第三十話 変わり始めた心、その世界の住人
古めかしい教室の中で一人、画面に食い入るように見つめている者がいた。
ミコトと瓜二つ、といっても今のミコトよりも幼い姿のその少年は、拳をぎゅっと握りながら見守る。
黒い板の上に投影された映像の中には一人の強敵が映し出されていた。
その人物の名はアリエス。ミコトの師にして、立ちはだかる巨大な壁。
しなやかな体躯に野生の獣を彷彿とさせる鋭い視線。
防御力を考慮もしていないような軽装は鋼の肉体を信頼してのことか。
独特のスタイルで両腕につけられたガントレットを掲げ、一分の隙も見当たらないその構えでミコトを迎え撃とうとしている。
ごくり、と少年を唾を飲み込む。
もしも自分があの女性の前に立っていたのなら、立ち竦むだけでどうしようもなくなっているだろう。
気迫、という目に見えないものがミコトを通して少年にも伝わってきていたから。
手出しも、口も出せない少年には何も出来ることはない。
だから届くことはないし知りつつも、少年はこう呟くのだ。
「頑張れ……主。負けるな」
初手はミコトからだった。Cブーストと高速思考の併用によって驚くべき速度でアリエスへと迫る。
Lvが上がったおかげだろう。その動きは今までのミコトと比べるまでもない。
初見の相手ならばその速さに舌を巻く所であろうが、相対するのは日頃から組み手まがいに修行をつけていたアリエスである。
弟子の成長に口を僅かに歪ませたが、驚く様子さえ見せず視線もしっかりとミコトを捉えていた。
このままでは接近出来たとしても射程の関係でまずは彼女に先手を取られてしまう。
そのことは十分に理解しているのだろう。ミコトはアリエスとの距離も半ばに詠唱をし始める。
高速で移動しながらの詠唱。さすがのアリエスも少し眉を動かした。
が、それだけだった。歴戦の冒険者はその程度では動じない。
以前その手は見ていたのだ。予想はしていた攻撃手段である。
ミコトのINTでは威力も高が知れていることから脅威ではないとアリエスはみなした。
実力を知っている相手とはまさしくやりにくいといういい例だ。
ふと、その時にアリエスは気付く。
自分がミコトのことを知っているように、それは相手だって同じではないか、と。
つまり魔術がアリエスに効かないことは承知のはず。ミコトの狙いは当ててくる為ではない?
しかし前とは違って利用できる壁などこの平原に存在しない。だったら狙いは……。
すんででそのことに気付いた彼女の予想は当たっていた。
ミコトはアリエスに向けてではなく、地面に狙いを定めて風の魔術を放ったのだ。
土煙を上げての目くらまし!
なるほど、確かに有効な手段である。リーチがある相手にはその目算を失わせつつ、接近できる。
だがそれもその攻撃がくると予想していなかった相手にとっては、である。
アリエスは冷静沈着に煙の向こうから現れるミコトを迎え撃つべく拳を上げた。
間もなく、ミコトは煙の中から姿を現した。
後はカウンターで拳を叩き込むだけで済む。
当てることを重視したジャブ程度でも加速がついたミコトには十分な痛手となるはず。
しかしアリエスの目論見はすぐに破られることになる。
「低い……ッッ」
ミコトの姿勢があまりに低かったからである。前傾姿勢、というより最早倒れ込む程の勢いで滑り込んできたのだ。
そのまま体当たりでも仕掛けてくるのなら膝で反撃してやると身構えていたアリエスだったが、それさえも裏切られる。
ミコトは彼女の横を通り過ぎて行った。
切り替えして背後から、というつもりだろう。スピードを活かして攻撃してくる相手がよく使う手だ。
それでもアリエスの動きの方が断然に速い。
加速を止めて切り返すミコトとその場で反転するアリエスとでは雲泥の差がある。彼女が翻弄されていたのならわからなかっただろう。
常識で考えればミコトが間に合う可能性はない。
「!?」
だが今度こそアリエスは動揺することになる。
何故ならば振り返るまでもなく、ミコトが自分の背後にまで迫っていると察知したからだった。
どうやって、と考える暇もない。彼女は驚異的な身体能力を使って必死に身を捻った。
チッ、っと僅かに服が擦れる音を立てながらミコトの一撃を紙一重に回避することに成功する。
ミコトは慎重にもそのまま畳み掛けるようとはせず、アリエスが体勢を整える頃には距離を離していた。
心の中でアリエスは冷や汗をかく。今のは危なかった。
クリーンヒットしていたとしてもおかしくはない。
「……味な真似をするじゃないか」
「避けにくい鳩尾狙ったってのに、妙な動きで避けやがって軟体動物かテメェ」
「いやぁ危なかったさね。アタシじゃなかったら避けられなかったよ」
「当たれよ」
「嫌さね。あんな思いっきり力が込められた拳、当たったらどうなることか。それにまだ隠し玉もあるみたいだね。怖い怖い」
「……ッチ。これだからあんたは嫌いなんだ。千里眼でも持ってるんじゃねぇだろうな」
忌々しげにミコトは舌打ちする。アリエスは気付いている様子だった。
実はさっきの一撃はLvが上がったことによって使えるようになった産物である。
超Cブーストとでも言えばいいのか。一時的にSTRを爆発的に向上させたのだ。
威力はアリエスのズボンを見れば明らかだった。素手が掠っただけだというのにぼろぼろに切り裂かれている。
一撃必殺の相手ばかりと戦って、ならば俺もしてやろうじゃないか、とミコトが思って編み出してみたものだった。
しかしそれほど便利というものでもない。
STRに一点集中している為、素のAGIとVITでその武器を振るうことになる。
つまるところ巨大なハンマーを持っているが振り下ろす速度は遅く、また当たったら当たったで反動を体が受けきれない。
もしもアリエスにまともに当たっていたら効果的なダメージは与えただろうが、ミコトの腕は使い物にならなくなっていた可能性が高い。
おまけに魔力の消費も半端ないという欠陥だらけのもの。
Cブーストのメリットとデメリットを更に大きくした発展系の魔力強化だった。
相変わらずの捨て身な戦法。だがそうでもしないと勝ちを拾えない相手ではある。
もう一つの方も見切られる前にどうにかしなければいけない。
「すごい……主は彼女に対してでも一歩も引いてはいない!」
そんな黒板に映された映像を見て、興奮気味に少年は呟いた。
今も映像の中では会話を終えた両者が激しくぶつかっている。
先手を譲ったアリエスが今度は自ら攻勢を仕掛け、ミコトはそれに対応する。
自在にその拳を振るいながら足技も混ぜてくるアリエスの猛攻。彼女の拳速で周囲の草葉が薙ぎ倒されんばかりの脅威的な攻撃の数々。
だかしかし、ミコトは怯む様子など見せることなくその全てをかわし続けた。
少年にはミコトの気持ちがわかる。
彼に怯えや恐怖などなかった。ただ相手を倒すという意志だけが存在していた。
恨みによる憤怒なんてなく、憎しみによる殺意もない。
そう、それはまるで昔のこと。あのスラム街で巨漢と相対していた時のような思い。
ローエンウルフと対峙していた時からその兆しは出ていたが、今この時、仇を取られたかもしれない相手と戦っている時でさえミコトの気持ちは変化していた。
少年にとってそれは嬉しい兆候だった。
激しい戦闘のシーンを見ながら、少年は伝えたい、と思った。
この光景を見て欲しい。この気持ちをあの人に伝えたい、と思った。
少年の願いが届いたのか、その時、出入り口の扉に備え付けらた窓に人影が現れた。
スモークの向こう側にいるせいで誰かはわからない。
しかし教室の中にいた少年は鋭敏に反応して、扉のすぐ傍にまで駆け寄った。
「母上!母上なのですね!?」
「うん……久しぶりだね」
喜びを抑えきれない声色で溢れかえった笑顔を少年は振りまく。
それも仕方ない話だろう。彼女がこの場所に姿を現したのはあれから一度としてなかったのだから。
話したいことはたくさんあったが、少年は何よりもミコトのことを教えたかった。
彼女の息子が頑張っている姿を伝えたかった。
口からその言葉が出る前に、影の主が先んじた。
「あのね、今日は貴方に名前をあげにきたんだよ」
「我に、ですか?」
唐突な申し出に戸惑いを覚えるものの、愛してる母親から名前を貰うのに不満を感じる子供などいないだろう。
少し様子がおかしいと感じていたが、少年は喜びの声を上げながら母の言葉を待った。
「君の名前は……咲。今は花の蕾のように咲いてはいないけど、いずれ美しく咲き誇るようになる。だからサキ」
「咲……サキですか!はい、我はとてもいい名前だと思いますっ!!とても気に入りました!」
心の底から少年……サキは名前を貰ったことに喜ぶ。
ともすれば、ミコトのことを一時だけ忘れてしまったほどに。
そのことに気付くとサキは黒板に振り返りながら慌てた声をあげた。
「は、母上!名前を頂けたのは大変嬉しいのですが、今は主の勇姿を見ていてくださいっ」
映し出された映像を見ると一呼吸でも取るかの如く互いに距離を離しているところだった。
戦いが始まってそれほど時間が経っていないというのに、濃厚な戦闘を繰り広げていたせいだろう。
サキにも熱気が伝わってくるようだった。
ミコトは致命傷は避けているのか細かい傷はあるものの未だに健在だった。
対してアリエスは無傷に等しい。初手の一撃を除けば彼女にミコトの攻撃は一度として掠りもしていなかった。
ただ、アリエスは薄く汗をかき始めていた。
山の頂上まで全力疾走しても、ミコトに修行をつけていた時にも汗などかいていなかった彼女が、だ。
「ご覧ください!あのアリエス殿に対して主が善戦している姿を!しかも主の心は以前のように……母上?」
サキが振り返った時にはそこにミライの姿はなかった。
思わず少年は扉の取っ手を手にする。母に絶対にその扉は開けてはいけないと約束していたにも関わらず。
しかし、
「……開かない!?」
いくらサキが力を入れようとも扉が開くことは無かった。
ミライは少年に名前を与えるだけで消えてしまった。
サキと話をすることもなく、ミコトの姿を一緒に見ることもなく。ただ一人でいなくなってしまったのだった。
「わかってる……わかってるよ。私にもミコトの思いが伝わってきてる」
冷たい廊下の真ん中でミライはこつ、こつと足音を響かせながらそう呟く。
反響する足音は寂しくて、それに倣うように彼女も頭を垂れながら歩いていた。
ミライにもサキと同じように少しだけだがミコトの思いは伝わっている。
それはミコトの中にいるからだろう。
一心同体といえるサキと違って伝わる量は少ないが、彼女にはそれだけでも十分だった。
ミライは微笑を洩らしていた。
愛している息子の変化に喜びを隠せない。
憎しみや怒りに囚われていたミコトに訪れた小さな変化。
今は些細なものでもいずれ彼の希望となることを切に願いながら……。ミコトのことを思う。
彼が過ごしたきたこの年月を思う。
苦しかっただろう。つらかっただろう。悲しかっただろう。
シルフィードの言葉は真実であり、確かにミコトはそれに気付いている。気付いている振りをしている。
本当の意味で気付いてはいないのだ。
気付いてしまったのならきっと立ち止まってしまうから。自分の悲しみに足を止めてしまうから。
「ミコトは頑張っているね。本当に頑張っているね」
この手を伸ばして触れてあげられたら。ミライは空に手を伸ばす。当然のようにそこには何も無い。
この手の中に包み込んであげられたのなら。抱き締めるように両手を抱いても、そこに誰かのぬくもりは無い。
せめて声だけでも届けてあげられたら。あぁ、それは、それは……。
「そう、だね。私もそうしてあげたい。私がそうしたい。だけれど……」
虚空に向かって彼女がそう語ると、床から、窓から、扉からたくさんの影が染み出てくる。
人型を形成しながら顔がなく、目もないのっぺりとした影人たち。
幾度となく退けてきた彼女にとってそれは最早馴染みの光景だった。
ただ最近になって一つだけ変化があった。
それは影たちの声が彼女に聞こえ始めたこと。今日も誘うような甘い言葉をミライに囁いていたのだった。
「会いたい……?そんなのは当たり前だよ。会いたくないはずない。ミコトにも、そしてサキにも直接顔を合わせたい。
それでも出来ない。貴方にはそれがわからないのでしょうね」
うごめく影たちはミライを取り囲むように幅を狭めていく。
非常にゆったりとした動きなれど、群集となって押し寄せるそれは恐れを抱くに十分である。
その中心で彼女は一つ息を飲み込んだ。さぁ、奏でよう。愛する子供たちに向けた詩を。
これが二人の救いとなると信じて。
埋もれんばかりに群れる影の中、彼女の金の髪は艶やかに映える。
祈りの詩を歌うその姿は神々しく、だが、金の中に一筋の別の色が見え隠れして邪魔をしていた。
そう、それはまるで穢れを象徴するかのような黒の色……。




