第五十二話 親子
一部、過激な表現があるので苦手な方はご注意ください。
この建物にはいくつの部屋があるのかは定かではない。
内装を見た感じでは屋敷のような雰囲気であり、メイドたちの会話を盗み聞きした所そう言っていたので事実そうなのだろう。
俺がまた連れてこられた場所は、地下牢と同じような場所に位置する。
移動の際に目隠しされたのは相変わらずだったが、頭の中に描かれた地図では途中まで前と同じルートを辿っていた。
やけに薄暗いのはここに窓さえないからだろう。
地下に作られたと考えるとそれは当たり前だが、完全な暗闇というわけではなく魔道具によって明かりはそれなりに保たれている。
(まるで闘技場だな……)
たくさんの人が座れるような観客席、そしてそれに周りを囲まれ席から見下ろす形で広がる地面。
広さで言えばそれほど大きくないだろうが、まるまる数百人以上は収納できる程度には広い。
平坦な地面にはこれといったものは何もなく、争いの跡は見受けられなかった。
ただ両端に入り口のようなものがあり、鉄格子がそこにかけられている。
俺がいたのはその観客席。
どこから持ってきたのかこの場に相応しくない豪奢な椅子を用意されて座っていた。
座り心地は悪くない。
だが、違和感そのものの正体である椅子に座っている時点で気分は良くない。
隣に立っているこの能面の男は、それさえ見越して俺を座らせたのだろうか。
あの拷問でこの男のサディスティックな一面は嫌と言うほど見たので、今更この程度、と思わなくもないが。
「素晴らしい場所でしょう。ここでは思わず涙を零すような感動的な光景が繰り広げられるのですよ?」
「……また俺を痛めつけるのか。あの男を刺した罰として」
「いえ、いえ。それは勘違いというものです。ここでは貴方とワタクシは観衆。舞台に上がることはかないません。それに……」
ルクレスは背後の方をちらりと向きながら、軽くため息のようなものをついた。
しょうがないな、と言わんばかりに。
「当の本人であるレコン様は気にしていない様子。むしろ喜んでいましたね」
「何?」
「全く、あの方も度し難い。すぐに治せば失明は免れたというのに、彼女が刻んでくれた証だ、と言って聞かないのですよ」
あれでは右目は完全に見えなくなるでしょうね、との言葉を最後にしてルクレスは喋るのを止める。
何が証だ。ふざけやがって。
あの時、俺はレコンの瞳を目掛けてフォークを突き刺した。
言葉にし難い感触とつんざく悲鳴。すぐに控えていたであろう使用人が駆けつけると辺りは騒然とした。
慌しく使用人たちが動いている最中、俺はあの男の顔からフォークが生えていることに笑い出したい気持ちが止まらなかった。
「思い出し笑いですか?ヒヒヒッ。貴方も相当いい性格していますねぇ」
「お前もあいつとお揃いにしてやろうか?」
「それは遠慮しておきましょう。今は……ほら」
そう言ってからルクレスは顎をしゃくると鉄格子の方を指し示した。
見ればちょうどその時、重たい音を立てて格子が上がりその中から二人の人間がおたおたと姿を現した。
見るからに平民といった風体で飾り気はないが優しそうな顔立ちの女性。
そして寄り添うようにして彼女の足にしがみついている男の子。
おそらく親子だろう。
親子が鉄格子から離れると、すぐさまに格子は閉じられた。
二人は鉄格子の前から動く様子はなく、しばらくびくびくとしながら周りの様子を伺っていた。
視線が宙を彷徨っていたのは数秒だっただろうか。
ようやくこちらに視線を合わせた時、遠目からでもわかるほど彼女たちはびくりと体を震わせた。
ルクレスの容姿もさることながら、俺も女性用の黒いドレスを着ていたのだからそれは驚くだろう。
しかしその驚きの中にも恐怖という感情が見え隠れしていた。
「ようこそ、ようこそ。この闘技場に」
「あの貴方たちは一体……。それにここは……闘技場って」
ルクレスのしゃがれた声にも臆することなく、母親としての強さだろうか、女性は多少声を震わせながらも尋ねる。
「おっとご紹介が遅れました。ワタクシは貴方たちの脚本家とでも言いましょうか。そしてこの方はワタクシの主人でございます」
「なっ……!!」
主人、と言いながら手を水平にして俺を示したルクレスに俺はすぐさま否定しようとした。
だが、急に首の所が熱くなったかと思うと言葉が一切出なくなり、身動きもろくにとれない。
何かしら細工が施されているとは思ったが、こういうカラクリか……!
声を上げることも出来なくなったが、しかし何故俺を主人だと嘘をつくのか。
「そんな所にいないでもっと前に。……そう、そこの中心辺りにいてくれると助かりますねぇ。よく見えるので」
「あの……お願いします。元の場所に帰してください。わけもわからずここに連れて来られて、この子も怖がっているんです」
「ママ……怖いよぉ」
「不安な気持ち、わかりますよぉ?ですがご安心ください。闘技場といっても今は名ばかりで貴方たちが戦うことはありませんから。
すぐに終わる用事を済ませてくれれば開放しますよ」
お互いをぎゅっと抱き締めながらルクレスの話を聞いていた女性は、その話を聞いて僅かながら強張っていた顔を緩ませた。
この男が簡単に逃がすことなんてするはずがない。
そう確信しているが、二人の運命を俺がどうこうできるはずがない。
それに赤の他人のどうでもいい存在だから、見捨てても何も問題はないだろう。
そのはずなのに……女性が子供を守っている姿を見ると心がざわついてしまう。
「ではそろそろいきますか。これをどうぞー?」
妙に間延びした声を発しながら、ルクレスはローブの下に隠していたある物を女性に投げて寄越した。
風の魔術をかけていたのか、それはふわりと女性の元まで何事もなく辿り着く。
物の正体は小瓶だった。
指で摘めるほどの小ささで、中には青い液体が少量詰め込まれている。
「これは一体何ですか?」
「それをどちらか一人が飲んでください」
「えっ……でも……」
受け答えする女性が戸惑うのも当然だ。
そんな得体の知れない物をいきなり飲めと言われて素直に飲む奴などいない。
当然の反応に気を悪くした様子もなく、むしろマジックの種明かしをするような喜悦に富んだ声でルクレスは最悪な言葉を告げる。
「飲めば死にます。楽ーにね。苦しまずに死にますから大丈夫ですよ?」
「そ、そんな!?」
「貴方たちに拒否することは出来ません。もし嫌だと言うのなら……」
パチンとルクレスが指で合図すると、両方の鉄格子がけたたましい音をたてる。
何かが激しくぶつかった時のような音の先には、暗闇の中に光るいくつもの赤い瞳。
唸り声の重奏が闘技場に木霊して、親子たちの恐怖と震えを更に促進された。
「鉄格子を上げておいしく頂いてもらうとしましょうかね。彼らは腹をすかしていますから喜んで齧り付いてくれますよ」
「や、止めて!お願い、お願いします!!」
ルクレスを見やり、そして俺を見やり彼女は必死に懇願する。
獣の唸り声に皺がつくほど女性の服を握り締めていた男の子も、そんな彼女の様子にただ事ではないと幼いながらにも察したようだ。
母親と同じようにこちらを見つめていた。
そんな目で俺を見るな。俺には何も出来ない……。
「時間は有限ですよ。貴方が決められないなら、ワタクシが……」
「待って、待ってください!!」
再び合図を出しかけたルクレスに女性の制止の声がかかる。
意を決したかのような真剣な表情で彼女はルクレスを止めると、それから男の子に振り向いた。
視線を合わせるようにしてしゃがむと、男の子をゆっくりと抱き締める。
「ママ?ママ、どうしたの?」
「ごめんね……。一緒にいてあげられなくてごめんね……」
ッ!?
女性のその言葉は強く、強く彼女の姿を思い起こした。
彼女がそんなことを言っていたような……なくした記憶の中に確かに……。
揺れ動く心の激震。ミライの姿と女性の姿が重なる。
ダメだ!!それを飲んだら……ッッ!!
声も出せず、身動きさえ取れず。目の前で失うことの辛さは誰よりもわかっているはずなのに。
大切な人を守ることを、しかし、この時も助けることは出来なかった。
女性はひとしきり男の子を抱き締め、名残惜しむように離してから立ち上がり一気にその小瓶に入っていた液体を飲み干した。
「素晴らしい!子供に飲ませる外道もいるにはいるのですが、彼女は違ったようですね!」
「……ッ!!……ッッ!!」
「ママ?ママ!?」
飲んでから数秒も経たない内に女性は崩れ落ちた。
仰向けに倒れた彼女の瞳にすでに光は宿っていない。
男の子がいくら体を揺すろうと、永遠に眠りから覚めることはないだろう。
「苦しんで死ぬ薬もあるにはあるのですが、ああやって自分の親が死んだことに気付かない子供を見るのがワタクシは好きでしてねぇ。ヒヒヒッ」
「…………ッッ!!」
「おや、何か言いたいご様子ですが後少しお待ちください。まだ終わっていませんので」
必死に声を出そうとする俺に、軽く手をあげてルクレスは無情な幕を下ろした。
その手が振り下ろされた時、鉄格子が待っていたかのように勢いよく上がっていく。
二つの格子から飛び出てきたのは灰色の毛色を持つ狼だった。
二メートル近い巨体で、口からは汚らしく涎を垂らしながら我先にと走り出す。
次々に格子から現れては闘技場の中心にいる骸になった女性と、突然の出来事に事態が飲み込めていない男の子に向かっていた。
獣の海に二人が埋没する中、男の子の瞳がこちらをじっと見つめていた。
目を逸らすことも出来ず、俺はそれをただ見ていることしか出来なかった。
その日から俺は毎夜悪夢を見るようになる。
終わらない悪夢を……。




