第五話 二人の距離
後になって聞いたことなのだが、どうもミライは家庭教師として働いているらしい。
すっかり魔法騒ぎで本来の質問の意味を忘れていた。
家庭教師ぐらいで生活を支えられる程に稼げるのかとも思ったが、どうやらその勤め先が貴族らしくたんまりとお給料を貰っているみたいだ。
週二日、貴族の屋敷に教えに行っているようだ。
『教えているお嬢さんが、とても綺麗で礼儀正しくて可愛い子なのよ』と、にっこり笑い掛けられればもはや何も言うことはない。
俺も一安心だ。
しかし、そんなことになっているとは露知らず、俺はミライがその美貌を活かして夜の仕事でもしているのではないか、と疑っていた。
とんでもない馬鹿だ。
安直な俺の考えもそうだが、何より自分の母親をそんな想像で汚してしまったのが許せなかった。
いつから俺の心の中でこんなにもミライが大きくなっていたのだろう。
大切な存在というものが自分自身にとはいえ、穢されることが腹立たしいとは思いもしなかった。
だから俺はとてつもなく落ち込んでいた。
夢見が悪かったのもあるかもしれない……どんな内容だったかは今では思い出せないが、すごく嫌な夢だった。
後日、一人でそんなことを思いながら窓辺のいつもの椅子に座って落ち込んでいると、そっと後ろから誰かに抱きつかれた。
ミライだ。
こんな風に抱きしめる人なんて彼女しかいない。このぬくもりにも覚えがある。
すっぽりと子供の小さな体を包み込む柔らかな腕。ふわりと漂う彼女の匂いは驚きで硬くなっていた俺の体を優しくほぐしていく。
どうして、とは思わない。
普段はふわふわとしている彼女だが、俺の感情や体調については意外に鋭い。それが母親というものなのかもしれない。
(ミライは抱きつく癖があるな)
苦笑しながらも当の本人に振り向くことはしない。振り向くことが出来ない。
きっと俺はひどい顔をしている。
じくじくと滲み出る後悔に苛まれ、情けなくて、様々な感情が溢れかえり自分でもどう収拾をつければいいのかわからない。
前世では成人もしていたというのに、こんな思いになったことがない。
いかに自分が精神的に未熟だったのかがわかる。
沈黙。
ただその場には沈黙しか横たわっていなかった。
時折聞こえてくる雑音もどこか別の世界から聞こえてくる細波の如く、窓の外側から漏れる賑わう人々の声もどこか遠く。
二人の息遣い、そして背中から伝わるトクン、トクンというミライの鼓動しかこの部屋には聞こえてこない。
ミライは何も喋らない。まるで何も語らないことが言葉だと言うように。
そんな時がどれだけ過ぎただろうか。
一瞬だったかもしれないし、呆れるほどの長い時間だったのかもしれない。
時間の感覚が希薄になって、想いが胸からはち切れそうでろくに何も考えられなかった。
(クソ。なんなんだよ。なんで俺こんなに泣きそうになってんだ)
俺はそんな時間が耐えられなくなっていった。わけもわからずに無性に泣きたくなった。
震えそうになる体をミライに悟られないように必死に押し留めて、目の奥から湧き上がりそうになる熱い何かを歯を食いしばり耐えて。
だが、それでも。
いつのまにか頬から一筋の涙が溢れてしまった。
決壊してしまった涙は目尻を始点として、最後には顎の先からぽたりと俺の体に回されていたミライの腕へと零れ落ちる。
我慢しようとすれば今度は体が震え始める。
言うことを聞かない体に苛立ちを覚えても、この震えが俺の本心だとでも言うように止まることはない。
無駄な抵抗と知りつつも俺は顔を俯かせた。
見られたくないし、知られたくないと思った。なんて情けないんだ。
「あっ……」
思わず小さな声が零れる。
優しく労わるようにミライが俺の頭を撫でてくれていた。
ゆっくりと頭の先から後頭部に向けて、何度も、何度も。
相変わらず言葉は一つもない。だけどそれが尚更、俺の心へと響いていく。
まるでその手に魔法がかかっているかのように俺のちっぽけな意地なんて跡形もなく、なくなってしまった。
それから俺は声もなくずっと泣き続けた。我慢なんてしなくていいってわかってしまった。
どうしようもなく震えそうな時はその手のぬくもりがあやすように何度も頭を撫でられ、止め処なく溢れ続ける涙は全て受け止めるようにぎゅっと抱かれる。
我慢は得意だったはずなのに。
耐え忍ぶことなんて簡単なことだったはずなのに。
そんな風に優しくされたら、素直に泣くしかないだろう。情けない自分を曝け出すしかないだろう。
俺は知らない内に、体の前に回されていたミライの腕を両手できゅっと縋るように掴み、泣き続けた。
一杯泣いていたのか、時は過ぎて夕闇が世界を包み込もうとしていた。
それでもなかなか俺は泣き止まなくて、そしてそんな俺にミライはずっと付き合ってくれて、だからこそそんな優しさにまた涙が溢れる悪循環。
いい加減そんな自分が情けなさ過ぎて、意地で止めれるようになった時にはすでに夕餉の時間に差し掛かっていた。
暗い部屋の中で月の明るさだけが光源になった宵闇に、俺は恐る恐る顔を上げた。
一瞬、ミライは「ん?」という顔をして……微笑む。
そこにあるのはいつもの笑顔。
俺の日常を象るような優しい笑顔が俺を出迎えてくれる。
そんな顔を見て俺はまた涙腺が緩んでしまいそうになるが、奥歯をかみ締めてこらえる。
(……あぁ、俺はこんな人を汚してしまったのか。そして……怖がっているのか)
こんな状況になったからこそわかる。自分の心の奥底に潜んでいるものが。どうしようもない臆病な面が。
人との距離がわからないから。人が嫌いだから。
そんな言葉を言い訳にして、いつまで距離をとってしまうのか?
こうして抱きしめられていても、どこか心の中で逃げ出したい自分がいる。無意識に距離を開けたいと思ってしまう。
少なくとも彼女はきっと違う。あの人たちとは違う。信じたいと心から思う。
だけれど怖い。信頼するということは裏切られるかもしれないということ。
信じなければ最初から裏切りなんてない。希望と絶望は表裏一体なのだから。
だが、だが!
それは俺一人のことで、ミライは何一つ関係ないじゃないかっ。
こうして愛情を注いでくれる彼女に俺は応えないでいいのか?
怖いからと逃げ出してしまっていいのか?
何のために俺は生まれ変わった。以前の俺はそんなことも考えられなかっただろう。
だから考えろ。
必死に思考を加速しろ。
能無しだった自分を乗り越えて、置き去りにする速さで想像しろ!
ここで間違ってしまったら、きっと俺はそのままずるずると過去の自分に引き摺られていく。
その方が楽だから。立ち向かう勇気なんて必要ないのだから。
(そんなのは嫌だ……。嫌だ!嫌だっ!!嫌だ!!!)
『スキル覚醒の前提条件 ・前世のしがらみ一・ アンロック
天恵スキル解放……高速思考 』
……?
一瞬、何かのメッセージが聞こえた気がしたが……気のせいか?
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
答えは今出さなければいけないのに、余計なことを考えている暇はない。
悩みに悩み、だけれど、それもきっと一瞬のことだったのだろう。
俺は長い時間をかけて結論を出そうとし続けていたと思っていたが、ようやく答えを出した時にはまだ日がかろうじて頭を出していたのだから。
以前から俺はミライとだけはよりよい関係、といったら堅苦しいか。
つまりは仲良くなりたいと思っていた。ちゃんとした家族になりたいと思っていた。
だけど、俺は家族がどんなものか知らない。産まれた時には母親が死に、父親は俺を憎み他に家族を作った。
あんなものがまともな家族なんかじゃないのはわかっている。
俺は余計な知恵がついたガキで、無条件に愛を受け止められる純粋な子供じゃない。
だから俺はその時、決心した。
今まで曖昧模糊とした気持ちを捨てて、確固たる意志で前に進むことを。
流されるだけじゃダメだ。優しさに甘えてばかりいるのもダメだ。いつかは慣れるだろうと時間に任せてもダメだ。
その間に傷つく人がいる。何より傍にいる彼女がいる。
俺に悲しみの片鱗さえ見せない彼女に返したい。
たくさんの数え切れない愛情を、伝えきれるかわからないこの嬉しいという気持ちを届けたい。
だから俺は、いつもの笑顔を向けるミライに、自然と湧き出た笑顔を返すのだ。
ぎこちなさなんか欠片もない本当の笑顔で、また一滴最後の涙を零れ落ちさせた泣き笑い顔で笑い返すのだ。
それはまた一つ、俺とミライとの距離が縮まった気がした、そんな一日のことだった。