第六話 お約束の罠
空気の違いというものは激しい運動を行うことによってより顕著となる。
普段通りに呼吸したとしても取り込める濃度が薄く、酸欠になりやすい。
山を登るとなればそれは尚更だった。
起伏のある山道はそれだけで普段使わない筋肉を酷使し疲れやすい。
体力があまりない俺は早くも足が言うことを利かなくなっていた。。
自然の美しい光景を眺める余裕などなく、荒い息をつきながら機械的に足を動かすしかない。
……体力作りと称してアリエスにこうやって山道を登らされている。
あの広場から見上げたトール山脈の中腹あたりを指差し、不敵に笑いながらアリエスはこう言ったのだ。
「強化は禁止。自分の力で登ってきな。ちゃんと辿り着けば今夜のご飯に一品追加してあげるよ」
「師匠、それ作るのはあたしですよね?」
「時間はどれだけかかってもいいからね。マリーもミコトと一緒に行きな」
「すっごく無視されてる……。別にいいですけど……。み、ミコト?そういうわけだからよろしくね」
……と、二人の気の抜けた会話を思い出す。一時間前のことだ。
それだけの時間が経ってもゴール地点である場所は影も形も見えない。
焦っても仕方ないと思い呼吸を整える事にする。
思い通りに動かない体は恨めしいが、それが今の自分の限界だと知っておかなければならない。
滴る汗を拭っていた俺の顔に影が差し掛かった。
見上げればそこにいたのはマリーだった。
「……大丈夫?」
そう言いながら水筒とタオルをこちらに差し出してくる。
俺と同じペースで登っているはずなのに汗一つかいていないマリーの姿にイラつきもするが、それは完全なる八つ当たりだ。
無言でそれらを受け取ると、タオルで拭く前にまず頭から水を被らせた。
火照った頭に気持ちのいい感覚が訪れ、それから水を切るために犬の尻尾のように頭を振る。
それから手ごろな石に腰を下ろすと、疲労がどっと体中に押し寄せた感触がした。
思わず深いため息をつきそうになるが、そっと押し殺しす。
代わりにタオルで頭と顔を拭う。頭の方は程々にしておいたほうがいいだろう。どうせまた熱くなるのだろうし。
そんなことをやっていると、じっと俺を見ているかのような誰かの視線を感じた。
言わずもがな、それは傍にいるマリーだった。
「……何?」
「う、ううん!なんでもない、なんでもないから!」
俺が不審な目を向けるとマリーは慌てて顔を逸らした。
ぎこちない態度ではあるが、それは今に始まったことでもない。
俺が彼女に歩み寄らず、すげない態度ぱかりとっているせいとはわかっている。
それでも遠ざかることなく、こうして世話を焼くのは哀れみからだろうか。
彼女が俺に近づく度にそう思ってしまう。
人の心なんて誰にもわからない。
だから俺は推測することしか出来ず、もやもやとした気持ちを抱えることしか出来ないのだった。
……それにどうせ長い付き合いになるわけでもあるまい。少し我慢すればいいことだ。
そういえばマリーが俺に同行しているのには理由がある。
ある程度整備された山道があるとはいえ、途中で迷う危険性もないとは言えない。
つまりは案内役としてだろう。
それともう一つ、俺の監視役という意味もある。
例えば俺が限界を超えて動けなくなった時、リタイアするかもしれない。
アリエスの言葉の裏にはそのような意味が見え隠れしていた。
(何が「ちゃんと辿り着けば」だ。ふざけやがって)
意地でもリタイアなんかするか。あの時のアリエスの顔を思い浮かべるだけで気持ちが奮い立つ。
俺を試すようなわざとらしすぎる上から目線。
安い挑発にみすみす乗る形になるのは気に入らない。
だが、あの女にこんなことも出来ないのか、と思われるのはもっと気に入らない。
すでに足は小刻みに震えるぐらい疲労困憊だが、鞭を打って立ち上がった。
粘つくような疲れが足回りに付きまとうのを感じつつ、再び山道を登り始めた。
「え。もふひっちゃうの!?」
慌てたのはマリーだった。
俺が短時間で休憩を終えると思っていなかったのだろう、彼女はゆっくりする気満々におやつを食べていた。
座っている彼女の膝元に小さな包みがあり、その中にクッキーみたいな物が見えている。
こいつ、いつも何か食ってるな……。
あの小屋で俺が養生していた時にも常に何かしら食べていた気がする。
そんな彼女は未だ口の中に食べ物入れたまま意味不明なことを口走り、すでに満杯な口の中に残りのおやつを放り込む。
そうして、つんのめりながら俺の後を追いかけてきた。
あわや転倒かと思いきや、マリーは倒れることなく危なげなく立ち直した。
行儀の悪さはさておき、こういう何気ない動作でも彼女の身体能力の高さが窺い知れる。
アリエスの弟子というのも伊達ではないというわけだ。
と、少しマリーの評価を改めていたのだが何やら様子がおかしい。
一歩、二歩と俺の先にいったかと思うと急に足を止めてしまった。
肩を震わせているマリーを、俺は眉根を寄せながらその顔を覗き込む。
(喉を詰まらせてやがる……)
必死な形相で胸元を叩くその姿に、呆れつつも水筒の口を外してから手渡した。
一も二も無く水にありついたマリーはかぶりつき、口の端から水が零れる勢いで飲み込んでいく。
程なくして落ち着きを取り戻したのか、ぷはー!っと水筒から口を離した。
「あ、あぶなかったー!今まで喉を詰まらせた中で一番あぶなかった!」
「お前どんだけ喉詰まらせてんだよ」
「あ、あはは。それはともかくミコト、ありがとう」
「……ふん」
「ってそういえばこの水筒って、ミコトが……」
目まぐるしく表情を安堵、苦笑、笑顔と変えたかと思うと、最後に何かに気付いたように小さく呟きマリーは押し黙ってしまう。
忙しい奴、と思いつつもなんとなくマリーが考えていることはわかる。
よくあるお約束というやつだ。まぁそもそもお約束なことしてないんだが。
「水筒には俺、口つけてないぞ」
「え」
「登りつつこまめに飲むつもりだったからな」
「な、なーんだ……」
マリーはほっとしている反面、どこか残念そうな顔をしているのは俺の気のせいだろうか。
こんなやり取りをくだらないと思い、しかし、懐かしさも覚えてしまう。
普通な会話をすること自体久しぶりだったせいかもしれない。
一瞬の懐古を振り切って、俺はマリーにタオルの方も渡した。
「これは?あたし、そんなに汗かいてないよ」
「いや、お前口元がびっちゃびちゃだから」
「え゛」
「水飲むときに必死だったせいだろう。そのタオルの表側では拭いてないから多少はマシなはずだ、使え」
「~~!!」
言葉にならない叫び声を上げたマリーは瞬く間に顔が沸騰した。
赤面したその顔からは汗が出始めている。
それから口元で手を隠して、反対の手でマリーは静かにタオルを受け取ると素早く背を向けた。
恥ずかしさで俺から背を向けたその姿に邪気が抜かれる。
(単純な男だな、俺ってやつは)
だがある意味でこれも僥倖だといえる。
信用うんぬんはさておき、表面上だけでも人のいい顔をしなければこれからだって生きていけない。
他人の同情心にいちいちささくれ立っていてはいけないのだ。
そんなことを俺が考えているとは気付きもしないのだろうが、マリーは未だ頬を赤く染めながらいつのまにかこちらに向き直って、
「あ、あのさ……ミコトも、水筒、必要になる……よね?それで、あの、これ……あたし、口つけちゃったんだけど……」
「…………」
と目を合わせずにたどたどしく話した。
お約束トラップは未だ継続中らしい。正直な話、頭が痛くなってきた。
詳しくは話さないが、それから一悶着があったのは言うまでもないだろう。
ただ一つだけ言えることがあるとすれば、俺はまんまとお約束の結末になってしまった、ということだけだ。
それから更に三時間の時間をかけて俺は目的地に到達することが出来た。
息も絶え絶え、体は満身創痍で倒れこむようにしてゴールしたのだった。
そんな俺の姿を見て、山の中腹にいたアリエスが軽く目を見張りながら驚いていた。
それを拝めただけでも必死になった甲斐はあっただろう。
「よくここまで来たね。途中で諦めるか、もしくはもっと時間がかかるかと思ってたよ」
「挑発しといてよく言うな」
「でもやる気にはなっただろう?それを込みにしても、アタシは可能性として五分五分だと思ってたよ」
「あたしはミコトなら絶対登りきるって思ってました!現にすごく頑張ってました!」
「おや。おやおや。なんだかアンタら少し仲良くなってないかい?」
「そ、そんなことないですっ。あ、でも、仲悪くなったってことでもないですからっ」
慌てふためくマリーと、アリエスがニヤけ顔で冷やかし始めた所で俺は無視を決め込む事にする。
こういう輩は反応を楽しむタイプだから無闇に反応しないに限る。
まぁ、俺が反応しなくてもマリーの方が過剰に焦ってあくせくしているわけだが……。
お前、それだと何かあったと言っているようなもんじゃないか。
別にあれから何かあったわけではない。
でも俺がマリーに対して態度を軟化させたのを敏感に感じ取ったのかもしれない。
女ってのはそんな所によく気が付くからな。
関わらないのが得策だと思い、二人の喧々とした声をBGMに休憩を取る。
一度座り込めば二度と立ち上がりたくないような疲れが押し寄せてきた。
今だけはそれに抗うことなく、長く深いため息をついた。
体の節々が痛む。明日は間違いなく地獄になるだろう。
だがこれも自分を強くする為だと思えば苦にはならない。俺は一刻も早く強くなりたいのだから。
「そういえばミコト、帰り道はどうするさね?」
その一言で現実に戻された。
……ゴールに着くことだけを考えていたから、それは全然考えていなかった。
冷や汗をかき始めた俺の心中は勿論隠すことにして、さて困った。
休憩を取れば体はまだなんとか動くだろうが、あの山道を下ることを考えると相当厳しい。
この体ではあの勾配がある道を踏ん張りを利かせて下るのは難しい。
足に力が入らずに真っ逆さま、というのも冗談ではなくなってしまう。
細かく調整を入れて下りればいいのだろうが、途方もなく時間がかかってしまうだろう。
「アタシが抱えて下りてもいいよ。十分ぐらいで小屋に行けるしね」
おんぶに抱っこされろってか。そんなのは絶対に嫌だ。
アリエスにからかう様子はなく真面目な提案というのはわかっていたが、運んでもらうつもりはない。
「どんな下り方してんだ……お断りだ。自分の力でいける」
「とは言うけどね。今のミコトだと着くまでに日が暮れてしまうよ。山は日がなくなると視界が利かなくなるから危ないさね」
「……ッチ」
「全く、女のアタシに抱えられるのが嫌なのかい。男の子だねぇ」
「うるせぇ。ガキ扱いするなって言っただろう」
「仕方ないねぇ。マリー、ミコトに回復魔術かけてあげな。それでいくらか楽になるはずだよ」
「はいっ。わかりました!」
元気よく頷きこちらに近づいてくるマリーを俺は拒否することはなかった。
その光景こそがこの一日で訪れた、一番の大きな変化だったのかもしれない。
静かに俺は回復魔術を受け入れた。
マリーの両手を緑色の淡い光が包み込み、患部に触れて流し込まれる。
一番負担がかかった両足を始めとして、暖かな感触が全身に伝わっていった。
確かにどこか体が軽くなった気がする。回復魔術は傷だけではなく、疲労にも効果があったんだな。
「あたし、回復魔術だけは得意なんだよ。魔術って本当にすごいよね」
「……そうか」
治療している間、暇だったのかマリーが話しかけてきた。
すごく誇らしげにそう語る彼女に、俺はそうやって短く返答することしか出来ない。
それでも無視されないことに気を良くしたマリーは、それからも魔術がいかにすごいかずっと喋り続けていた。
ぶっきらぼうにしか返事をしなかったのにとても嬉しそうに。
純真無垢に魔術を信じる彼女に俺は否定も肯定もしなかった。
それから十分に休息を取った俺は自力で下山することに成功した。
時間こそ登る時よりかは早く下りられたが、怪我をしそうな場面が多々ありなかなかスリリングだった。
もしもあの時、マリーに回復魔術をかけてもらわなかったら大怪我を負っていとしてもおかしくはない。
軽い擦り傷などはあったが、どうにかこうにか無事に一日を終える事になったのだった。
ちなみにご褒美として夜ご飯に一品追加されたのは、デザートだった。
瑞々しい木の実で食感は梨のようなもので、水分がたっぷりと含まれて甘みがあっておいしかった。
疲れで食欲があまり出なかったのだが、これだけはぺろりと平らげることが出来た。
実はこの木の実、あの登山の途中にマリーが取っていたらしい。
新鮮だとは思っていたが、いつの間に取っていたのだろうか。気付かなかった。
そういえばこの果実、アリエスの好物らしく大人気なく羨ましそうにこちらを見ていた。
大の大人が上目遣いでこちらを見ているのだ。一種のホラーである。
勿論俺は大人の態度で分け与える……わけでもなく、当然の如く全て俺が食べさせてもらったわけだが。
アリエスは大変なショックを受けているようだったが、まさかあれでほだされると思っていたのだろうか。
マリーならこれで通用したのに、おかしいさね……と呟いていた一言は聞かなかったことにしよう。