第八話 返された抱擁
冷え切った空気に俺はどうすることもできなかった。
どうしようとも思えなかった。
まるで前世の自分が戻ってきたかのように、思考はただ一つの感情に支配される。
それは恐怖。
何もすることができない。もしも、俺が何か行動を起こしたら。
それが更に今のミライに拍車をかけて、ひどい事態になったら。
……恐ろしい。
高速思考なんてスキルがあれど、そんな感情に染まっている今の状態の俺にとって、スキルを使うことは苦痛でしかない。
様々な最悪のパターンを思い浮かべてしまう。
だが、スキルを使わずにはいられない。
だってこの先が怖い。
少しでも時間が遅らせられるならば、自分自身を傷つけるのも厭わない。
延々と加速する思考の中、恐怖に怯え、心が軋みながらも時間は止まらなかった。
「ミコト……」
「!!」
思わずビクリと体が硬直する。ミライが握っていたその手を解いて、俺を抱きしめたからだ。
彼女が座っていた椅子が勢いに負けて後ろにガタッと倒れ、ミライは膝立ちをして俺を抱きしめる。
彼女の体は温かかった。だけれど、体の震えもぬくもりと同じように俺へと伝えていた。
……どうして?ミライは何で震えているのか?
ネガティヴな思考に呑まれつつある俺は、それも自分のせいだと思い込む。
ふと、前世の父親を幻視する。苛む罵倒の言葉、怒りに震えるその拳。悪鬼羅刹がそこにいた。
母親を殺したのはお前だと、汚い言葉で罵り続ける。
当時の俺にはわからなかった言葉の数々が皮肉にも今となって意味を理解し、刃となって心に襲い掛かる。
その父親の姿が今のミライへと重なる。震えは怒りのせいか、憎しみのおかげか。
次に口から紡がれるのは恨みに満ちた呪いの言葉か、はたまた。
「ごめんね……ごめんなさい、ミコト」
「………………え?」
しかし、ミライが口に出した言葉は謝罪だった。
自身の体と共に震えるその言葉は、どれだけの想いが乗せられているのだろう。
愚鈍な、そして転生したとしても未だに未熟な俺には全てを理解できない。
だがしかし、そこにあったのは確かに悲しみだった。
ぽたり、ぽたりと首筋に何か暖かいものが落ちてくる。これはミライの涙?
ミライは俺の首筋に顔を埋めて、静かに泣いていた。強く強く俺を抱きしめ、ただ謝罪の言葉だけを繰り返しながら。
止まっていた思考が徐々に動き出す。
幻視した父親の影はもういない。
背筋に突き刺さっていた恐怖という名の凍てつく楔も少しずつ溶け、緊張と恐れで強張っていた体が自由を取り戻していく。
まるでミライの涙が恐怖を溶かしていくみたいに、俺は現実に回帰した。
そうして僅かに残っていた恐怖を呆気なく振り払う。
悲しみに暮れた声で泣いている大切な人がいる。クソみたいな勘違いやトラウマに引き摺られている場合ではない。
俺はどうすればいいか必死に考え始めた。
(そんなもの、高速思考使うまでもねぇ)
ミライが泣いている理由はわからない。
きっとそれは、今の俺では考えたところで辿り着けない答えだろう。
ミライの姿はあの日、窓辺で落ち込んでいた俺のようだった。
あの時、ミライは俺の心の中がわかっていただろうか。
後悔に次ぐ後悔に押しつぶされそうになっていた俺を全て理解していただろうか。
そしてあの時、ミライは俺に何をしてくれただろうか。
答えはすでに出ていた。
「……ミコト?」
俺の小さな手では、ミライの細すぎると言ってもいいウエストでも手を回しきれない。
だからそれは抱きしめる、というより抱きついたと言った方が正しいだろう。
俺はミライの体にそっと抱きついた。言葉は何もない。必要だとは思えない。
ミライが顔を上げ、抱きしめた手が解かれた空気は感じ取れたが、俺は抱きついたまま視線を合わせることはしなかった。
鼓動が聞こえる。とくん、とくんと。
落ち着く穏やかなリズムは確かに生きている証。ミライがそこに在るという証明。
だから俺もミライに伝えたい。俺はここに在る。一緒にいる。
ミライが謝っている理由がわからないから、俺にはどうすることもできないけれど。
だけどそれでも俺はここにいる。一緒に在りたいと思っている。
言葉にすればきっと陳腐なそんな想いを、俺は彼女に伝えたかった。
どれほどそうしていただろうか。
まるであの時の逆の再現のような、俺からミライへの一方的な抱擁は。
いや、抱擁とも呼べないもっと稚拙なものだっただろうが、それでもいい。
少しでも俺の気持ちが届いていれば、それでいい。
「初めて……」
「え?」
「初めて、抱き返してくれたね」
最初は呟くように、次に続いた言葉は噛み締めるようにミライはか細い声をあげた。
声色は涙で濡れていたけど、それは確かに俺の耳へと届いた。
思わず顔を上げれば、そこにある泣き顔と笑顔の混ざり合うミライの顔。
眉根は困ったように寄せられて、唇は何か我慢するように震えている。
目尻に溜まった涙は宝石のようにキラキラと輝き、美しさを彩る。頬に残るは涙の跡か、それさえも彼女の儚げな美貌を際立てた。
そして青く涼やかな瞳の奥に宿るのは、紛れもない喜び。
「みことぉ~~~~~~!!!」
ミライは金色の髪をたなびかせて猛然と俺に抱きついてきた。
ちょ、この体勢でそれは!?
案の定、俺は押し倒されて木製の床に頭を強かに打ち付けた。
いっっ…………てぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇええ!!
ごっ、って鈍い音が聞こえた!ごっ、って!!!
目の中から星が飛ぶ、という表現があるが星なんて見えなかった。んなことより、意識が飛びかけたわっ!
夜空に昇天しそうになった意識をどうにか取り戻すが先か、慌ててミライが俺の体を起こした。
「ご、ごめんねごめんね!!み、みみみみミコト大丈夫!?」
みみみみミコトさんは大丈夫じゃありません。お星様になるとこだったぜ。
慌てふためきながら俺の頭をさする彼女の様子を見て、俺は内心ほっとしていた。
ミライにはあんな顔はして欲しくない。
俺の思っていた言葉が全て伝わったわけではないだろうが、それでも元気になってくれればそれでいい。
……代償は結構なダメージだったけどな!
それからも、ずっと俺の頭に出来たたんこぶを撫でられながら時は過ぎて。
いつものミライ抱っこスタイルで今に到るというわけだが。
なんだろうねこれ。もう俺諦めてるけど。
なんつーか、いつも以上にくっつかれているような気がするんだが、気のせいか。気のせいだといいなっ。
そんなベッド上での葛藤はミライに悟られることもなく、いつもの落とし所である希望的観測で幕を閉じた。
ちなみにその希望的観測ではあるが、毎度の事ながら叶った覚えがない。
希望ってのはね、叶わないから希望って言うんだよ。偉い人が言ってた。
なにそれ悲しい。やめたげてよぉ。
「お母さん、ミコトのステータスにびっくりしちゃって泣いちゃった」
ミライ抱っこスタイルか~ら~のー……揺り篭フォーメーションをしながら、彼女は照れつつそう言った。
そうか、ミライがそう言うならばそう言うことなのだろう、と俺も余計なことは口に出さなかった。
涙の理由や謝罪の意味なんてものは結局は関係ない。
俺はミライと一緒にいるし、ミライは俺といてくれるだろう。うん、それだけだな。
「でも慰めるように抱かれちゃったな。しかも初めてだし……えへへ」
おい。
おいやめろ。その言い方は大変に語弊がある。人としての倫理感としてもよろしくない。
ナニがアレしちゃった男女の会話みたいじゃねぇか。
……まぁ何て言うか。
何て言うかこういうのも俺たちの日常なのかな、と思ってしまった。
すごく安心すると同時に、いやいやそれじゃアカンだろ、とも思っていたが。
後日。
改めてアナライズで俺のステータスを見たミライは、やはり驚いた様子ながらも嬉しそうに笑ってくれた。
ほっ、と一安心である。
ちなみにおおよその俺の推測は当たっていたようだ。
ステータスのランクは最低がG、最高はミライが知っている範囲だとSらしい。
SLもスキルという解釈で問題なかった。
だがスキルを獲得しているのは大変珍しいことらしくこれまた目を丸くしていた。
もうここまでくれば、ステータスのINTがB+ってのも結構すごいんじゃね、HAHAHA。
という心境で尋ねた所、一流の魔術師クラスらしい。
はぁーなるほどなるほど。
チート乙!!
次話、ようやく他の登場人物が。