第九話 勝負の始まり
死の間際の経験を繰り返すと人は強くなれる。
そんな理論をアリエスが言ったのは、あの訓練が始まってから三回目のことだったか。
黙々と口答えせずに球を必死に避けようとしていた時、不意に口を滑らせたのだった。
どのような意図が訓練に隠されているか、俺は今まで考えたことがなかった。
だから真相を知った所で、そうか、という淡白な感想しか出てこない。
ありていに言えば俺はこの女のことは信じていない。信じる気もない。それはこの女に限ったことではないが。
だがアリエスの強さだけは本物だった。
人柄の面を見てもくだらない嘘をつくようには見えない。
騙される危険性があろうと、何よりも俺は縋り付くしかなかったのだ。
どんなに無茶をやらされようと今はそれに喰い付いていくしかない。
アリエスがそのことについて口にしたのはそれっきりだった。
それからの訓練に手を抜くような様子はなく、むしろ激しさは増していく。
慣れれば慣れた分だけ厳しくなっていった。
絶妙に限界を見極めたアリエスのおかげかはわからないが、訓練の途中で死ぬことはなかった。
毎回、瀕死の重体のようなものだがマリーの回復魔術で事なきを得ていた。
そうしてまた月日は過ぎ去っていく。
いつのまにか雨の代わりに雪が山の化粧を彩り、季節は冬に差し掛かっていた。
白い吐息が景色に溶けるように消えていく。
今日も寒い一日になるのはベッドから出た瞬間からわかっていた。
外気の冷たさは暖炉がある部屋の中との温暖さで尚更それが身に染みる。対処として服を重ねて着てはいるが、体を動かそうとすると邪魔になるのが難点だろう。
リヒテンに住んでいた時には雪が降ることがなく、はらはらと降り積もる雪も初めの頃は物珍しかった。
だが今となってはただ鬱陶しいだけだ。
白い絨毯に最初の一歩を刻む行いも、何度も繰り返せば感動すらなくなる。
そんな風にしゃく、っと雪の積もった地面を踏み抜いていた。
「相変わらず辛気臭い顔をしているね」
「放っておけ……。そんなことよりもアンタ、寒くないのか」
からかい混じりの声を出したのはアリエスだった。
一緒に小屋の中から出たのだが、彼女はいつものタンクトップ姿で外に出ていた。
この冬になってからアリエスが防寒具を着た姿を見たことがない。
極端に寒さに耐性があるのがこの世界の人間の特徴か、と思ったがマリーは普通に俺と同じような格好をしていたから、この女が特別なのだろう。
アリエスは寒がっている様子もなく、逆に見ているこちらの方が寒くなってくる。
身震いする俺の傍に同じように雪を踏みしめたアリエスが並んだ。
「秘密、知りたいかい?」
いたずら猫のように目を細めて、アリエスは間髪付かずにそう言った。
口元はつられて笑みの形になっていることから、ろくでもないことだとは察することが出来る。
遠慮する、と言いかけた時にちょうどドアが開く音と重なってしまい掻き消える。
小屋の方を見れば今まさに外に出たのであろうマリーがいた。
暖かそうな重ね着は俺のよりどこか華々しい。口元は灰色のマフラーで覆い、ぽんぽんが付いた赤い帽子を被っていた。
手袋もちゃんと完備しており、寒さ対策は万全といった格好だった。
そんな彼女がアリエスのことを少しの間見詰めていた。
何かあるのかと疑うぐらいには長い時間、だが結局マリーは何も言うことはなかった。
この二人、いつからかはわからないが、なんだか妙な雰囲気になっている気がする。
ふとした時に今のようなことが度々あるのだから、いくら鈍感な奴でもわかるってものだ。
「まぁ……知りたくなくても教えるんだけどね?」
アリエスは何事もなかったかのように先ほどの話を続けた。
マリーの態度はあからさまで誰でもわかるようなものだが、この女もそういう隠し事はあまり向いていないようだ。
首を突っこむ気は更々ないので、俺は我関せずの態度を取るだけだった。
「それで何か特別なことでもするのか」
今日に限ってアリエスは俺たち二人に同行してきた。
これは初めてのことで山の中腹で待っていたことはあっても一緒に行った記憶はない。
歩きがてらそんなことを聞いてみても、含み笑いするだけで答えてはくれなかった。
「さて、ついたよ」
「……」
歩き始めて一分も経たずにそんなことを言うアリエスに、思わず無言になってしまった。
そこは小屋の近くの小さな広場で、今は一面を真っ白な雪で覆われて銀景色になっている。
まさかここが目的地だと言うつもりだろうか。
予想外と言えばそうなのだが、てっきり登山の途中で何かするつもりなのかと思っていた。
具体的には山を登りつつも球を避けてみろ、だとかそんな無茶振りだと。
「さっきの秘密の内容を教えてあげるのさ。いや、伝授って言った方がそれっぽいかな」
「何だ、必殺技でも教えてくれるのか?」
「あはは。それはまだまだミコトには早いさね。まぁ伝授と言ってもすでにミコトは使えてはいるんだけどね」
謎かけのようなアリエスの物言いに眉をひそめる。
使える、というからには何かのスキルか魔術。
俺が使えるのは高速思考に精霊を見れる眼、感情によって魔術の威力が増すスキル。そのぐらいだ。
魔術はおそらくアリエスには使えないだろう。
その中からアリエスと俺との共通点を探ろうとしてもわからなかった。一体何を教えるというのか。
「わからないかい。答えはね、魔力操作さ」
「魔力……操作?」
「アンタの言葉で言えばブーストさね」
「ブーストを?」
ブースト。魔力を直接、強化に当てることで飛躍的に身体能力を向上させる手段。
スキルとも言えない荒業であり、MP効率はひどいとしか言いようがない。
魔術をろくに使えなくなった俺に残された、最後の有効な魔力の使い道といったところだ。
それをアリエスが何故?
「今日の修行は直接アタシが手合わせするよ。その中でミコトに教えてあげるさね」
「……あんたが俺と戦うって?」
手合わせという言葉に俺は敏感に反応した。
それはようやく直接アリエスと戦うということだったから。だが、
「……戦う?」
その言葉を聞いた瞬間にアリエスの雰囲気はがらりと変貌した。
今までそこに立っていた者と同一人物とは思えないほどに。
空気そのものがピシリと張り詰めるほどに緊迫し、殺気が肌で感じ取れる強さで迸っていた。
突然の出来事にマリーや俺でさえ、その場で縫いとめられたかのように動きを止める。
「ミコト……アンタがアタシと戦いたいという気持ちはわかる。でもね、アンタは先走りしすぎなんだ。
まだアンタは同じ場所にさえ立っていない。そんなアンタが気軽に戦いたいなどと口走るんじゃない」
「……ッッ」
「無謀を勇気と履き違えているのかい?そうじゃないだろう。
アンタには強い思いがある。だけれど思いに振り回されていては強くなんてなれない」
「お前にはわからない!俺のことなんてわかるはずがないっ!!」
「ミコト……」
その声は俺の傍から聞こえた。追い縋るようなマリーの声だった。
俺の名前を呼ぶ彼女に振り向くことはしない。マリーも同じだ。アリエスと同じで俺の気持ちを共有することなんて出来ない。
思いに振り回されるな?そんなことはわかっている!
わかっていてもどうすることも出来ないことだってあるだろ!?
押さえつけたとしてもその思いは消えることなんてない。むしろどんどん増していくことだってあるんだ。
だから、俺は焦っているのか。
小屋で過ごした数ヶ月。約束の時はまだまだ遠く。
心のどこかでこんなことをしている場合じゃないと叫んでいるのか?
納得した振りをして、騙し騙しの日常を偽っていただけなのだろうか。俺にはそれを完全に否定することなんて出来なかった。
「……これは戦いじゃない。手合わせ、ただの勝負だ」
そう言ってからアリエスは静かに雪が舞い降りる中、構えをとった。
ガントレットはその腕になく、無手。その構えは不動であり、一切の乱れはない。
武器という武器はない。だが彼女のその全てが凶器であるのだろう。
一切合財の躊躇もなく、あけすけな殺意をぶつけ始める。
指向性を持った殺意が俺だけに向けられていることを感じ取る。
「師匠は本気だ。本気でミコトと……」
呟くその声は恐れを多分に含み震えていた。
マリーにそれは向けられてはいないだろうが、一欠けら程度は感じ取っているのかもしれない。
「マリー、お前は離れていろ」
「でも師匠は本気で!」
「アンタはどいてなマリー。邪魔だよ」
「師匠……ミコト……」
二人からの言葉でマリーは躊躇しつつも、一歩、一歩と俺たちの傍から離れていった。
それでいい。誰も横槍なんて望んではいない。
俺とアリエスの間には何もなく、距離も一挙手一投足で事足りる。
邪魔をするものは雪程度。地面には五センチ程度降り積もっている。
アリエスならば物ともしないだろう。俺ではそうもいかない。
位置取りを考慮しながら高速思考を起動。球避けではあるまいし、遠慮なく使わせてもらう。
それと共にブーストを発動し身体能力の向上を計る。久しぶりに使ったがどうやら問題はないようだ。
俺が準備を終えるのを待っていたかのように、アリエスは口を開いた。
「そう、ミコト。アンタは全力を出してきな。そうじゃないなら……」
その言葉が終わるや、
「秒殺だよ」
アリエスの姿が掻き消えた。