う。だから彼が、人を連れてくるって聞いたとき、僕はとても嬉しかったんだ」
園崎さんは本当にうれしそうに私をみて笑った。
「話は長くなったけど、彼にはそういうところがある。今までサボってきた分下手で、君を傷つけたりして、それこそ星の王子様みたいに君から離れて別の星にいってしまうかもしれない。でも、君が彼の中で大切な人になったら、きっと彼のほうから星に戻ってこようという気になるから、少しだけ見守ってあげて欲しいんだ」
「………自信がありません」
私はぐちゃぐちゃになった顔で、垂れ流した涙みたいに、正直に言った。すると、園崎さんはまるで映画か本の中の住人のようにこう言った。
「大丈夫。君は薔薇のように素直な人だから」
それは気障で格好よくて優しくて、また鼻の奥がツンとした。
私がお手洗いで顔を直した後、席に戻ると三原さんが落ち込んだ様子でぼんやりと座っていた。なんだか泣いてしまいそうな子供みたいな雰囲気だったので、私は明るい声で彼を呼んだ。
「三原さん」
彼は少しだけ体をふるわせ、まるで怒られることを予期している子供みたいにうつむいた。大きな背中がまんまるとなって、彼の肩甲骨がとびでる。アンバランスな姿は、なぜか私の心まで痛くした。その瞬間強く思った。
ああ、このまま終りにしたくない。
彼を繋ぎとめたかった。このままどこかへ行って欲しくなかった。
お願いだから私との出会いをなかったことにしてほしくなかった。
「三原さん」
もう一度彼の名前を呼ぶ。
それでも視線がかみ合わない。でも、声は聞こえているらしく、彼の首が弱弱しく、目を向いたりうつむいたりを繰り返している。
人によってはきっと、こういう態度を好ましく思わない人も大勢いるだろう。確かに傍目から見て、彼の今の行動は子供のように愚かで、とても大人には見えない。
でも、三原さんなのだ。大人の世界で大人として生きてきて、大人になって恐いものを知った人。おびえて、彼なりの戦い方をして、失敗して、怯えている人。それでも進んでいく人。
こんなの私の勝手な感傷だ。本当はきっと違う。でも生きている以上、それも彼の一部だと思うのだ。大人になりきれない私だからこそ、彼の大人になれない部分が愛しく想える。もどかしくて、涙が出そうだった。
「三原さんは私をぬいぐるみみたいっていいましたよね」
三原さんは、怯えた。
私は続けた。
「あの時私、ぬいぐるみって悪い意味でしかとっていませんでした。なんか生き物じゃないっていわれているみたいで、すごく悲しかったです。でも、そんなことないかもしれないですよね。ほら、子供って、大人にも友達にも言えないことを、ぬいぐるみに一人話しかけたりするじゃないですか。何にも言わなくて、慰めも助言も何もくれないのに。それでも寂しいときに抱いて寝たりとか、持ち歩いていつも一緒にいたりするじゃないですか」
三原さんがやっと顔をあげた。ぽかん、としてなんだかマヌケな顔だった。
「今もそういう感じなのかもしれないですよね。私はただここにいるだけなのに、三原さんはすごく素直に自分の気持ちを話してくれて、それってぬいぐるみの特権ですよね。なんにも喋らなくて、ふわふわとそこに座っているだけなのに、人になにか話しかけさせてしまう。そんな感じ」
私自身、途中から何を言っているのかわからなくなっていた。でも、それでも話を終わらせたくない一心で言葉をならべた。
小説家という職業の彼に、下手な言葉を並べるのはすごく恥ずかしいことだった。
それでも、彼とやっと目線があったことが嬉しくて、私は大きな子供みたいな三原さんににっこりと笑った。
その笑顔が伝わったのか、三原さんはぽつりと言葉を紡いだ。
「ありがとう、遠野さん」
笑ってはくれなかった。けれど、笑顔以上に優しいその間抜けな表情に、私の心がぎゅっとつかまれたみたいに熱くなった。ただただ、これが嬉しいという感情なのだと、私は精一杯それを感じた。
彼がきっと言おうとしていた謝罪の言葉が、感謝の言葉に代わったことがうれしかった。
そのうち、園崎さんのいれてくれたあったかいカフェオレとチーズケーキが運ばれてきた。
その日は幸せな休日だった。
幸せな休日から早いもので、季節が動き、五月になった。
ゴールデンウィークに入るということで、一つの節目の飲み会が開かれた。
その日は強い雨で、叩きつけるような雨音が店先にも響いていた。
むあむあとした空気の中に、汗とタバコとお酒の匂い。陽気な声と外の雨音が大合唱していて、耳がガンガンとした。
「あれー? 夏樹ちゃん、飲んでないじゃない。なにか飲もうー」
明るい声で、先輩がメニューを進めてくる。ビールが苦手なので、「じゃぁ、ストロベリーサワーで」と言うと、「可愛いー!」と野次にも似た歓声がとんだ。
すでに顔の赤い営業の人たちが、大きな声で笑った。
小さな部屋に備え付けられたカラオケのマイクで笑うので、頭が痛いほどだった。
ところせましと並んだ料理と人間で、身動きもとれない私は、なるべく目立たぬようにと身を潜めるように、ちびちびと自分のグラスに口をつけた。大きすぎる氷が唇にあたって痛い。
「次、歌いマース」
真っ赤な顔をして、すでに酔いがまわっている営業さんが、周りの数人を巻き込んで大合唱を始める。私もそれにあわせて手をたたいた。
顔では笑っていたけれど、正直はやく帰りたかった。
こういう場がコミュニケーションでは大事だということは知っていたけれど、それでもできるならやはり、あまり行きたくなかった。
こういう場は苦手なのだ。
口に含んだ食べ物も、どこか簡素な味しかせず、美味しいとは思えなかった。
私はすがるように抱えていた鞄の中に眠る手紙を想った。
あの清清しく、美しい休日から三日たった今も、彼と私の関係は崩れず、手紙はこうして互いを繋いでいる。早く続きが読みたかった。でも、全員参加の飲み会で、どうにも断れなかったのだ。二次会にだけは行くまいとかたく決めての参加だった。
「じゃぁ、次。遠野さん、歌ってみようか!」
陽気な声で自分の名前がよばれて、誰のことかとおもった。
マイクが自分にむけられ、人の視線が集まっていることに気づいて、私は赤くなった。すると、野次にも似た声がとびかった。
「ははは、夏樹ちゃん真っ赤―」
「照れてるのー? 可愛いー!」
「よしよし、ではそのまま一曲いってみましょう」
「いえいえ! 私は聞くの専門ですから!」
なるべく場が壊れないように明るい声で言ったが、それでもマイクはひっこまない。
困り果てている私に、事務員の同期が一人助け舟をだしてくれた。
「まぁまぁ、遠野さん、照れ屋だから、そのへんで勘弁してあげてくださいよー」
「そうそう、夏樹ちゃんは照れ屋なんだから、ぬいぐるみかなにかだと思ってそっとしといてあげてよ」
同期のフォローに先輩の声が重なった。先輩はすでに酔いがまわっているらしく、赤い顔で、恋人の営業さんに寄り添うように座っていた。
ぬいぐるみ、という言葉に私は背筋がぞくっとした。
今から起こることを予感しての寒気だったのだが、私がそれに気づいたときには、もう先輩の口は開いていた。
「夏樹ちゃんって経験がないんだから、こんな風に男に囲まれたら恐がるでしょう~? 」
その発言に、酔っ払い達が食いついた。
「えー? なにそれなにそれ」
「夏樹ちゃんってそうなの? 」
「うわー、じゃぁ、この中で誰が好みー? 」
「やめてよ、もう。夏樹ちゃんいじめたら怒るよー? 」
先輩の女らしい手が、私を抱きしめるようにしだれかかる。
げたげたと笑う声が、私の耳をつんざいた。
「確かに、夏樹ちゃんって年のわりに色気とか皆無だもんなー。そっかそっか、納得」
「確かにー。ぬいぐるみっぽいっぽい」
私の口から乾いた笑いだけがこぼれる。場を壊さないように、私は必死で笑った。
心の中で冷たいものがゴウゴウと音を立てて、今にも私を突き破りそうでも、私は胸を押さえてただ道化のように笑った。幸い誰も気づくことなく、その場は盛り上がった。私の中のなにかを徹底的に破壊して。
時計はすでに十二時を回っていた。ああ、鐘が鳴ったら全部魔法が解けて、これが夢だったらいいのに。
私はそんなメルヘンなことを考えつつ、真っ白な自分顔が暗い窓に写っているのを見た。電車の窓の流れる風景の中に、一人ピンで留められているように私の顔が浮かび上がっていた。
泣きこそしなかったものの、その顔は疲れきって、青ざめていた。
その顔を見ながら、私は幸せな休日を思い返した。
どうして、あの幸せな時間と、こんなひどい時間が同じ世界に存在しているんだろう。
ただただそれが疑問に思えてならなかった。それは信じがたい事実だった。
その一方でこうも思った。
こんなことが何だというんだろう。こんなこと世界中のどこでも起こっている。別に特別なことでもない。世界にはもっとひどいことが沢山おこっていて、私の不幸など、不幸と呼べる代物ですらないのだ。なにを泣くことがあるんだろう。ああ、でも。
ぐるぐると考えが頭を回り、今にも吐きそうだった。
その時、混乱している私の頭に、車掌さんのつげる声が、まっすぐと突き刺さった。
その駅は、いつも三原さんが降りる駅だった。
私は駆け下りるように、開いた扉から飛び出した。
そのまま、見慣れぬ風景を走り抜けた。背後で電車が去っていく音がきこえる。私は階段を駆け上がり、そのまま改札を通り抜けると、当てもなく駆けた。
少し走っただけで、私は息が切れて立ち止まった。足にドクドクと脈がうっていて、頭ががんがんと響いて、私は思わず近くのベンチに座り込んだ。雨で濡れたベンチが、じわっとズボンに染みを作る。気持ち悪かったが、それも立っていられなかった。
腕時計の病身がせわしなく回る。チキチキチキチキと追い立てるような秒針の音。
ああ、終電がなくなってしまう。こんなことをしてもどうにもならない。
もういい年だ。こんなことをしてもどうにもならないことも、救われることがないことも知っている。私が生きた時間なんてとてもとても短いけれど、それぐらいは分かっていた。
夜の闇はちっぽけな街灯に照らされて頼りなく、何度も聞こえる電車の遠ざかる音が、ざわざわと私の肌を波立てた。
行かなくちゃ、行かなくちゃ。
泣くこともできないなら行かなくちゃ。
何度も何度もそう言い聞かせるのに、足が全然動かない。
時計の針ばかりが進んでいって、そのうち電車の音も聞こえなくなってくる。雑音のような車のエンジン音と、時折り激しくなるバイクの音。かすかに人の笑い声。安っぽい街灯の明かりに、小さな羽虫の羽音まできこえてきそうだ。背筋が冷たくなるほど恐いのに、それでも動こうとしない私は、どうしようもない愚か者だ。
ただただ吐き気ばかりがこみ上げる。
この気分を少しでも希望に変えたくて、私はふらつく頭の中に一輪の薔薇を思い浮かべた。トゲを四つ持っている、プライドの高い美しい花。
きっと王子様が去った後、薔薇は何度も泣いたのだろう。
吹く風、来る夜に、出会ったことのない恐怖に、彼女は王子様を想ったのだろう。そして、自分の愚かさを嘆いただろう。
自分が花ならば、きっと今、その花びらが茶色く変色し、風に吹かれてゴミとなり、トゲばかりが残っている。きっとそんな状態だ。私があのプライドの高い薔薇なら、そんな姿を王子様にみられたくなかっただろう。彼がいないことに涙しつつも、どこかでほっとしただろう。
でも、現実はただただやってくるばかりなのだ。
「遠野さん?」
その声が現実の中に響いたとき、私はそれが自分の名前だと認識するのにかなり時間がかかった。
「遠野さんでしょう?」
その人はもう一度私の名前を呼んだ。
よれよれの麻のシャツにくたびれたジーンズ。足元はビーサンで、無精ひげがはえていた。その人からはかすかにタバコのにおいがした。
ああ、こんなことが現実におこるはずはないのに。
私は顔を真っ赤にした。冷え切った空気の中で、自分だけ蒸発してしまいそうなほど、体が熱くなった。見られてしまったという事実が、現実が、脳内で火花のように音を立てる。
私はふらふらしつつも立ち上がり、無意識に走り去ろうとしていた。それを察知したのか、ゴツゴツした手が咄嗟に腕を掴んだ。私は混乱して、思わず振り払おうとするが、その手ははずれない。私の目が焼かれているみたいに熱くなった。かっこ悪いことに鼻水が流れ出して、私は片方の手でそれをふきながらしゃくりあげた。かろうじて涙はでていない。
三原さんはびっくりした顔で、私を見つめていた。私は羞恥心で焼ききれそうな胸の鼓動が、体中に広がり、寒くもないのにがたがたと震えだした。
三原さんは、私の腕を捕まえたまま、そっともう片方の手で背中をなでてくれた。まるでお父さんが子供にするみたいに、ぽんぽんと軽くたたいてくれた。
そのとき私は思い知った。
現実を生きなければ、現実にこんな物語のようなことがおこるはずもないのだ。
私はじっと三原さんを見つめてしまった。どんな顔をしていたのかはわからない。
大きな手がくしゃくしゃと私の頭をなでた。少し性急な手つきだった。私はそれが不満だった。
「とにかく行きましょう。もう終電もないみたいですし」
三原さんの大きな手に引かれて、動かなかった足がすんなりと地面の上を流れた。
私は濁流のようになった心を押しとどめるために、足に力を入れて歩いた。足元にばかり力が入って、方向がおろそかだったけど、三原さんの手がそれをフォローしてくれた。
焦っているのか、それとも蒸し暑いのか、私の体温が高いのか。私の額にも、三原さんの手にも雨ではなく、汗がにじんでいる。恥ずかしくて引こうとした手を、強い力で握られた。
「驚きました」
珍しく早口で三原さんが言った。
「珍しく夜に目が覚めてしまって、ベランダで煙草を吸っていたら、遠野さんらしき人がいるんですから。何度も何度も見直して、ずっと動かないし」
女の子なのに危ないじゃないですか、と当たり前のことを三原さんは言った。当たり前の事なのに、今の私にはその言葉がひどく腹立たしく、怒りで頭がくらくらした。ひどく暴力的な気分で、三原さんを乱暴に突き放してしまいたい、そんな思いに駆られた。でも、握られた手の熱さと力強さに、私はほんの少しの怯えと切なさを感じて、そんなことは実際には到底できなかった。
三原さんの向かう先には、確かに私がいた公園が見える位置にベランダのある高層マンションがあった。広くて明るいエントランスをぬけ、エレベーターに乗ると、彼は十五階のボタンを押した。どうやら彼の住居らしく慣れた手つきだった。なんとなく私は意外に思った。彼は、一軒家のような地面にくっついたところに住んでいるイメージだった。彼も都会の中にいる人なのだ。
マンションはカードキーで(これもまた意外だった)電子ロックの部屋だった。重圧な扉が開くと、三原さんのにおいがした。カフェオレと植物と少しタバコの混ざった匂い。そこは彼の領域を主張していた。私はその匂いで初めて、一歩踏み出すことを躊躇した。男の人の部屋なのだ。それを猛烈に意識してしまっていた。それに気づいたのか、三原さんは手を緩めた。無理に引き込む様子はなく、かといって離す様子もない。見上げると、三原さんは困ったように笑った。
「誓います。なにもしません」
嘘のない誠実な言葉だった。それが、一瞬消えたはずの私の心にまた怒りを灯した。
「してくれて、いいです」
私は吐き出すようにそう言った。驚いている三原さんを無視して、乱暴に玄関に上がる。とまどいながらも三原さんが扉を閉めた。重い扉の音がやけに大きくきこえて、足がすくんだ。自分で言った言葉なのに、責任が持てなかった。その重圧に、私はただただ耐えることしかできなかった。そんな私を見抜いてか否か、三原さんは私に触れようとはせず「座っていてください」と言ってから、彼はキッチンにまわった。私は改めて彼の部屋を見回した。
開け放した窓に青い無地のカーテン。壁中にはりついているような本棚。アイボリーに統一された簡素なベッドに、大きめのパソコンとデスク。座りやすそうなデスクチェア。深緑のラグの上に小さな茶色いソファが二つと、小さなテーブルが一つおかれていた。テーブルの上にはあふれんばかりの本が乗せてあり、床にも数冊本が置かれていた。
私はなかなか座る事ができなかった。なんせ、お尻が濡れているのだ。心の中に燃え上がっている怒りに反して、間抜けな光景だとボンヤリと思った。
窓から入ってくる風にカーテンがひるがえる。
お尻がひんやりとして、自分が緊張していることに気づいた。手が震えていた。寒いわけじゃなかった。
キッチンで食器が音を立て、三原さんは小さな鍋に牛乳をいれて、ゆっくりとかき混ぜていた。甘い香りが風に混じった。しばらくその背中を眺めていたけれど、彼がなにを考えているか、なにを思っているのかちっとも分からなかった。
彼は呆れているだろうか。それとも失望しているだろうか。
現実にまみれたこの状況で、自分が彼にどう見えているのか、考えるだけで恐かった。
「ああ、気づかなくてすいません」
三原さんは湯気のたったココアを机に置くと奥に引っ込み、若草色のバスタオルを持ってきて、ソファにしいてくれた。
「寒いでしょう。窓を閉めましょうか?」
私は首を振って、バスタオルの上に腰掛けた。
自分から入っておいてなんだけど、密室になるのが恐かった。
三原さんはうなずいて、私の向かい側の席に座った。
「こんなに暗くなってから、外に一人でいたらダメですよ。さっきも言いましたけど、女の子なんですから」
「お父さんみたいな説教しないでください」
強く言ったつもりなのに。声にはほとんど力がでなかった。おまけに彼の顔を見る力もなくて、私はただ淡々とした様子を装いながら、なんでもないことのように言葉を繋いだ。
「私だって社会人で、大人なんです」
こんなバカなことをしでかしていて、何を言ってるんだろう。
それ自体がとても子供じみた行為だってわかっていた。でも、後には引けなかった。もうただ意地になっているだけだ。
「自分の行動の責任くらい自分でもてます」
言ってしまってからすぐに後悔する。三原さんが困っているのが空気で感じられた。それが悲しくて寂しくて、後悔もまたすぐに消える。私の中でいろんなものが生まれては、次の瞬間で死んでいった。めまぐるしいその変化に、私は息も絶え絶えに、ただただ耐えた。でも、そんな私と逆に、三原さんはあくまで冷静で、そして大人だった。
「なにかあったんですか?」
そんなこと聞かないで欲しい。
言ってしまえば、呆れられてしまう。
優しくされるよりむちゃくちゃにされたい。
彼の声に、動きがたてる音にさえおびえているくせに、そんなことを強く思った。
ギチギチと身のうちに刻まれていくひびが、私に言葉を発せさせなかった。
三原さんはただ黙っていた。私も黙っていた。
窓から吹く風に、湯気やカーテンだけがゆらゆら動くばかりで、私たちはどちらも動けなかった。だけど、二人の間に置かれたココアの湯気が一際大きくゆらいで、その奥から生き物の手がのびてきた。
感じたことのない力が、ぐっと私の肩に触れる。タバコのにおいが鼻をくすぐる。目の前に男の人がいた。
私は突然、自分の中身が綿のようになった気がした。
湯気の湿気を含むように、身のうちにつめられた綿が今にも爆発しそうで、つなぎあわされた縫い目が無理やり開かれていく。
「僕は::」
おずおずと口を開いたのは三原さんだった。彼は言葉を捜すように、時折り考えながらゆっくりとしゃべった。
「たぶん、遠野さんが思っているより普通の男です。僕も男なので、正直に言えば:::夜中に男の部屋に上がりこんで、ここで僕になにかされてしまっても、半分は遠野さんの自己責任だと思います。遠野さんが思っているよりよほど、僕もただの男です。そういうことに興味がないとはいえないし、ここであと少しでも遠野さんに触れたら、どうしてもその先に興味をもってしまいます」
それでもいい、とは言えなかった。自分で口にしたくせに、相手に言われたら足がすくんだ。
「でも、その反面、君をすごく大事にしたいとも思います。僕の中で、遠野さんと過ごした時間がすごく素敵なものになっているのを僕自身が実感しています。あの休日や手紙が、なかったことになったり、忘れたくなるようなことにはしたくないです」
三原さんはゆっくりと息をはいた。彼も緊張しているのだ。
「僕は男です。そういう行為はできるし、したいとも思います。でも、その行為が遠野さんにどううつるか不安なんです」
見原さんは一泊置いて「こっちを向いてください」といった。
私がゆっくりと顔をあげると、困り果てたような顔があった。不安で、彼も揺れているのだと分かった。
「僕は遠野さんじゃないし、えらそうなことが言える生き方もしていない。だから、今ここで何を言って、どうしてあげるのが、遠野さんにとって一番いいのかまったく分かりません。僕は、僕の気持ちを伝えることしかできません。僕はあなたに嫌われたくない」
三原さんは少し早口になり、自分でもそれに気づいたらしく、深く深呼吸した。
「遠野さん、僕にどうしてほしいですか? 僕はあなたの望むようにしてあげたい。こんな選択のしかたはずるいかもしれないけど、僕では決められないんです」
「私も:::どうして欲しいか分からない」
もう正直になるしかなかった。
血が逆流するほど恥ずかしくて、私はぬいぐるみから人間に戻った。
涙もでないのに、胸ばかりが痛くて、もう虚勢をはることすらできない。
でもそう言った途端、窓から吹く風も、たちのぼる湯気も、あの嫌でたまらなかった汚く苦しい時間さえ、意味のあるものに思えた。唐突に、そう思えた。
こんなどうしようもない私を、あたたかく見つめてくれる人がいた。
こんなこと現実にはありえないと、周りは笑うだろうか。
でもその瞬間は確かにそこにあって、胸の痛みがなによりもそれを現実にしていた。
「同じですね」
目の前の優しい人は、そう言ってめがねの奥の瞳を細めた。
肩に置かれた手が離れていく。そのことを寂しく思えた。
相手がカップの中のココアを飲むので、私もマネをした。すっかり冷めたココアは、薄い膜がはっていた。口をつけるとココアの膜がはがれて、甘い牛乳がいっぱいに広がって、頭の中がぎゅっとなった。
「甘いですね」
「甘いですか」
「すごく」
私はようやく少しだけ笑うことができた。
*
目が覚めると、机の上に散らばった紙と鉛筆が目に入った。
体をおこすと、薄手の毛布がずるりと床に落ちる。
朝日に照らされた見知らぬ部屋は、昨日とすっかり印象が違って見えた。
昨日はあんなに恐かったのに、今は壁の白までが自分を包んでくれているように優しく見えた。
ソファの上から手を伸ばして、適当に紙を一枚とる。
作文用紙の裏に書いたラフ画。右上には手紙で見慣れた綺麗な文字。
彼は自分の中に溢れる言葉を一文にして私にくれた。
私はそれに答えて絵を描いた。
簡単に、そして丁寧に。
今までの完成した絵より、こちらの絵のほうが表情豊かだった。絵は正直だった。
私はゆっくりと立ち上がり、部屋の主をさがした。
部屋は閑散としていて、人の気配が感じられなかった。
キッチンに立つと、カフェオレの入ったコップがラップされていた。薄い緑のメモ用紙にメッセージが書かれていた。
『温めて飲んでください。冷蔵庫になにもないので、朝ごはんを買ってきます。玄関はオートロックになっているので、出ないように注意してください。七時半には戻ります。三原より』
壁にかけられたシンプルな時計をみると、まだ六時半だった。きっと朝の散歩もかねているのだろう。
でも、もし彼が同じように緊張して眠れなかったのだといいな、と少しだけ思った。
「カフェオレか」
彼らしい飲み物だ。暖めずに口をつけると、それはまだ生ぬるくて、彼がまだ出て行って、そう時間がたっていないのだと思った。カフェオレを飲み干すと、少し頭がすっきりした。
私は洗面所とタオルを借りて、顔を洗った。化粧がほとんどはげていて、落とさずに寝てしまったので少し肌ががさついていた。
鞄の中のメイクポーチで、化粧落としとアイブロウだけ取り出し、眉毛だけ書いた。
吹き込んでくる風に寝癖だらけの髪が揺れて、私は窓を閉じた。適当に水で髪をぬらして、寝癖をととのえるとカフェオレのカップを洗う。適当に布巾でふくと、カップを重石に、メモをおいた。
「ありがとう」
そのメモを声に出して読み上げて、私は三原さんの家を出た。
オートロックが重たく閉まる。ああ、これでもうここには入れない。鍵の閉まる最後の音をきいて、やけにすっきりした気持ちになった。
マンションから駅への道のりをすいすいと歩くと、途中で三原さんを見つけた。
コンビニの袋がやけにふくれていて、きっと迷っていっぱい買ってくれたんだろうな、と思った。申し訳ないようなあったかい気持ちで、私の足取りはさらに軽くなった。
私はそのまま声をかけずに、駅に吸い込まれていく。
目があつくなる。私はようやく泣くことができた。
まぶたの奥に焼きついた人の残像を思い返しては涙が出た。
まだ数少ないすれ違う人が、奇異な目で私を見た。でも気にもならなかった。
こんな気持ちいい涙はきっともう流すことはできない。
ほろほろほろほろ、流れていけ。
ぬぐったりしないから、風に流れてとけていけ。
涙で心が晴れて、見つけたことは一つだけだった。
ああ、私、恋をしている。
早朝の風は少し強くて、パーカーの帽子が引っ張られるほどだった。
風に対する障害物が何もない田舎では、まるで百メートル走でもしているかのように、風がまっすぐに駆け抜けていく。
ここでは人ではなく、自然が主役なのだ。
遠くに見える道路で、車がその風と戦うように走り去っていく。ゴールデンウィークともなれば、田舎の道路でも、それなりに交通量が増えるのだ。
みんなどこへ行くんだろう。誰と行くんだろう。
あの人はどうしているだろうか。
「夏樹、こんなところでなにしてんだ?」
男の人の声がしたので一瞬びっくりしたが、すぐに聞きなれた声だと気づいた。
「お父さんこそ。こんな時間から散歩? 会社休みなのに」
上から下まで紺色のジャージに包まれた父は、愛犬を引き連れてお散歩中のようだった。愛犬の艶やかな稲穂みたいな毛並みがゆれている。息を荒くしながら、愛犬は私にまとわりついた。軽く頭をなでると嬉しそうに尻尾を振る。ずいぶんと実家には帰っていなかったのに、私を覚えているのだなと不思議に思った。
「お前こそ、休みなのに随分と早起きだな」
父は私の隣でゆっくりと歩き始めた。私もそれに合わせた。
「なんとなく目が覚めたから」
「そうか」
私は意味もなく嘘をついた。父は適当に相槌を打った。
父はあの人のように鋭くなく、会社員だけどずっと田舎暮らしで、人よりマイペースで鈍かった。私はそんな父が大好きで、今は救われていた。父は何も気づかない。だからなにも聞かないでいてくれた。全ての人が理解ある人ではなくてもいいのだ。本心から気づかない人がいてもいいのだ。そんな人に救われる人もいる。
「お父さん、毎日こんな早くから散歩してるの?」
「だいたい毎日そうだなぁ」
「さぼったりしないの?」
「雨の日とか嵐の日はさすがにさぼるなぁ」
どうでもいい会話が心地よくて、いつもよりゆっくり歩いた。父はそれに合わせてくれた。
「しかし、お前はゴールデンウィークだっていうのに遊びにいかないのか?」
「そんなことないけど、この後も友達と遊びに行くし」
「お父さんはそれでもいいけどなぁ。お姉ちゃんとお前は本当に違うなぁ」
今頃見知らぬ外国へ旅行中であろう姉を思っているのか、父は空を見上げた。
「私はお姉ちゃんと違ってお金もなければ、相手もいないからねぇ。寂しいもんですよ」
わざと年寄りみたいな言い方をしたら、父は楽しそうに笑って、私の頭をなでた。
父はこういうところがある。姉や妹には絶対にしないようなことを私にはする。それは私がいつまでたっても子供じみているからだろう。
それは社会から見たら、よくないことなのかもしれない。でも、それを許して、愛してくれる人がいる。私は大きな父の手と、もう一つの手を思い出した。
肩に置かれた大きな手。恐くもあり、安心できるものでもあった。父とはまた違う手。
「ねぇ、お父さん」
「ん?」
「お父さんは、私がいないとき寂しいなぁっておもう?」
父は少し黙り込み、また私の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「寂しいよ」
とっさに血の繋がりを感じた。私が馬鹿なほど素直なところがあるのは、きっと父に似たのだ。
「お前は結婚してもすぐに実家に帰ってきそうだなぁ」
「なにそれ。結婚にむかないってこと?」
「いやいや、お前は優しいからなぁ。帰って来いって言ったら帰ってくるんだろう」
「いやいや、案外向こうに彼氏とかできたら帰ってこんかもよ?」
「そうかー、寂しいなぁー」
父は本音なのかなんなのか分からない口調でそう言って、愛犬の首からリードを離した。自由になった体を転がすようにして、愛犬は河川敷を駆け回り始めた。
「遠くに行くなよー」
父は愛犬に向かって呼びかけると、自分はどっこいしょと草の上に腰を下ろした。
私は少しはげかかった父のつむじと、広い肩を上から見下ろした。なんとなく後ろからぎゅっと抱きしめてみたら、父は驚いた様子もなく、ぽん、と私の両腕をたたいた。
「お前はいつまでたっても子供だなあ」
父は悪意なくそう言った。
私はあごをぐりぐりと父の頭にドリルのように押し付けた。痛い痛いと父は笑った。
父は私がこの世で唯一心をゆるしている男性なのだ。だが、彼はどうだっただろう。
抱きとめたことのある広い体は、父と同じくらいあった気がした。
叩いてくる父の手をそっとうけとめると、ざらりとした堅い感触がした。川の中で砂にまみれた石のような手だった。ざらついているのに角がなくて傷つかない手。
あの人の手は植物のような手だった。表面は乾いているのに、中には猛々しいエネルギーが常に循環している。表面上はとても静かで冷たい。けれど一度触れれば、少し恐くなるくらいにあつい。
「なにかあったんかー?」
あごの下からのん気な声がそう尋ねた。私は少しだけ黙ってから
「あったよーな、なかったよーな」
と曖昧な返事をした。父は何も聞かなかった。分かってそうしたのか、なにも気づいていないのかは分からない。
「よく分からない」
結局、あれから私は、彼と一度も連絡をとっていない。
帰る気のなかった実家に、三原さんの家から直接帰った。定期も財布も携帯もあったから、別に困ることもなかった。
帰る間も、帰ってからも、携帯に着信が入ることはなかった。
連絡する気もなかった。
見つめなおしたかったから帰って来たような気がする。彼とはなれた土地で、彼のことを見てみたかった。実家は新快速にのっても三時間と一時間に一本のバスを乗り継ぐような田舎なので、どこまでも続く田んぼをながめていたら、彼はいないのだと心のそこから実感することができた。
だけどいるのだ。地面で繋がった遠いところに彼がいる。
焼け付いたような残像がそれを感じさせる。
ただの通信機器に、田畑を吹き抜ける風に、父が吸い始めたタバコの煙に、すべてに彼を想った。
「お父さん、ゴールデンウィークいっぱいまでここにいていいかなぁ?」
「お前の家なんだから好きなだけいなさい。あ、でも帰ってきてもいいけど仕事はしなさい。お父さんのすねをかじりつくすなよ」
「太いすねだからいいじゃない」
「バカを言うな」
少しだけ父の本気が見えた。父は働かない人間を好ましく思っていない。両親はともに真面目だったので、芸大を卒業しても、数ヶ月職につけなかった私をかなり心配していて、就職が決まったときはかなり喜んでいた。
しかし、ふと思い当たる。
思えば都会に就職したとき、単純に喜んでくれた母と違って、父は少々複雑そうだったのだ。『絵はいいのか?』
就職するときに、一度だけそう聞かれたのをよく覚えている。
大学のときに、母と違って展覧会にも来てくれなかった父が言った言葉なので、かなり衝撃的だった。私は答えることができなかった。
思い出したのできいてみた。
「お父さん、私が就職したとき、絵のことで私に質問したの覚えてる?」
「んー? んー、ああ」
父は大きな煙を吐き出した。覚えているらしかった。
「どうしてあんなこと聞いたの?」
父はその辺の石ころに適当にタバコをなすりつけた。においも煙も火も、全てが風に流れていった。
「お前、絵が好きだったからなぁ」
父は当たり前のようにそう言った。
「世の中全ての人間が、好きなことを仕事にできるわけじゃないが、お前には絵が必要に見えたからなぁ。事務職って聞いたときに心配になったんだよ。お前は一途だし、変なところで真面目だから、いざ仕事がはじまったらそっちを優先しちまうだろう? でも絵が描けなくなったお前はどうなるんだろうなぁ、と思った」
実際ぜんぜん帰ってこなくなったしな、と父は独り言のように呟いた。
私はなんだか切なくなって、年も考えずに、ぎゅいぎゅいと父に抱きついた。
「痛い痛い」
そう言いながらも、父は引き剥がそうとはしなかった。
そのうち遊び飽きたのか、愛犬が帰ってきて、父に身を摺り寄せた。
父はリードを繋がずに、立ち上がり振り返った。
「お前も帰るか?」
「うん」
私は乳の隣を歩いた。
「でももう一回来るよ」
「何しに」
「絵を描きに来る。描きたくなった」
「そうか」
くしゃりと頭を撫でられた。
その手も表情も、どこか嬉しそうで、私は父と腕を組んだ。
ゴールデンウィークはあっという間に過ぎていき、私は母の手料理でだいぶ太ってしまった。帰ったらダイエットしなきゃ………と落ち込む私に、父は自分のスポーツバックを貸してくれた。帰るときもってきた仕事鞄一つには入りきらないほど荷物が増えてしまったからだ。
母がつめてくれた食料に、もって帰れといわれたお土産。そして何よりスケッチブック。引っ張り出してきた大学時代のスケッチブックにはあまっているページが結構あった。私は実家にいる時間のほとんどをスケッチに費やし、時折り、そこに自分の絵を取り入れた。
あまっているページはどんどん埋まっていった。不思議なスピードだった。
絵を描くことで無心になること。自分が育った土地であること。家族がいて、友達がいること。そのほとんどが私に恋を確信させた。
久しぶりに感じるむずがゆい感情。
恋はピンク色に例えられることが多いけれど、私の中のそれは例えるなら無色透明だった。まるでシャボン玉の表面みたいに、それは光に照らされて、次々と色を変え、虹彩を描いた。
その間も一度も携帯はなることがなく、それは私に不安と恋を感じさせた。
会いたいと思う。
その気持ちがピークに達した頃に、ちょうど休みが終わったのだ。
「気をつけて」
駅まで送ってもらうために車に乗り込むと、父は窓から顔を出してそう言った。
少し強くなった五月の日差しに、いつも汗臭い父が少しだけ爽やかにみえた。
最後の休みの夜、遅くに自分の部屋にかえると、暗闇の中で携帯が光った。少し緊張して画面をあけるが見知らぬ番号だった。ほっとしたようながっかりしたような気持ちで着信ボタンを押した。
「もしもし、遠野ですが」
「こんばんは、久原です」
思いも寄らぬ人物の登場に、私は少し沈黙してしまった。その沈黙に、久原さんは少しだけあせったように声をかけてきた。
「三原先生の担当の久原です。病院で一度お会いしました」
「すいません。覚えていないわけじゃなかったんです。ただ驚いて」
「ああ、よかった。不振がられて携帯を切られたらどうしようかと」
久原さんが少しおどけた様子でそう言った。
「それにしてもどうしたんですか? 私になにか?」
「その前に確認したいことがあるんですが」
「なんでしょう?」
「遠野さん、ゴールデンウィーク休暇中でした?」
「? ええ、そうですが」
「やっぱりそうですよね! 」
久原さんはなにがおかしいのか、電話口で大声で笑った。私は首を傾げた。
「ああ、すいません。実はあなたに連絡をしようと思ったんですが、ゴールデンウィーク中に連絡するのもどうかと思いまして」
「なにか急用でしたか?」
「まぁ、急用といえば急用で………先生のことなんですが」
「なにかあったんですか?」
思わず語気が荒くなった。しかし、久原さんは笑いを隠そうともせずにこう言った。
「先生すっかりへこんでいましたよ」
「え?」
「小説家ってのは、ひたすら締め切りまであと何日かのカウントダウンをするばかりで世の中のイベントごとにはうといんです」
私は意味が分からず久原さんの話を黙って聞いていた。久原さんはひたすら楽しそうだ。
「ましてや普段電車に乗らないあの人だから、いつもより人ごみが減ったところでそれを疑問には思わない」
「久原さん、意味が分かりませんよ」
「先生はあなたに避けられていると思っていますよ」
「え?」
「遠野さん、先生にゴールデンウィークの予定を何も言わなかったんじゃないですか?」
そのとおりだった。
いろんなことがあった翌日だし、頭を冷やしたかった。何も言わなくてもゴールデンウィークだから、彼も電車に乗っていない理由はわかるものだと思っていた。
「ダメですよ。先生……というか、ああいった職業の方はイベントごとにはてんでうといんです。〆切が全てですよ。まぁ、僕らがそう教育しているせいでもありますが」
「全然きづきませんでした……。ああ、どうしよう……」
「まぁ、ゴールデンウィークだから遠野さんもどこかに行っているんだと思ったんですが、先生はえらく落ち込んで引きこもっているので声をかけられなくて。というか、引きこもって作品作りに没頭していたみたいで」
「作品作り?」
「ええ、なにか思うところがあったみたいでね」
それでね、と久原さんはもったいぶったように言った。
「遠野さん、明日お仕事の後にお時間はありますか?」
「六時に仕事が終わるので……七時以降なら」
「では、その時間に会えませんか?」
「えっと……なにか用事が?」
「実は、ゴールデンウィークのことを黙っていたことが先生にばれましてね。ちょっと罰ゲームを頼まれまして」
「罰ゲームですか?」
「ええ、助けると思って協力してくれませんか?」
確かに罰ゲームだった。
休み明けの仕事終わり、七時きっかりにあらわれた久原さんの姿を見て、疲れた体に笑いが染み渡った。
「笑わないでくださいよ」
「すいません」
謝ったものの、笑いが止まらない。
カッコいい若い敏腕編集者が大きなティディベアとリボンのかかったプレゼントを抱えて立っていた。スーツ姿なのが余計におかしい。いつも冷静そうな顔に少し赤みが差していた。
「いったいどうしたんですか?」
「言ったでしょう? 罰ゲームですよ! まったく子供っぽいんだから!」
憤慨したような声を出しつつ、なぜか久原さんは嬉しそうだった。大きなティディベアを抱えつつ腕を広げて笑う。
「先生からのプレゼントですよ」
大きなティディベアが私の腕の中にうつった。ふわふわとしたティディベアは腕がまわりきららないほど大きかった。茶色い毛皮がくすぐったくて、少しだけタバコの香りがした。
「自分で渡すのが恐いからって、思春期の少年じゃあるまいし。さぁ、乗って乗って。人の目が気になってお話もできません」
彼は真っ黒な自家用車の中に私を誘い入れた。
後部座席に私とティディベアが並んで座っている。おかしな光景だった。
「おなかは減っていますか?」
「はい」
「ではイタリアンでどうでしょう? おすすめのお店があるんです。個室で、知人の店なので、ティディベアも入れます」
「ティディベアもって行くんですか?」
「罰ゲームですからね」
久原さんはそういってエンジンを踏む。私は倒れそうになるティディベアのおなかを支えてやった。首もとの真っ赤なリボンにつられた鈴がチリリと音を立てた。
連れて行かれたレストランは、いかにも大人が好みそうな雰囲気で、上品な感じだった。その日着ていたのがジーンズだったのでものすごく恥ずかしかったが、ティディベアの影にすっかり隠れていたので気にならなくなった。
店長と知り合いらしい久原さんの案内で、あっさりと個室に入ると、ほんの少ししか時間がたたないうちに料理が運ばれてきた。高級というものを色鮮やかに表現した料理の数々だった大皿に盛られた料理を手早く久原さんが小皿に取り分ける。すっかりしり込みした私は子供のようにぎゅっとティディベアを抱きしめた。ふわりと香るタバコの香りに心が静まる気がした。
「先生からのプレゼントが気に入っていただけたようでなによりです」
久原さんは慣れた手つきでナイフとフォークを使い、もぐもぐと料理を食べながら、合間を取ってしゃべる。下品さを感じさせない食べ方と、絶妙なしゃべるタイミングだった。器用な人だなと私は感心しながら、ティディベアを隣の席に座らせ、比較的食べやすそうなものに手をつけた。
彼はその細いからだのどこにそんなに詰め込めるのかというほどの量を綺麗に食べつくし、一息ついてワイングラスの水を飲み干した。気持ちのいい食べっぷりに、私のお腹まで満たされたような気分になり、私は久原さんのすすめるデザートを断った。その代わりカフェラテを注文し、彼はコーヒーを頼んだ。
「さて、本題に入りましょう」
「なんだか仕事の話みたいですね」
「ええ、遠野さん。あなたに仕事の話です」
手を組んで机の上に乗せるスタイルのことを言ったつもりだったのだが、あまりの真面目な返答に言葉に詰まった。
そんな私におかまいなしで、久原さんは綺麗にリボンをかけられたプレゼントを机の上においた。ティディベアの印象が強すぎて忘れていたが、彼がもう一つ持っていたものだった。
「あけてみてください」
私は言われるがままにその包みを手に取った。形状で本だと思って、慎重にラッピングをはがすと、やはり中からでてきたのは本だった。ただし、背表紙もなにもない、用紙の端をホッチキスでとめてある、手作りの本だった。
題名に見知った文字でタイトルと著者名が書いてあった。
『ぬいぐるみ みはらつかさ』
全てひらがなでかかれた間抜けで優しい表紙だった。
「これは?」
「先生がお書きになった次の新作の原本です」
三原さんのものだということは見たときに思ったが、まさか原本だとは思わなくて慌ててしまった。そんな私に久原さんはくすくすと笑いながら
「大丈夫です。コピーはとってありますから。予備も含めて三部も」
と言った。私はほっとして、あらためてその本に触れてみた。
おそらくコピー用紙であろうその紙には、下敷きでも使ったかのように真っ直ぐに文字が書かれ、ところどころに赤線で訂正がひいてあった。まだ清書されていない、まさに原本という感じだった。ぱらっとめくると「魔法」という単語が何度も目にはいって、意外にもファンタジーもののようだった。
「これ、ずいぶんとひらがなが多いみたいですけど。もしかして児童小説ですか?」
「ええ、先生は児童小説の作家なんです。とはいってもミステリーが主な分野で、ファンタジーっていうのはこれが初めてです。ぼくもまだ読んでいないんですけどね」
「え? 読まれていないんですか?」
「これはあなたへのプレゼントですから。あなたに一番先に読んでもらうのが出版の条件なんですよ」
困った先生です、と久原さんはさして困っていない様子で笑った。
そこにちょうど飲み物が運ばれてきて、少しだけ会話がとまった。短い沈黙の間、ウェイターの声だけが響き、私たちは短く礼をいい、互いに飲み物に口をつけた。久原さんは食事と同じように上品に口をつけ、また絶妙なタイミングで口を開いた。鮮やかな手品のような流れ作業だった。
「遠野さんにお仕事というのは、あなたにこの作品に挿絵をつけていただきたいんです」
上品な仕草に見ほれていた私は反応が遅れた。いや、あまりに予想外な言葉だったからだ。
私は戸惑いながらも、とりあえずカップをソーサーに戻し、深く息をはいた。
てっきり、仕事というのは早く出版するために本を読むことだと思っていた。
私は久原さんの言葉を反芻し、何度も頭で噛み砕いては飲み込んだ。それでもまだ少し理解できなかった。私の様子をみて、言葉の見つからない私の代わりに久原さんがしゃべりだした。
「先生にあなたの絵をみせていただきました。ペンタッチのイラストで、昔の洋書に出てくるような挿絵の雰囲気もある。僕もまだ読んでいませんが、先生の話を聞く限り、あなたの絵のイメージは今回の先生の作品に合うと思っています」
「で、でも……」
「あなたの絵を、先生は仕事に使えるかと聞いてきました。僕はこう答えました。使えます、と」
そのときの私の胸のうちをなんと表現したらよいのか分からない。
単純に喜ぶことはできなかった。
胸のうちにとんでもなく素晴らしいプレゼントが飛び込んできたのに、中身の分からない恐怖に怯えているような、歓喜と悲観がいりまじったとても複雑な感情だった。
そんな私の感情をみぬいているかのように、久原さんは笑顔の中に真剣さをのぞかせながら、私に夢と現実を突きつけた。
「遠野さんはまだプロじゃない。ましてや今は別にお仕事もしていらっしゃる。そのことはもちろん考慮します。やると言ってくださるなら、〆切については僕の力を駆使して、無期限に近い状態まで待たせていただくつもりです。でも、作品に関して、僕は甘くしません。僕が納得し、先生の作品にふさわしい、今の遠野さんに描ける最高以上のものを求めます。作品の質に関しては、僕は言い訳をききません。もちろん、遠野さんのお仕事も関係ありません。与えられた環境の中で最高のものを提出できるまで、僕はきっと厳しいです」
それはすごく恐い大人の言葉であると同時に、とても率直で誇り高い子供の言葉のようでもあった。笑顔の中に、優しさと厳しさが浮かび上がり、私は思った。
ああ、この人は本当に三原さんの作品を大切にしている。
それは私にとってもとても嬉しいことだった。そして、何よりも作品を大事に思ってくれている人が、その大切な存在の中に私を組み込もうとしてくれているのだ。
それを与えてくれた人と、与えることを許容してくれた目の前の人に、私は深く感謝した。
だがここで礼をいうだけではダメだとも思った。その気持ちが私に言葉をくれた。
「やらせてください。よろしくお願いします」
こんなにも嬉しい言葉に応えるのならば、私も行動で示さなくては伝えられないのだ。
私の行動と精一杯の言葉に、久原さんは今日で一番満足そうに笑った。
久原さんはそのまま私を自宅まで送ってくれた。
部屋のベッドを半分も占領してしまうティディベアを、私は抱きしめて眠った。それは懐かしい彼の部屋の香りがした。
幸いゴールデンウィークあけの出勤は二日で、あっという間に週末になった。帰宅するなり、私は準備に取り掛かった。洗濯物も部屋の掃除も、夜のうちに済ませる。あすも明後日もスケジュールは真っ白にしてあった。
翌日、わざわざ薗崎さんに教えていただいたレシピで私はカフェオレを作った。教えてもらった際にサービスしてもらったカフェオレボールになみなみと注ぐと、牛乳とコーヒーのまろやかな香りが浮き立った。
お気に入りの椅子に小さなテーブルを添えて、その隣にもう一つ座布団を用意する。座布団に座ったティディベアの頭が、隣に座った私の肩にこつんとのっかった。
さて、準備は整った。
私はそっと大事な本を手に取る。
表紙を軽くなで、「よろしくお願いします」と心の中で無意識に挨拶をした。
高鳴る鼓動を心地よく感じながら、私は一ページ目をゆっくりとめくった。
物語は一人の孤独な青年の視点で語られていた。
人形職人の内気な青年の店にある日、一人の少女がボロボロのぬいぐるみをもってやってくる。
街でも一番美しい魔女の彼女に青年は恋をした。
青年は少女に依頼されて、そのぬいぐるみを修繕し始める。
少女の手によって魔法のかかったぬいぐるみは、毎日青年に語りかけ、青年は次第にぬいぐるみと仲良くなる。
しかし、修繕が終わってもぬいぐるみを少女は引取りには来なかった。噂では恋人と一緒に遠くの国へ旅立ったのだという。
青年はぬいぐるみを連れて、彼女を探す旅に出る。
いろんな国のエピソードを重ね、ぬいぐるみは何度も「もういいんです」と青年にあきらめるように言ったが、青年は彼女を探し続けた。
そしてついに、最果ての国で青年は彼女を見つける。
しかし、彼女はすっかり青年のこともぬいぐるみのことも忘れていた。しかし、青年は言うのだ。
『僕はずっとあなたを探していました。あなたからこの子を譲っていただくために』
青年の心は旅の間に、美しい魔女よりも優しいぬいぐるみのほうへ移っていたのだ。
ぬいぐるみは嬉しさで、ぽろぽろと涙を流した。
その様子をみて、美しい魔女はぬいぐるみを人間にしてやった。
青年はぬいぐるみを引き連れて国に帰る。
青年はぬいぐるみだった彼女に、人間になってもぬいぐるみのときと変わらず自分のそばに居て欲しいと頼んだ。
『君の言葉が好きだ』
『君の優しさが好きだ』
『君の温かさが好きだ』
『ぬいぐるみでも、人間でも、君は僕の心を動かしてくれたよ』
物語の締めくくりは、ありきたりで、それでいてとても甘い言葉で締めくくられていた。ぬいぐるみの彼女がどう答えたのかは分からない。物語は彼女の返事を待つ青年の描写で終わっていた。
私は彼の想いのつまった本を抱きしめ、ぬいぐるみの彼女の答えを何度も心で繰り返し答えた。
私も大好きです。とてもとてもとても。
その日は平日のお昼で、熱気を含みはじた風が強く吹いていた。
こんな時間帯に自由でいるのは、大学以来だ。人気が少なく、どこか寂しく、そして落ち着く。
記憶をたどってたどり着いた部屋のドアは、あの日と何も変わらずそこにあった。
「驚きました」
本を受け取ってから三ヶ月。私にチャンスを与えてくれた人は、再会して一番にそう言った。
相変わらず、ジーンズにシャツを羽織っただけのラフな格好。おどろいたせいで、眼鏡が若干すべりおちている。私は手を伸ばして、眼鏡の位置を正した。
「入れてもらってもいいですか? 見て欲しいものがあるんです」
「どうぞ。散らかっていますが」
彼は私を部屋に招きいれた。
忙しいらしく、パソコンの周りに資料らしき本がつみあがり、あの日見た部屋より散らかっていた。彼は私より先に部屋に入り、散らばった本を適当な箇所にまとめた。
その部屋に踏み入れた途端、私の中であの日の私が見えた。
ソファに座った意地っ張りな女。なんだか置いていかれた子供みたいに、彼女はそこにいた。
窓から吹く風に、彼女が顔を上げる。彼女は泣いていなかった。
ああ、やっと来たね。
そんな風に言われた気がして、私は心の中で謝った。
うん、遅くなってごめんね。
私は彼女の席についた。ふっと一体になるかのような感覚が心地よかった。
「お茶を入れようか」
「いいんです。なんだかドキドキして早く聞いてもらいたい」
私がそういうと、彼は向かいの席に腰をおろした。
「まず、突然来てごめんなさい」
「いいよ、嬉しい」
彼は子供のようににっこりと笑った。私はドキドキした。
「元気にしていたの?」
「それなりに。三原さんは?」
「相変わらずさ」
「電車で倒れたりしてない?」
「電車にはあれから乗ってないよ」
そのとおりだった。
三原さんは、ゴールデンウィーク前日のあの日を最後に、電車では見かけなくなった。
勝手な私はそれをとても寂しく感じたけれど、彼なりの配慮と恐れなのだと思った。それが分かる程度には、私と三原さんの関係は深かったと思った。だから私からも連絡をとったりしなかった。彼に返せるものなんて、そのときの私には何一つなかったのだ。会いたい気持ちだけ彼に押し付けることはしたくなかった。それが傲慢でも。
「あれから二ヶ月もかかったけど、ようやくあなたに見せられるものができたんです」
私が鞄から取り出した紙束を、彼は無言で受け取った。
「……随分早いね。もう少しかかると思っていたよ」
彼はその紙がなんであるかをすぐに察してくれた。久原さんに何度もダメだしをくらってできた私の作品は、自信をもって見せられるものになっていた。
「ある時間、全部作品につぎ込んだんです」
「でも、仕事もあっただろうに」
「会社、やめたんです」
彼は少しだけ驚いて、その後「そうなんだ」となんだか安心したように呟いた。
非難も驚きも説教もない。私が決めて、そうしたことを、ただ理解してくれたことが私にはすごく嬉しかった。
彼は一度だけ驚いた顔をして、その後は食い入るように用紙を見つめはじめた。めがねの奥のしなやかな眼光が用紙の一枚一枚にじっくりと、ゆっくりと注がれる。
私の顔が徐々に赤くなり、彼も同じように赤くなっていく。時折り、気を取り直すように彼はため息をついては、口を日浮き結ぶ。私はその様子をじっと見守った。
穏やかで、しかしどうにも胸が高鳴る、奇妙な沈黙が長いこと続いた。用紙の数はたかが六枚。
でも彼はじっくりとそれを噛み砕き、飲み込むように味わってくれた。
それは私自身にゆっくりと触れてはかき乱されるようでむずがゆい。だが、とても気持ちいい。
日も少しずつくれ始め、部屋全体に赤い光が差し込み始めた。
やっと彼が最後の一枚を眺め終わる。
彼は耳まで赤くなっていた。夕日のせいではない。
彼はいったん眼鏡をはずし、大きな手で目元を抱え込んでゆっくりと息をはいた。
「君は」
「はい」
「君は僕を好いてくれているんだろうか」
祈るような言葉に、私は真っ赤な顔で笑った。
もう言葉にはならなかった。
ただぽろぽろと、気持ちのいい涙が流れるだけだった。
伝わった。
窓の外はもう暗く、風に揺れるカーテンの隙間から光がのぞいた。
人工的なはずのその光は、どこか儚くて蛍を思わせた。
「会社、大変だったんじゃないですか?」
「え?」
「やめるの」
僕は大変だったから。
彼は小さくそう付け加えた。
私たちは彼の小さなベッドに二人で横たわっていた。
電気は消えていて、薄暗くて彼の顔は見えない。
いい年した大人がこんなこと、おかしいのかもしれないが、私たちはただ手を繋いで横たわっていた。
「うん、色々とあったよ」
私は隠さずにそう言った。
初めのうちは仕事と両立できると思った。
しかし、一週間で私はそれは無理なのだと悟ったのだ。
「私ね、もっと集中しろって怒られることが多かったの。会議とミーティングとか。ちゃんと聞いてるんだけど、メモとか取り始めると意識がそっちにいっちゃうの。絵を描こうってきめてから、それがひどくなったの。考えれば考えるほど、頭がそれ一点になって、他が真っ白になるの。悪気はなかったけど、その間は他の人の声が聞こえないの。無視しているんじゃなくて」
「不器用だね」
「うん、すごく不器用。その切り替えが難しかった。なるべく切り替えようとするんだけど、気がついたら私の意識が絵のほうにいっちゃうの。なんだか恐いくらいに」
実際、そのことで怒られることが増えた。会社も忙しい時期だったからなおさらだった。未熟で申し訳ないが、私はそのことにかなりへこんだ。切り替えのできない自分が情けなくて、何度も泣きそうになった。
「絵にも苦しい気持ちがすごくでてしまって、久原さんにもめちゃめちゃ怒られたの」
「恐かったでしょう。あいつは」
彼にも見に覚えがあるらしい。声はどこか懐かしさを孕んでいた。
「僕も会社を辞めるとき、あいつに怒られました」
「やめるなって?」
「いいえ、その逆です。決断するのが遅いって。人には適材適所っていうのがあって、別に他の道を選ぶことは悪いことじゃないんだって。そんなことに罪悪感を感じるなって」
「私も同じことで怒られました」
私たちは暗闇の中で笑いあった。
あの日、最初のラフ画を持っていった私に対して、久原さんはまず怒った。私は驚いたが、その言葉はただ仕事でおこられているのではなく、心配が感じられた。そして、絵を見た後にますます怒られた。そして最後に言われた。
『仕事を辞める気はありませんか? 僕は先生やあなたのような才能はありませんが、人を見る目には自信があります。あなたの仕事はきっとこちらだと僕は思います。もちろん、無理にとは言いません。あなたの人生です。歩くのはあなただから、僕の助言であなたが歩く道を変えたとしても一切、責任はもてません。でもあなたが私の助言で道を変えてくれるなら、夜道を照らす明かりくらいは提供できます。』
そういった久原さんには迷いがなかった。
次の日には、私は事情をかいつまんで上司に話した。「やりたいことができたので、仕事を辞めたい。引継ぎはちゃんとしたいが、時間がないので早めに後任を見つけて欲しい」と。幸か不幸か、今の仕事の状態に上司も困っていたらしく話はすぐについた。おまけに後任も早く決まった。約一ヶ月は、その人に仕事を引き継いでもらう手配だけしていた。
惜しんでくれる人も、寂しがってくれる人もいた。
「もちろん、無責任だって言う人もいた」
私の言葉に、彼の手がぎゅっと力を込めた。
私はころりと横向きになると、繋いだ手にもう片方の手を添えた。
「仕事にちょっと挫折したからって逃げるなんて卑怯だって、言う人もいた。これだから女は、新卒はって、言う人もいたよ」
実際に、担当をしていた営業さんのなかには喧嘩別れみたいになった人もいた。言葉の中に最後まで毒を含んだまま。
でも一番悲しかったのは、仲の良かった先輩に怒られたことだった。中途半端だと怒られた。
「本当のことだから、逆らえなかった」
「うん」
分かるよ、彼はそういってくれたような気がした。
「でも家族は意外にすぐ受け止めてくれたんだ。久原さんの力も大きかったけど、最初にお父さんが味方してくれたんだ。お母さんとか姉妹が心配してくれたけど、最後は認めてくれた」
まず最初に私が話したとき、誰よりも驚いて、誰よりも先にうなずいてくれたのは父だった。母は久原さんが説得してくれたこともあり、心配ながらも「頑張れ」と言ってくれた。
「悲しかったり、嬉しかったり、泣いたり、笑ったり、忙しかった」
彼は私と同じように横になった。
わずかな光が眼鏡に反射する。
彼の野性的な目がこちらを見ていた。
「抱きしめてもいいですか?」
わざわざ聞くところが彼らしい。私は微笑んで、自分から腕を回した。
ふと、最初に出会ったときに抱きとめたことを思い出した。あの時より幾分か痩せた気がする。
固い肩甲骨。広い胸。自分とは違う生き物が、腕の中にいる。そして私も今、その腕の中にいる。生暖かいものが腕に、背中に、お腹に、顔に、と広がっていく。自分とは違う香りが、感じたことがないくらい近くにある。正直に言えば恐くもあった。ぎゅっと力をいれられた。思わずびくりと肩が震える。
「………」
彼の体が萎縮する。私は慌てて、自分の方から彼を抱き寄せた。
彼がほっとしたように力を抜く。私は照れくさくて、彼の胸に顔を摺り寄せた。心臓の音が響く。誰かの鼓動をこんなに近くで聞いたのも生まれて初めてだ。
私たちは抱き合った。何もすることなく、ただ身を寄せ合った。
誰かからすれば、こんなことは異常なのかも知れない。
まるで御伽話。
それこそ三原さんが書いた物語の少年のように、私は今、旅に疲れて眠る少年に抱かれるぬいぐるみだ。
だけど、これは確かに確かな現実なのだ。
私の中に詰まっているのは綿などではない。
私たちもいずれ、普通の男女のように触れ合うのかもしれない。
だけど今はそうしないだけ。それでいいと思う。
キラキラして言葉にならない神聖ななにかと、生々しくドロドロと触れる熱。
世界の全部がここにある気がした。
仕事をやめて、一ヶ月たった。
その日のカフェは日差しが強くて、園崎さんは特別なあの席を提供してくれた。 私はカフェオレとチーズケーキを頼み、先輩はカフェオレだけ頼んだ。
運ばれてきたカフェオレボールは、真っ赤な玩具のような愛らしいものだった。
「私ね、仕事辞めるの」
どこか罪悪感がある表情で、先輩はそう言った。
「夏樹ちゃんに無責任とか言っといてあれだけど、彼が別の仕事を始めたいって言い出して、私もその仕事を手伝うことにしたの」
先輩は悪いことをした子供のようにもじもじとしていた。
私はその様子を、どこか不思議に眺める。言うべき言葉は私の中に自然に浮かび上がってきた。
「おめでとう、ございます」
その言葉に、はっとして顔を上げる先輩の目には、安堵がみえた。私は嬉しくなる。
互いにカフェオレを飲み干すと、余計な緊張が、カフェオレと一緒に熱く流れていく気がした。
先輩は気が緩んだらしく、前と同じように自分の恋人について語ってくれた。結婚はまだしないの、仕事が落ち着いてから、今は彼を支えてあげたいの、と。先輩の話には、夢と現実が見え隠れしては、シャボン玉みたいにはじける。不安と期待が入り混じって、それでも話さずにいられない。聞いて欲しい。
其の思いが伝わって、私は彼女の言葉にただ耳を傾ける。
しばらくすれば、彼女の瞳に穏やかな熱が宿る。先輩はなぜか私を見て赤くなった。
「不思議ね」
「なにがですか?」
「あのね、大分前に夏樹ちゃんに『ぬいぐるみみたい』っていったの覚えている?」
私は少なからず、彼女がそのことを覚えていたことに驚いたが、顔には出さずにうなずいた。
「あれね、私の中で夏樹ちゃんって子供のイメージだったの。なんていうか、子供の頃とかって、ぬいぐるみに話しかけたり、親にもいえない悩み事とか簡単に言っちゃったりするじゃない。私ね、たぶんそういう意味で夏樹ちゃんに甘えてた。たぶん、何を言っても許してもらえるって思っていたの。ひどいことも、簡単に、言ったと思う」
恥ずかしいけど、小さな声が付け加えられる。
「夏樹ちゃんがやめるって聞いたときね、唐突にそのことに気づいたの。私、ものすごく恥ずかしくて、またひどいこと言ってしまって。自分がこんな状況になってから尚更……」
私は、本当に申し訳なさそうな先輩を見ていた。
でも、いくら先輩の申し訳なさそうな顔を見ても、心は乱れず穏やかだった。もう熱い熱気が窓の外で渦を巻いている。でも、室内には涼しい空気があり、甘い香りが漂い、心地よい音楽が聞こえる。
何を怒ることがあるのだろう。
「ケーキ」
「え?」
「ケーキ食べませんか? すっごくおいしいですから」
私は自分のケーキにフォークを突き刺す。大き目のカケラが、フォークの先でキラキラと光る。
先輩はきょとんとしながらも、意を決したようにぱくっと口に入れた。
そのままもぐもぐと租借し、
「ふふっ」
そんな風に可憐に笑った。
先輩と別れた後も、私はしばらくその席に座っていた。携帯がヴィヴィヴィヴィと唸り声をあげて、机の上を這い回る。生き物のような携帯をぱっと掴み上げると、液晶画面に地元の友達の名前が表示されていた。
「もしもし」
『あ、夏樹? 今だいじょうぶ?』
「うん、どしたー? 」
『いや、仕事辞めたってきいたからさ。試しにこんな中途半端な時間にかけてみたら出るからびっくりした』
「まぁ、いろいろあってね」
『大変じゃん。どうすんの? 実家帰るの? 』
「ううん。こっちで暮らすよ」
『マジで? 仕事どうするの? あ、それとも結婚でもするの? 』
「ううん、違うよ」
電話の向こうの彼女は中学からの友達で、一年前に結婚した。正社員の立場から寿退職して、今はパートと主婦を兼業している。あの頃、私は彼女がうらやましくてしょうがなかったのを思い出した。
『違うのかー。まぁ、あんた今まで彼氏とかもいなかったもんね』
「うん、でも好きな人はいるよ」
私の一言に友達はしばらく沈黙した後、嬉しそうにはしゃぎだした。
『マジマジ? うわー、ついにきたかー! どんな人どんな人? 脈ありそう? 』
「うん、たぶん」
『うわー、やったね! 今度詳しく聞かせてよ! また帰ってくるんでしょ?』
「わかった。また帰るときは連絡するね」
『オッケー。じゃぁ、昼休み終わるから切るわ。まったねー』
電話の向こうの見えない彼女が無邪気に手を振っているのが見えたような気がした。
電話が切れた後も、絶えず蝉のジワジワと照りつけるような声が耳に響いた。
そんな大音響の中で、園崎さんの声は凛と私の耳に入ってくる。
「たぶん、なんてものじゃないでしょう」
「聞いてたんですか」
私は冗談っぽくそう言って笑った。彼が聞いているのには気づいていた。彼もそれをわかっていて、私にはにかんだ。
「彼は君が好きなんだ」
私たちは、今この場にいない人を互いに想う。園崎さんの言葉も表情も澄んでいて、この強い日差しの中でいっそう爽やかに見えた。この人はもてるんだろうなぁ、とそんなことを思った。
「昔、周りがそろって結婚し始めた時期に、ものすごく焦ったことがあるんです」
「結婚しなきゃって?」
「いいえ、このままじゃ、羨ましすぎて死んじゃうって」
仕事から逃げられることが羨ましかった。
誰にも責められないことが羨ましかった。
誰かに愛されるのが羨ましかった。
羨ましいばっかりで、足から力が抜けて、そのまま死ねる気がした。
「幸い死なない程度に自分を調整できたけど、あれは怖かったなぁ」
私が正直な感想をもらすと、園崎さんは優しい手つきで私の頭を撫でてくれた。とても心地いい、大きな手だった。彼のいれるカフェオレも、作ったケーキも、なぜこんなにも人に愛されているのか分かるやわらかい手。
「今も不安かい?」
「え?」
「彼は君が好きで、君も彼が好きだけど、君たちの関係には名前がない。恋人という名称も、結婚という契約もない。君が羨ましかったものは何一つ手に入っていないけど、不安かい?」
彼はどこか私を試しているように、ニヤニヤと悪い笑みを浮かべていた。先ほどみたいな優しい手をもっているのに、こうした彼は子供のように意地悪だ。だけど、そんな園崎さんの一面一面が私は好きだった。だって彼は私が不安でないことを知っているのだ。だけど、その理由がわからないから聞いているのだ。子供のような探究心で。
「前に、星の王子様のお話をしたのを覚えていらっしゃいますか?」
「ああ、覚えているとも。素直な薔薇さん」
「王子様と薔薇も互いに愛し合っていたけど、彼らを彼氏彼女と呼ぶ人がいるでしょうか?」
「……なるほど、それもそうだ」
彼は満足そうに頷いた。でもいつか結婚するときは教えてね、と付け加えて。
会計を終えて、私は新しいマンションに向けて歩きだした。
新しい住処は決めたばかりで、帰ればまだ開いていないダンボールが山済みされている。
園崎さんのお店に程近い場所にあるマンションの十一階。クリーム色をしたマンションは他の建物の中でも目立って分かりやすい。管理人さんの趣味なのか、マンションの周辺にある花壇には大きな向日葵がいくつも咲き誇っていた。
その向日葵の中に、頭ひとつ飛び出した人影が見えた。太陽にキラキラ光る向日葵の黄色と対照的な青白い顔なのに、瞳だけが光に反応して生き生きとしている。近づいていくほどにその光が強くなり、互いの声が聞こえる距離になると、その人物はゆったりと振り返り、目が弓なりになる。宝箱の隙間から漏れる光のような視線が私をゆっくりと包んだ。
「おかえり」
彼はそっと私の手に触れる。汗ばんだ私の手と違って彼の手はひんやりと冷たかった。太陽の下でみると、目の下に濃いクマができていて、笑った顔は間抜けに見えた。
「ただいま、三原さん。いつ来たの?」
「少し前かな。締め切りが終わったから」
「久原さんには?」
「もちろん許可をとったよ」
私たちは共通の人物を思い浮かべて笑いあった。
「ご飯は?」
「まだだよ。園崎さんのところに行こうかと思ったんだけど」
「残念。もう行ってきた」
「みたいだね。ケーキとカフェオレのいい匂いがするもの」
彼は動物っぽいしぐさで、私の髪をくんくんと嗅いだ。私はくすぐったいのと恥ずかしいので、そっと彼から身を離す。彼は止めはしなかったが握った手に少しだけ力を入れた。
「ご飯作るよ。今日荷物届いたから調理器具あるし、冷蔵庫に食材もあるから」
「じゃぁお願いしようかな」
私たちはお互いの手を引いてエレベーターに乗った。
「ここの向日葵はみんな君よりも背が高い。日当たりがいいからかな」
「そうだね」
ここ数日で、私は彼に自然な口調でしゃべるようになっていた。三原さんは何も気にしていない様子で自然と受け入れてくれている。
エレベーターが目的の階にたどり着く。
こげ茶のドアを開いてリビングの窓を開くと、熱く乾いた風が向日葵の匂いをのせて入ってくる。真ん中のリビングを挟んで、両脇には二つの部屋。
「いつ越してくるの?」
「ゆっくりだよ。荷物は自分で運ぶから」
新しく住む場所を決めるとき、彼が安いとはいえファミリータイプのマンションを選択したときには驚いた。「僕も引っ越そうと思って」と彼が言うものだから、不動産に一緒に行った。私はせいぜい同じマンションに住むくらいだろうと淡い期待をもっていて、そんなつもりは全然なかった。あんまり慌てて、私は不動産屋から飛び出してしまった。跡で彼の家でそのことを伝えると
「僕もそんな気は全然なかったんだ。だけど、今ふと思ったんだ。帰る先が君と一緒だったら、とても幸せだって。思わず口に出てしまった」
ごめんなさい、と彼は子供のように素直に謝った。恋愛小説のように甘い言葉だったが、実際に聞いた私には、そこに彼の意図せぬ独占欲や、私の収入への不安などが感じられた。私の意志で決めたことだと分かってはいるけれど、私のした選択を影響させてしまったのが自分だという自覚が彼にはある。まだ駆け出しの私の収入が、以前の安定したものではないことが、彼のほんの少しの負い目なのだ。少なからず、お金の手助けをしたいという思いがあるのだろう。それは傲慢だけど、私への想いでもあるのだ。
「いきなり一緒には住めないと思う。私たちって互いに癖があるし」
「うん」
「それに私たち、まだ出会って半年もたたないって知ってた?」
「そうだったね」
彼は幼い笑顔を見せた。ここ最近見せてくれる笑顔だ。そう、懐かしくてもう何度もたことのあるような気がするのに、私がこの笑顔を引き出したのはまだほんの数回。なのに、もう家族のように寄り添ってきた気がする。だけど、それを当たり前のように受け入れていいのか、まだ私には分からなかった。
「恋は盲目っていうから、僕も目がくもっているのかもしれない。目の前のことも見えなくて、気持ちだけはやっているのかもしれないね」
彼は冗談っぽくそう言った。確かにそうだと、私は笑った。そこからお互い譲歩しあって、ファミリータイプのマンションにした。私が家賃は割り勘というのがどうしても譲れない条件だったので、ファミリータイプにしては安めのところを選んできっちり家賃は半分にした。彼の条件は見晴らしのいい高さがいいということなので、十一階。じゃんけんをして、私が勝った。彼は畳、私はフローリングの一室ずつ。互いに仕事の邪魔をしないように。
名前のない関係を人に説明するのは難しい。私たちは好き合っていて、互いに一緒に住みたいが、互いに自信がなく、おそるおそる触れ合い、絶対に触れさせない部分を互いに持っている。今はきっと激しい優しさに飲まれた危うい時期なのだ。お互いを嫌いにならないために、少しでも長く一緒にいられるように。そんな願いを込めて、悲観的ではく楽観的に。とりあえず私は先に引越しを済ませ、三原さんは徐々に荷物を持ってくることで、半同棲みたいなとこから始めようということになった。三原さんには内緒だが、両親にも引越しのことは言っても、彼のことはまだ喋っていない。成人したとはいえ、こういうことは両親に伝えるのが筋なのかもしれないが、説明できない関係上、安易なことは言いたくなかった。
これが世間一般になんという関係なのか、どこに聞けば分かるのだろうと、私は時々考える。だけど、今はまだ分からない。まぁ、いずれわかるにしても、今は分からないのだ。私たちはそれを受け入れて、今できることを考える。
焦って進めないでおこう。
でも繋がっていよう。
互いに互いを想って、ゆっくり育てていこう。
それが私たちの結論。
「何が食べたい?」
「何でも」
「それが一番困るよ」
とりあえず私はダンボールから食器類を取り出す。喉が渇いたので、まずお茶を入れることにする。
私の部屋の中には大きな本棚が二つ。すでに本で埋め尽くされている。新しい仕事机は絵を描くためのスペーストパソコンのスペースがあるためかなり大きい。机の一番上の引き出しには、大切な手紙と本が一冊隠してある。見つかるときっと彼が慌ててしまうから。
「僕の部屋も君と変わらないもので埋め尽くされるんだろうなぁ」
本と商売道具のパソコン。彼と私が持っているものは近い。ただ違うところがあるとすれば、それは私の部屋の一角に飾られた大きなティディベアぐらいだろう。彼(彼女)のためにわざわざ買ってきたイスの上に腰掛け、日向ぼっこをしている。日に照らされた埃がチラチラと日に反射しながら彼の周りを踊る。まるでピノキオのお話の一説のように、魔法がかかって今にも動き出しそうな気がした。
「ねぇ、今でも私ってぬいぐるみみたい?」
「うん?」
冷蔵庫の牛乳でインスタントのアイスカフェオレをいれて、彼のもとへ持っていきながら聞くと、きょとんとした顔が振り返った。
「ああ、うん、そうだな。どうだろう」
彼が今、その答えをゆっくりと探しているのが分かったから、私は何も言わずに彼の隣に座った。彼もゆっくりと座った。冷えたアイスカフェオレがゆっくりと喉を滑り落ちる。
「ぬいぐるみ、みたいだと思うよ」
かろん、とコップが床に触れる音がする。じわじわと熱い陽気に、胃の中に滑り込んでいく冷たく甘いカフェオレの感触。獣みたいな双目が私を優しく見つめてくる。感覚が研ぎ澄まされて、彼の声がダイレクトに耳から心に直接響く。最初にこの言葉を聞いたときをもう思い出せない。ただ心の感覚が傷みたいに残っているだけ。
「ただそこにいてくれる安心感みたいなのがある。喋らないのに、喋らないからこそ言える何かがある。なんでも許してくれる気がして、ひどい事も言えてしまう。でも君は君で、黙ってそれに傷ついて、飲み込んでしまう。悲鳴をあげたり、抵抗したりしない。君にはそんな生き方が似合う気がしてた」
彼が私の傷口に、指先でそっと触れてきた気がした。だが実際は、大きな両腕で、私を捕まえるように引き寄せた。夏の暑さと逃げられない力に、私の中の何かが大きく暴れ回る。彼が私の頭に顔を摺り寄せるから、声帯の動きまでが、振動が伝わって、体温が上がる。汗が噴出すのが恥ずかしい。でも彼は変わらぬいつもの口調で、私に話し続けた。
「でもそれは君に触れたことのない人の見方だ。君はきっと触れられないと人間に分かりにくいんだよ」
「ふ、触れすぎ」
私が困って、意味の分からないツッコミをすると、彼の喉が震える。笑ったのだと分かった。
「うん。君は触れるとよく分かる。赤くなったり、汗かいたり、面白いこと言ったり、突然いなくなったり、戻ってきたり。ふれた途端に君は生きだす。だから、君のことを分からない人間はきっとたくさんいる」
彼の唇がこめかみにあてられた。私は恥ずかしさのあまりぎゅっと目をとじる。心臓が痛いほど跳ね上がっているのに、どこか心地よかった。
「だから僕はこれから先もきっと君に触れていくと思う。きみをぬいぐるみだと思っている人たちの中で、少しの優越感にひたってね。僕は君がぬいぐるみだけど、そうじゃないことも知っている。はは、顔が真っ赤だ」
彼は私を逃がさない程度に距離をとり、顔をのぞきこむ。熱を持った私の顔はさぞかし綺麗な赤色をしていることだろう。今頭がくらくらしているのが、その熱のせいなのか、嬉しさのせいなのかは分からない。ただ、目の前にいるこの人がどうしようもなく好きだと思った。
夏の強い日差しとそれ以上の熱。窓の外から吹く風の爽やかさと新緑の力強い香り。
彼は私に触れる。きっといつか全てに触れるだろう。ぬいぐるみの私を抱きしめ、そのままの私に触れるだろう。
だから私は、生きて、動いて、その人を抱きしめ返すのだ。