第五十七話 三年を待った理由
一部、過激な表現があるので苦手な方はご注意ください。
黒毛の女へと向けられた凶刃は、しかし女の頬を切り裂くだけに終わった。
その場をろくに動くことなく、紙一重で女は回避してみせたのだ。
浅い……。
持てる力を最大限に発揮した渾身の一撃だったが、掠り傷しか負わせられなかった。
すぐに俺は女と距離を取るべくバックステップ。
何が起こったか理解していないもう一人の女は、尻餅をついて床に座っていた。
「あの男に情でも寄せたのかい……」
一筋の赤い線を頬に刻まれ、流れ出る血の流線を拭うこともなく、ただ平坦な声で女は俺に言葉を投げた。
一瞬、その意味が俺には理解できなかった。
それはあまりに想像の埒外にあった言葉だったから。
アノオトコニジョウヲヨセタ?
意味がわからない。その言葉は俺に浸透しない。
コンクリートの上に垂らした水のように染みることがない。
しかし意味としては頭の中でちゃんと理解していた。
……俺があいつに共感しているとでも?好意を寄せていたとでも?
……は。
ははは。
はははははははは。
…………巫山戯るな。
巫山戯るな巫山戯るな巫山戯るなッッ!!!!
「フザケルナァァァァァァァァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!」
あの日誓った決意が汚され、沸騰する激情が体を震わせる。
喉が張り裂けんばかりの獣の咆哮が部屋中に響き渡る。
再度、切りかからなかったのはなけなしの冷静さがあればこそ。
行動しない代わりにおぞましい殺意が溢れかえる。睨み付けた眼光にありったけの憎悪を乗せる。
視線外から少女の「ひっ」という声が聞こえたような気がしたが、そちらに目を向ける暇はない。
目の前の女を殺す。殺しつくしてやる。
ギタギタに、
切り裂いて、
あらん限りの狂気を、
俺のこの手で、
仇討ちを、
殺す、
果たす。
意識が散り散りになりかける。
狂おしい。狂おしいほどにこの女を殺したい。引き裂いてやりたい。
殺すだけでは足りない。四肢を切り離すだけでも足りない。その人としての尊厳さえ踏みにじりたい。
暴れ狂うその感情は一種のエクスタシーさえ感じられる。
恍惚。が、そんなものはシネ。
興奮状態に陥った体は短く息を吐き続けることを強要する。
犬のような息遣い。その顔に宿した紛れもない殺意。
動き出そうとする体を冷静な思考が待ったをかける。
知るか。邪魔だ、そんな思考はシネ。
思考のカット。感情の発露を一点に集中。濁りきった泥の如き黒い感情以外、必要ない。
しかしながら、状況の判断は必須。
(高速思考展開――)
状況判断。
女との距離はおよそ五メートル。間に障害はなし。
傍にはもう一人の女がいるが、事態についていけてない模様。放置。
武装確認。軽装、ガントレットで両腕を保護。
ガントレットを用いての攻撃。打撃を主とする攻撃スタイルの可能性あり。
致命傷となるのはやはり頭部、または首筋。
対象は女性ながらも筋肉の質から考えて、こちらの武器では他の部位での成果は期待できない。
ブーストによる加速の突破力を考慮しても致命傷は難しい。
攻撃手段を模索。
投擲によるフェイント……己の劣った筋力では脅威に到る速度を出せるはずもなく、唯一の武器を失うことになる可能性高。
魔術による武器の加速を考慮。現状では魔術の同時行使は不可能。
投擲後に詠唱へと移行する為、致命的な遅延が発生する。下策。
魔術による直接攻撃……下級魔術しか使えず、INTの補正により低火力しか望めない。
フィーリングブーストによる増幅を考慮。エラー。
スキルの不発を以前に確認。試行回数を重ねても成功例はなし。却下。
「……心技体の理を今ここに、アナライズ」
状態異常発生。魔力の循環に異常。
体内の指輪によるINTの低下、更にはフィーリングブーストの妨げになっている可能性あり。
魔術そのものは激痛の副作用を無視すれば行使することは可能。
アナライズ、ウィンド、ヒールの詠唱成功は過去に確認。
殺傷能力が高い魔術に適合するものはなし。いずれも戦闘の補助的な意味合いが高い。
限界まで振り絞った魔術の行使による体への反動を推測……不明。
他の手段を模索開始。
シミュレート……失敗。
シミュレート……失敗。
シミュレート……失敗。
……。
…………。
………………。
何千回、何万回と一秒の間に思考を加速させた。
過去に類を見ないほどにスキルはその力を発揮し、だがあの女の確実な殺害までのシミュレートには辿り着けない。
戦闘経験の不足、指輪の効果による弱体。
絶望的なまでに俺に味方しているものはない。少しだけ強い子供ではあの女には適わない。
だからといって諦める道理はない。
俺の中であの女を殺すことは、もはや確定的な事項だった。
復讐の対象を殺された。そんなことを俺が許容できるはずがない。
奪ったのだから、奪われるのも覚悟するべきなのだ。だから、殺す。
「止めておきな。アンタではアタシを殺すことは出来ない」
「…………」
こちらに歩み寄ることもなく、壁を背にした女はそれが当然のことだとでも言うような口調で話しかける。
強者の余裕か。だが女に油断といったものは存在しないようだった。
静かな闘気を纏い、そびえ立つ高い壁が目の前にあるようなプレッシャーを放ち続けている。
押し潰されそうな威圧感に抗うことが出来たのは、心の中を憎しみの色で染めていたから。
今の俺にはそれ以外はない。
恐れなんてもの入る余地なんてなかったのだ。
だから俺は迷うことなく今の俺に出来る最善手を取る。
そう、俺が弱いのならばその原因を取り除けばいいのだ。
「アンタ何をっ」
初めてあの女から焦るような声が聞こえてきたが、そんなものは関係ない。
俺は右手に持ったナイフで自分の胸を突き刺した。
「キャァァァァァァ!?」
床に転がっていた女からの甲高い悲鳴を耳にしながら俺はナイフを抜いた。
痛みという感覚にはこの三年で嫌というほどに慣れてきたが、それでも体が勝手に反応する現象には対処しきれない。
足にあまり力が入らなくなり床に膝をつく。視界はノイズ混じりのように不明瞭。
自傷したのは指輪を自分で取り出す為。
レコン相手ならば使うことがなかった奥の手をここで使うしかない。
三年目の最後の詰め、それこそ指輪の摘出をする為に体の成長を待っていた。
リスクという点でいえばあまりにリスキー。
どれだけ体が成長しようがこの行為に危険は付き纏うことだろう。
俺に死ぬ気はない。しかし死を恐れていたら成し遂げられないことだってある。そう、今がその時だ。
指輪の位置は大体魔力のコントロールをしている内に把握できていた。
だから取り出すこと自体は意外にうまくいって、すぐに血濡れになった彼女の指輪が久しぶりにその姿を見せる。
その後の処置が何より迅速にしなくてはならない。
すぐさまに俺はヒールを詠唱して自分の体を癒すことにする。
その際にフィーリングブーストの効果が発揮していることを感じ取れた。
しかしどこか魔術の挙動がおかしいような、そんな感じもする。
無理やりに摘出したのだから、何らかの異常が発生してもおかしくない。
だがこれで……魔術が自由に使える。
「無茶苦茶さね……」
そう言いながら女は戦闘体勢のようなものを取る。
ボクシングスタイルの亜流のような、見たことのない構え。
ゆったりと自然体でいながら隙が見当たらないその構えから、女は動くことはない。
こちらが攻めて来るのを待つということだろう。
血を大量に失ったことで貧血気味の体は休めと警告している。
実際、魔術が使える状態となったといっても動けて後一度か二度だろう。
指輪を摘出しなければもっと多く動けただろうが、それではそもそものチャンスがない。
例え動けなくなったとしても、次の一撃に活路があるのならばそれに掛けてしまうしかないだろう。
右の手にナイフを握り締めて、その時を待つ。
いつの間にか荒くなっていた呼吸を落ち着かせながら、一呼吸、二呼吸。
そして三度目の呼吸を終えた時、静まりきったこの部屋の空気が動き出した……。