第三十二話 転入生
この世界で学校に通うということは実は一般的ではない。
それは魔物という存在が実在し、生死がすぐ隣にある現状そんな所に通っている暇はない、というのも一つの大きな理由である。
学問は確かに人生を豊かにするものではあるが、すぐに役立つものではないだろう。
少なからずの時間をかけて学ばなければならないし、そんな暇があるのなら農作物の育て方なり、武器の扱いに慣れるなりした方が生きる糧となる。
そんな理由から一般的な教養を学ぶのは人の交渉に長けていなければいけない商人か、あるいは騎士や貴族といった人々だった。
ただし例外はある。
グリエント魔術学校はその例外にあたるのだ。
魔術というものは幅広く浸透していて、全ての人々に使える可能性がある。魔力がない者などいないのだから。
高価な魔道具など買えなくても便利な魔術が使えるのなら……。
どれだけ庶民たちにとって助けになることか。
例えば火や水などの魔術を扱えるだけでも生活には大助かりだろう。
しかし一見して帝都にある学校、というだけで敷居がものすごく高そうに思われるかもしれないがそうでもないのだ。
グリエントの理念して『来る者は拒まず、例え貴族であろうが農民であろうが訪れる者は等しく扱う』というのだ。
無論、入学試験はある。
魔力があまりに低い者であれば、弾かれてしまうのは致し方ないだろう。
それに受けるのもタダではないし、学校に通うとなれば更にお金はかかる。
だが一般の人だろうと多少の無理をすれば払えない金額ではない。
試験の結果によっては奨学金制度のようなものも存在しているから、金の問題もある程度はクリアできる。
従って毎年入試がある時期は押し寄せる波の如く人がグリエントに集まるのだ。
各方々にはグリエントの手の者によるスカウトも散らばり、必然的に入学する才能ある卵たちの数は跳ね上がるという。
空間魔術を織り込んだこの学校でなければとても収めることが出来なかっただろう。
そんなマンモス校であるグリエントの入学式は盛大なものになった。
それも一ヶ月前の話である。
帝都の外れにある特別学区と制定されているグリエントの中庭には、登校する生徒たちで賑わいを見せていた。
幅の広い整地された道の脇には青々とした木々が規則正しい位置に立ち並び、道を進んだ先には美しい彫刻が飾られた噴水が朝の清々しさを象徴するように水しぶきをあげている。
噴水を軸にして西には研究棟、東には職員室など多目的の棟、そして北にまっすぐ進めば彼らの学び舎が高々とした姿を見せた。
落ち着いた茶色の壁をベースにした洋館風の建物には不思議な印象を漂わせていた。
それはここに通う者ならば当然のように抱く印象である。
何せ見た目こそ立派な建物、と感想を述べるに留まるが、その壁に使われた素材には魔術式が打ち込まれているのだ。
魔術を緩衝させる式であり、中級魔術程度ならば壁を破壊することすら適わない。
生徒たちはその魔術式に反応していたのだ。
上級生なら既知の事実であるが、新入生たちにとっては首を傾げるだけで何かはわからない。
その中でも数人は不思議の正体には気付いている様子であるが、ともあれ害になることでもなし、いずれ誰にだってわかることである。
「おはよー!昨日の宿題はもうやった?」
通学路の途中で一際元気のある声が響いた。女の声だ。
周りにいた幾人かは振り返り、件の人物を少しだけチラ見してから友人たちとの会話に戻る。
なにせ通学路にはまだまだ生徒が歩いている。終端を見ようとしても終わりが見えないぐらい列をなしているのだ。
よっぽどの奇行でもされない限り興味なんて早々抱かれない。
その女生徒も特別目立つような風貌でもなかった。
そんな普通の学生のような言葉を投げかけられ、幾分か元気のなさそうなその人物は顔をあげた。
何を隠そうそれはアリエスの元から旅立ったマリーという少女だった。
グリエントに来てから真っ先に友達になったキーラに対してマリーは情けない声をあげる。
「まだなんだよね……」
「あちゃー。あの先生、厳しいよ?マリーちゃん大丈夫?」
「大丈夫じゃないっ。助けてよキーラ!!宿題見せて!」
「うーん、本人の為にならないから、あんまりそういうことはしたくないんだけど……昼食一回奢ってくれるならいいよ?」
「そ、それはぁ……。自分の食費だけで精一杯だし、でも食事を抜けば奢れる……あたしに死ねと!?」
キーラは返答もせずににっこりと笑う。マリーは試されている、と胸中思った。
自分の覚悟の程をキーラは確かめようとしているのだ。
大好きな食事を犠牲にしてまで助けを求めるのか否か、と。
宿題を忘れれば素敵な居残りが待っていることだろう。この前は魔術百連ノックとかわけのわからないことをやらされた。
マリーはあの先生は好きではない。俗にいう体育会系だったからだ。
だからどうしてもそれだけは回避したいのだが。
マリーは体育会系の罰と食欲を天秤にかけて、苦汁の顔をしながら……食欲をとった。
「……大人しく、残りの時間頑張って仕上げます」
「うんうん。宿題は見せられないけど、私もちょっとだけお手伝いするね」
「あなたが天使かっ!」
ぱぁーっ!とマリーの顔が輝く。
「でもあの先生の授業、一時間目だしきっと間に合わないね」
「あなたが悪魔かっ!?」
どんより……とマリーの顔が沈み込む。
……そんな愉快な登校風景はマリーにとっての普通になりつつあった。
学校指定の宿舎に住みながら通う毎日。
アリエスと各地を転々としていた冒険者の日々。そしてトール山でミコトと三人で過ごした日々とはまた違う日常。
驚きの連続ばかりで息をつく暇もないが、新天地でマリーはとりあえず元気に過ごしているのだった。
「手伝ってもらったけど終わらない!!」
……と叫びだしたい程にマリーは絶望していた。
場所は移り変わってマリーの教室。机の上にあるのは空白の目立つノート。
一ページの三分の一程度は文字で埋まっているが、課題として出されたのは二ページ分はある。
ここで単純な計算をしてみよう。
二ページ 引く 一ページの三分の一 イコール 絶 望
タイムリミットは後一分もない。始業の鐘はもうすぐだった。これが絶望と言わずなんというのか。
ちなみに手伝って貰ったキーラはすでに自分の席に座っている。匙を投げたのである。
それも当然というか、マリーはほとんど宿題に手をつけていなかったのだ。
キーラが真っ白なノートを見せられて笑顔のまま固まってしまったのも仕方ない。
少しぐらいは進めているものと思っていたのに、友達はえへへと笑って誤魔化し始めていたのだから。
それでもなんとかキーラも尽力はしたが、時すでに遅し。ごらんの有様だった。
確かにこれは答えを丸写しでもしない限り終わらない。
「まだよ!まだ助かる!!」
非情な宣告をするならば助からない。
その現実に目を背けたマリーは自分に隠された力が発現するのを期待しつつ、ぐぬぬと頭を悩ませて課題に取り組み続ける。
残念ながら、マリーには宿題に関する隠された力はなかったようだ。
がらっ、と扉が小気味よく開けられた音が教室に響く。マリーにとっての執行人の到着だった。
彼女は泣きたいような顔をしながら顔を上げることはしない。
認められない。間に合わなかったという事実だけは!
そんなマリーのノートには先ほどより一行だけ文字が追加されていた。これでどうやって間に合わせようと思っていたのか、はなはだ疑問だった。
ちなみにそこの所の答えは間違っていた。
「えー、お前ら静かにしろ。ちょっと予定変更だ」
その時になってマリーはようやく教室の様子が少しおかしいことに気付いた。
本来なら皆、静かに授業が始まるのを待っているはずなのだが今はざわざわとしていた。
体育会系のあの先生なら私語でもしようものなら、即刻魔術で強化された弾丸チョークが飛んでくるというのに。だから誰も授業中は喋らない。
というよりも、壇上から聞こえてくる声が違う。
あの先生は女性だ。今聞こえてくるのは男性。しかもこれは担任の声では……?
ようやく顔を上げることにしたマリーが見たのは間違いなく担任のクライブ先生だった。
クライブは壇上から生徒を見回し、静かになった頃合を見計らった再び話し出した。
「今日はな、このクラスに転入生がくる」
その言葉でまたざわり、と周囲が沸き立つ。
転入生?こんな時期に?わけありか?と様々な憶測が飛び交う。
マリーにしてみれば転入生さまさまだった。時間稼ぎが出来るというもの。
どうせ転入生の自己紹介が終わったら授業が再開するのだ。
その前になんとしても終わらせなければ。
いや、終わらせられなくとも少しでも進めれば温情として罰が軽くなるかもしれない!
これが俗に言う負け犬精神である。
だから担任が入って来い、と声を上げてもマリーはノートに齧り付くことで扉の方に視線を向けることは無かった。
がら……と静かに戸は開け放たれる。
その瞬間、この教室の時が止まったかのように誰もが口を閉ざした。
一種の異様な空間に、さすがのマリーも異変を感じたのか眉根を寄せながら顔を上げた。
その瞳に飛び込んできたのは……眩い金色。
しゃらら、とまるで耳心地のいい音がするかのような美しい金髪。
後ろ髪は結われ、その髪を流しながら件の人物は教室の中へと足を進めた。
一歩、一歩と金色の主が歩く事に誰かが息を飲む音が聞こえる。
あまりの静寂さにそんな音さえ耳によく届いていたが、皆、気にする者は一人もいない。
彼の人物に目を奪われていたから。
華奢な体格でありながら歩を進める足はしっかりと床を踏みしめ、姿勢は惚れ惚れするまでに芯が通っていて綺麗だった。
横顔から垣間見えるその顔は当然のように眉目秀麗。
全てに置いて完璧なまでのパランスを保ち、生徒も、事前に見ていたクライブでさえも魅了しながらその人物は壇上へと立った。
正面からその顔を見ればますますその美しさは際立つ。
瞳の色は深いエメラルド。壇上に立ったその人物の前にいる生徒たちは見詰められるだけで男女問わずに胸を高鳴らせていたのだった。
……ただし、それはマリーを除いて。
(……あ、え、え???み、ミコト??)
口を開けて間抜けな顔を晒したマリーは、他の生徒とは別の意味で声を上げることが出来なかった。
そう、グリエントの制服に身を包んで壇上に立っていたのは、あの小屋にいるはずのミコトだった。
驚きに立ち直れないまま、ミコトはさしてマリーに目を向けることなく自己紹介を始めた。
「転入生のミコトです。転入したばかりで不慣れなのでよかったら色々と教えてください。それと皆さんと仲良く出来たら私は嬉しいです」
柔らかな表情ですらすらと喋りながら、最後の言葉だけ上品な笑顔をミコトは付け足した。
ぽーっとしたのはまたしても教室の皆である。ぽかーんとしたのはマリー一人だけである。
(え、これ、誰?)
いつも無表情、とは言わないが不満を持っているような表情で過ごし、ふてぶてしい態度を崩さない。
以上がマリーのミコトに対するイメージである。
それがどうしたことだろう。あの壇上にいるのはまさしく天使だ。
唐突にミコトの背中から羽が生えたとしても誰も疑問も驚きもしないことだろう。
いや、そもそもあれは本当にミコトか?
マリーは自己紹介が終わっても、授業が再開したとしても、疑惑の念が消えることが無かった。
最終的に双子説で脳内の会議は決着をつけたが、別の決着を付け忘れていることをマリーは知らない。
机の上には彼女の悲惨な未来の象徴であるノートが手をつけられることなく転がっていたという……。