第五十四話 心象世界
そこは濃い緑色の板の前に、規則正しく整列されたたくさんの机と椅子が並べられている場所だった。
それぞれミコトが転生した世界テラでは、決して目に掛かることがないであろう素材で作られた物たち。
所狭しと並べられた机と椅子で窮屈さを演出する部屋の名前。
それは地球では教室と呼ばれる場所だった。
そのちょうど中央に位置する机に頭を抱え込んだ子供が一人。
黒色のまともな散髪もしていなさそうな髪型をしているその子供は、瞳を必死に閉じていた。
耳は両の手で塞ぎ、世界から孤立するかの如く。
周りには誰もいないというのに。
いや。
唐突に一つの影が子供のすぐ傍に現れた。
影、としか言いようのない姿をしておりその影はゆらゆらと体を揺らして立っていた。
目も耳も閉ざしていたはずの子供が、その影に反応するかのようにびくりと体を震わせる。
すると、それに反応したのか次々に影が現れ始めた。
次第に増していく影は周りに壁のように取り囲み、子供の姿を隠していく。
そんな渦中、子供の伏せた顔に浮かんでいたのは恐怖の色。
だが影の中に埋没していくばかりで逃げ出すこともせず、机の上に張り付いているだけだった。
助けはこない。そのはずだった。
子供の全身が影に隠れてしまいそうな時、一つの調べがどこからか聞こえてきた。
透明に澄み切ったその旋律は人の声が奏でる詩。
しかしそれは人の声では真似の出来ないような神秘性を秘めている。
神聖、とでも言うのだろうか。
誰しもが立ち止まり、沈黙を保ったまま厳かに聞き入ってしまう……そんな浄化の詩だった。
影は詩が聞こえてきた時を始まりとして、一つ二つとうっすらと消えていく。
力が込められた詩は影を殺すのではなく、癒すことで救いを与えていた。
そうして影の壁がなくなり子供の姿がようやく見え始めた頃、子供は耳を塞いでいた両手を解き放っていた。
何かから逃げるように閉ざしていた瞳からは止め処ない涙が流れ始め、それでも詩を聞き入る為に瞳は閉ざしたまま。
拭うことさえ忘れた両の手はだらりと横に垂らし、静かに泣いていた。
止むことのない優しい旋律はそれからもずっとこの教室に響き渡っていた……。
子供はその詩を子守唄として机の上で眠りについた。
すーすーと寝息をたてて、安らかな寝顔を浮かべる子供の邪魔をする者はいない。
ただ彼の寝顔を見つめている者は一人だけこの教室に存在していた。
いついたかも定かではないその人物の髪は日差しに照らされて光る金色。
柔らかな髪質はふわふわと、触れば極上の手触りを提供してくれるに違いない。
容姿も美しく整い、芸術的と評価しても否定する者はいまい。
気になることがあるとすれば、それほどまでに美しいのにその者の性別は男だった。
そしてテラの世界で波乱の人生を送る子供、ミコトの姿と瓜二つだった。
彼は寝入った子供の顔をしばらく見つめた後、机を横切りながら教卓近くのドアの前まで歩いていく。
ドアは白いスモークが入った窓付きのもので、今は閉ざされていた。
その扉に向かって彼は妙な言葉遣いで語りかけ始める。
「何故、主を助けぬのです?」
その声に応えるように、スモークガラスの先に人影が現れた。
どんな人物なのかはわからない。ただシルエットを見る限り長い髪型の女性のように思える。
想像と違わず、その人物は女性特有のソプラノボイスで返事をした。
「この扉一枚が限界なの。これ以上、私は入ることはできない」
「……それはどのような意味で?」
「……ミコトには秘密だよ?」
苦笑混じりにそう言った彼女に、彼はしばらく迷った後に、はい、と返した。
その言葉を待ってから彼女は秘密の内容を話し出す。会いたくても会えない理由を。
「私はね、今、あの魔術師がミコトにかけた呪いをこの体に押さえ込んでいるの」
「呪い……。それは一体?」
「心を病ませる呪い。負の感情を呼び覚ます呪い。さっき部屋に現れた影は抑え切れなかった分だね」
情けないなぁ、と零す彼女の声に彼は反応することは出来なかった。
話のあまりの内容に愕然としていたからだ。そして愚かにも彼女に何故助けないのだ、と言ったことを激しく後悔していた。
彼女はある時を境にして魂だけをミコトの中に入り込んだ霊体のようなものだった。
彼もそういう意味では似たようなものだったので、すぐに彼女がここに来たことは察していた。
そして常々、ミコトに自分がいることを何故教えないのかを疑問に思っていた。
問いかけたくとも彼女は姿を見せることはなかった。
こうして館に監禁されてからしばらく経ち、初めてあの影がここに現れなければ、自分から強引に探し始めていたかもしれない。
「まさか、ずっと一人で戦っていたと申すのですか?」
「あははは……」
「笑い事ではありません!ならば我も手を……」
「それはダメだよ」
のんびりとした口調から一転して、ぴしゃりと彼女は言い放った。
二の句が継げない彼に、彼女は優しい声を上げながらガラスに手をぴたりとつけた。
女性の繊細で小さな手だった。おそらくミコトが後数年経てばすぐ覆えるようになる小ささ。
だがその手がミコトを……そして彼を守ってくれている。
「君はミコトと密接な魂の繋がりがあるから、私に触れるだけで二人とも呪いに犯されちゃう」
「しかし……」
「それに貴方も私の子供なんだよ。お母さんに守らせてくれないかな」
そんな言葉を聞いて彼は嬉しさもあったが何より悔しさが勝っていた。
二人がこうして話しを出来るようになったのはこれが初めてのこと。
彼はミコトを通じて愛されていることを実感でき、それだけで満足だった。
例えそれが一方通行の愛でも。
それなのに彼女はこうして彼にも愛情を注いでくれている。それなのに助けることもできない。
「辛くは……ないのですか?」
「私、そんな感情全然ないから平気だよ。影が出てきたらやっつけちゃう!」
「寂しくは……ないのですか?」
「こうして貴方ともお話できるし、死んだと思ったのにこうして貴方たちを守ることが出来たしへっちゃら!」
そんなわけない。
彼はそう思っていたが、彼女の声にその証拠を見つけ出すことは出来なかった。
段々と重たくなっていく自分の言葉に、無駄だと思いつつも言葉を続ける。
「主に教えるわけにはいかないのですか。我の声は届かなくても母上なら」
「秘密だって言ったでしょ?ミコトが私のことを知れば、きっと会いに来ちゃうからね。そうなったら……」
「…………」
「今度こそミコトの心は壊れてしまうかもしれない」
悲しい声の裏に断固とした決意を感じとる。だから絶対会うことも、教えることもできない、と。
扉一枚向こうの彼女はどんな表情をしているのだろうか。
スモークガラス越しではわかりようがない。
そして彼は現実世界のミコトと同じ姿をしていて身長の低さ故にガラスに手を添えることも出来なかった。
未熟、あまりに未熟。
彼がもっと大人なら、成長をしていれば何かが違っていたかもしれないのに。
無力を嘆くのは何もミコトだけではない。彼も同じ気持ちだった。
「……っ!もしかしたら主の記憶がなくなったのも!?」
「……」
「そんなどうして……」
「……それじゃあそろそろ行くね」
「待って、待ってください!」
「その扉、開けちゃダメだからね。お母さんとの約束だよ」
「行かないでください!!母上ぇぇ!!」
その言葉を最後にして曇りガラスからも手を離し、彼女は扉の前から立ち去っていく。
すぐ傍にいるというのに、この扉を開ければ会えるというのに、話したいことはたくさんあるというのに。
彼は開けることができなかった。
彼女の思いを無駄にしない為にも、それは絶対に出来ない。
「母上……貴方はひどい人です。我に愛を教えておきながら、返すことを許してくれないなんて……」
遠ざかる足音が消えるまで、彼はずっと扉の前から離れることなく聞き入っていた……。
「ふふっ。母上かぁ。面白い呼び方だよね」
誰に届くことのない独り言が廊下に木霊する。
こつこつ、と歩く足音と彼女のその声以外響くものはなかった。
それにも増して生き物すら見当たらず、延々と廊下が続いているのみだった。
廊下の果てさえも見通せず、先ほど彼とミコトがいた教室の入り口でさえ夢幻だったかのように消え失せた。
現実で起これば動揺の一つでも起こしそうな異常な事態。
そんな中でも彼女は上機嫌に廊下を歩いていたのだった。
「あの子もミコトと一緒でいい子そうだったなぁ。そういえば名前、あるのかな?」
聞くのを忘れていたことをあちゃーと思い、でももしかしたら名前がないのかもしれないと気付いた。
そうしたら今度会った時にでも自分が名前をつけるのもいいかもしれない。
「それもこれも貴方たちをどうにかしないと、ね」
彼女のその言葉が合図でもあったかのように、廊下の壁から、地面から、あらゆるところから影が産まれ出でる。
その数は教室で現れた比ではなく、廊下の先の先まで埋め尽くさんばかりの大群。
あっという間に彼女は取り囲まれ、しかしその顔に危機感は存在しなかった。
あるのは確固たる意志。大切な人を守ろうとする心の表れ。
どれだけ呪いが影として姿を現そうとも、何度でも退けてみせるという彼女の自信。
「今日はちょっと失敗しちゃったけど……そのおかげであの子とも会えたし、いいかな」
それにドア越しだったがミコトの傍までいけた。
ミコトの中にいるとはいえ、あれほどまで強くミコトを感じ取れることはなかったのだから。
……彼女は一つだけ、ミコトと瓜二つの彼に嘘をついていた。
ミコトに会えない理由は何も呪いのせいだけではない。
彼女は……ミコトと、そして彼に直接会ってしまうことで諦めきれないと思ってしまうことを恐れていた。
魂だけの存在となったのに、生きたいと思う理由が出来てしまうから、だから。
彼女はそんな思いを秘めながら無数の影と対立する。
不気味にうごめく影が波となって襲いかかる前に、いつかあの愛しくて大切な日常に子供たちに聞かせた詩を声に乗せて。
身長低くて届かないなら椅子使うか、別の窓から姿見ればいいじゃん、とかの突っ込みはなしの方向で。
……彼も動揺してて思いつかなかったんです!うん、それだ!
ここまでお読みいただきありがとうございました。
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