第三話 弱体化と傷跡
太ももあたりまで浸水させてから水を手ですくって体にかける。
水と体温との温度差が心地いい。体の汚れが取れていくような感触がする。
今度は両手で水を溜めてから顔に浴びせる。
こすり付けるように塗りたくれば、冷たい感触が顔面に広がる。
目を閉じて存分にその感覚を味わっていたら自然とため息が零れた。
俺は思ったよりも疲れているのかもしれない。
体が、という意味でも精神的にも。
ろくに運動もせずに幽閉されていたのだから仕方の無い話かもしれないが。
(そう言えばこうして空の下に出たのは三年振りか)
透明度が高い水面には空が映っていた。
直接見れば目が潰れてしまうほどの光を放つ太陽も、こうして見ると白い光が水の中で静かにたゆたうだけだ。
顔から滴る水滴が水面にぽたぽたと落ちてはその光景を歪ませていく。
よくよく見ればそこには俺も映っている。
あの屋敷にいる間、食事には困っていなかったのでやせ細ってはいないがやはり線が細い。
今の俺の年齢はおそらく八歳ぐらい。まだ第二次性徴がきていない歳とは言えこれでは少女にしか見えない。
透き通るような白い肌に黄金色の髪の毛。素肌には水気を含んで張り付く金糸が蠱惑的な印象をあたえる。
髪でも切ればまた印象も違うのだろうが、俺は切るつもりはなかった。
まだ何も成し遂げてはいない。何も終わってはいない。
「魔術でも癒せない傷跡、か」
水面から視線を移して直接自分の体を眺めれば薄っすらとだが傷跡が見える。
それはいたるところといっても過言ではなく、傷の種類も様々だ。
地下牢の思い出と言った所だろう。そして魔術とて万能ではないという証だ。
「……もしかして」
ふと思い出す。
アリエスは言っていた。俺が意識を失っている時に体を拭いていたという。
あのマリーとか言う女が妙な態度を取っているのもそのせいか。
同情からくる優しさというわけだ。
くだらない。そんなもの俺には必要ない。
優しさなど相手がそう感じなければ優しさになりえない。
一方的な優しさなどただの自己満足だ。
少なくとも俺はそう思う。思うからこそ心に棘のようなものが刺さる。
……いや、冷静になれ。瑣末事だ、俺が気にしなければ何も問題はない。
そう自分に言い聞かせつつも、どこかで何か引っかかったまま俺は水浴びを続けていた。
それから数分後、一通り体を綺麗にして湖から上がる。
体を拭く物が何もない。まぁこの暖かさなら自然乾燥に身を任せてもいいだろう。
そう思っていたのだが服を置いていた岩場まで戻ると、脱ぎ捨てた服が綺麗に畳まれてその横にタオルが置かれていた。
アリエス、もしくはマリーのどちらかが来たのか。
畳まれた服を見るとおそらくマリーか。
声をかけることなく立ち去ったのは、水浴びしていた俺の姿を見たからだろう。
裸を見られたことには別に羞恥心は湧かない。タオルを見てこれも同情の一環かと少し思っただけだ。
手っ取り早く乾かす為に水気をなくすのは悪くない。
一番乾きにくそうな髪の毛から俺は拭くことにした。
滴る水滴もなくなりようやく乾き始めた頃、すっきりした心持ちで草葉の上に腰掛けていた。
仰ぎ見れば太陽の光がちょうど目に入り眩しかった。翳してもう一度見上げれば気持ちのいい青空。
空をちゃんと見るのも久しぶりだ。
あの屋敷でも窓越しで見ることは出来たが、いつからかそんなこともしなくなったように思える。
空を見ればあの日々を思い出してしまうからかもしれない。
彼女と過ごした日々を。あの部屋の窓越しから見た光景を。
今はどうだろう。
胸によぎるのは懐かしさか、愛しさか。
……違う、そんなものではない。
暢気に異世界の光景を楽しんでいた俺はもういないのだから。
「強くなる……」
いや、強くならなければならない。例えどんな手段を使ったとしても。
ならばあの女の提案は受けるべきなのか。
誰かに頼りたくないという気持ちはある。それは昔から俺の根本にあるものでずっとそう思ってきた。
手ひどく裏切られた今はより強くなっている。信じるに値する人などもはや誰もいない。
だが、俺は一人だけで強くなれるのか。そんな時間があるのか。
またアリエスのような奴に横取りされてしまったら。そう考えると心が焦り、鼓動が早くなる。
いや……そうだ、あの女にどうして教えを請わなければならない。
あいつは復讐の対象なのではないのか?憎むべき相手ではないのか?
そう思えば思うほど、まるでそれが真実であるかのように思えてくる。
俺の体の内から止め処なく溢れかえるように歯止めが利かない。
「殺すか」
呟いた自分の声は驚くほど平坦だった。
もしかしたらこのままあの小屋に戻り、アリエスに手をかけてしまうぐらいには鬼気迫る声で。
だがその時、湖でちゃぽんと音が鳴った。
はっとして顔を上げれば水面に波紋が広がっていた。どうやら魚か何かが跳ねたみたいだった。
己を取り戻した俺は激しく頭を振って先ほどの考えを打ち消す。
確かに気持ちの上でアリエスは許せない。いらぬ手助けで復讐すべき相手を取られたのだからそれは当然だった。
しかし果たしてあの女に勝負を挑んだ所で俺は勝てるのだろうか。
俺は幾分か冷静さを取り戻した後でアナライズを唱えた。
名前 … ミコト
性別 … 男
種族 … ハーフエルフ
状態 … 健康
L V … 1
H P … 17 / 17
M P … 2359 / 2359
STR … F-
VIT … F-
AGI … F
INT … G-
DEX … E
S L … 高速思考Δ
覚醒・トゥルースサイト
フィーリングブースト
森羅万象
これが俺の現状のステータスだ。
STR、VIT、AGIのランクの悪化に加えて、INTは最低値のGマイナスだった。
状態は呪いから健康に戻ってはいるが、むしろそれは悪い話かもしれない。
呪い状態だったからこそINTはあの値だったのだ。ならば健康状態になったのに何故INTは元の値に戻っていないのか。
答えは簡単だ。この状態が俺の普通になってしまったのだ。
おそらく解呪せず指輪を引き抜いた後遺症か。
試しに魔術を唱えればウインドはそよ風程度のもの、ブラストはそもそも発動さえ出来なくなっていた。
魔法は使えない。精霊と契約したからこそ使えた力なのだろう。
今やその精霊さえいないのだから土台無理な話だ。
スキルは相変わらず使えはする。
だがフィーリングブーストの効果を持ってしても魔術の威力に大した変化はなくなっていた。
森羅万象は以前と同じで灰色の文字のまま、指で押しても説明文さえ出てこない。
「使えるのは体を強化するブーストぐらいか……」
現状を考えれば考えるほど、勝てる算段が立てられなくなっていく。
寝込みでも襲うか?平然とあの女は対応して返り討ちにあいそうだが。
まぁそれはともかく、俺が弱くなっているのはわかっていたことなのでそれほど落胆はない。
今は戦いを仕掛けるのは無謀な判断だと切り捨てる。
それよりも大事なのはこれからどうするかだった。
(強くしてやるというのだからそれを利用するべきか……?)
俺の感情を抜きにして考えると、アリエスの提案を受けるのがいいように思える。
一人で生きていくには俺はあらゆる意味であまりに非力だ。
提案を断ったとして俺に行く宛などなく、路頭に迷うことになるのは明白だった。
あの女の真意はわからないが、それを含めて見極めていけばいい。
見通しの無い未来を選ぶのか、仇を奪った相手に甘んじるのか。
要は後は俺の気持ち次第だということだ。
それからしばらくの間ずっと考えていた。
すでに濡れてしまった髪の毛は乾いて、風に踊らされるようになびいていた。
若干風が冷たくなった、と思い俯いた視線を上げれば、太陽の位置は傾き始めていて時間の経過を知らせる。
水面をずっと見つめていたから気付きもしなかった。
ずいぶんと考え込んでいたらしい。
腰を上げて立ち上がり振り返る。
後ろにある山道を辿れば数分後には小屋に戻ることが出来るだろう。
あるいは反対方向の林の中に入り、行方をくらますことも出来る。
二者択一を迫られ、俺はアリエスたちの所へと戻ることに決めた。
一歩踏み出せば後はもう迷いは無い。斜陽の中、歩き出す。
背にした夕日は長い影を作り、俺を包み込むように大きさを増していた。
けして追い越せない影を前にしながら、俺は山道を歩いていくのだった。




