第五十話 喪失と痛み
あくる日、俺はどこか冷たい感じのする地下牢みたいな所にいた。
おそらく俺がいたあの部屋と同じ建物の中にあるのだろうが、移動している時は目隠しをされていた。
部屋から出た後は廊下を移動して、階段を三回降りたはずだ。
俺は自分では歩かせてもらえず、誰かに横抱きにされていたから正確にはわからない。
その人物の背格好はわからないが、子供とはいえ俺を抱えて歩くのは女性では少し厳しいだろう。
手の触感からも考えると大人。
それらから推測して、おおよその見取り図みたいなものは頭の中に作成することは出来た。
とはいえ一度だけしか移動しておらず、頼りにするのは心もとない。
移動経路を変えられたら地図としても役には立たないだろうから、頭の隅にとどめておくだけにする。
「心ここにあらずですかな?」
「…………」
地下牢にいるのは俺ともう一人、能面の男だった。レコンの姿は見えない。
じめじめとした暗い雰囲気に溶け込むようにしてルクレスは立ち、ここが自分の部屋だ、と言われてもすぐに信じることだろう。
左右を見渡せば名前の通りに牢獄がいくつも並び、明かりさえ乏しいこの場所では奥まで見通すのも難しい。
だがはっきりと人がいるのは感じ取れる。
多くの息遣いと泣いている様な声が響いていたからだ。
中には子供もいるのだろう、甲高い泣き声を上げるその子を母親が窘めている声も聞こえてくる。
「ここには用はないのですよ。招待したいのはもっと奥です」
「…………」
「さぁワタクシ自らがご案内致しましょう」
言葉を発することなく俺はルクレスについていく。
反抗する心がないでもないが、この男に関してはなんの武器もなければ傷一つつけることさえ不可能だろう。
歩く道すがら、視線が俺に纏わりつくのが空気でわかった。
たまに声を掛けられたりもした。お助けください、と。
俺の服はプリムラがしていたような煌びやかなドレス姿で、もしかしたらこの建物の主と間違えられたかもしれない。
この服に着替えるのも嫌だったが、レコン様に着替えさせますよ、とあのクソヤロウが言い放つのだから従うしかなかった。
逆にレコンに近づくチャンスと考えることも出来るが、ルクレスがその場に立ち会わないわけがない。
俺はその声に応えることが出来ない。出来るはずがない。
また元より助けたいという気持ちも湧かない。他人に縋り付くなど弱い者がすること。
お前らがそこにいるのはただ弱かっただけだ。だったらその弱さを享受しろ。助けを請うな。
死にたくないのなら自分だけで強くなれ。
そうして俺は一顧だにせず、案内されるままに奥の部屋と歩みを続けた。
案内された部屋はいやに空気が濁っていて生臭く、好んで留まりたいとは思えないような場所だった。
原因は他にもあり、拷問器具のような物が木の台にずらりと並んでいる光景が目に飛び込んでくれば誰だってそうだろう。
部屋の中央には腕や頭を縛るような拘束具が備え付けられた鉄の椅子。
床に血のような跡が残っており、生臭さの正体はそれだったのかと確信に至る。
「怖いですか?」
「お前が?それとも部屋が?」
「ヒヒヒッ。どちらとも言えますねぇ。そんな余裕もいつまで続くか見物です。貴方の想像通りのことをしますからねぇ」
俺は成すがままに鉄の椅子に座らされる。
子供の体型を想定していなかったのか、拘束具は頭の部分は回らず足も辛うじて届くといった有様だった。
だががっちりと腕の部分は固定されて身動きがとれない。
冷たい椅子の感覚がダイレクトに伝わり、体温が一度か二度下がったかのような感覚に陥る。
「さてさて、それでは始めましょうか。ワタクシが尋ねることを素直に答えれば少し楽になるかもしれませんよ?」
「教えて欲しいならその醜悪な仮面を外して床に頭をこすりつけろ。そうしたら少しは考えてやるかもしれんぞ?」
意趣返しを意識した返答をすれば多少なりとも思う所があったのか、ルクレスはずいっとその薄笑いした仮面を目と鼻の先まで近づけさせた。
仮面の穴が空いた部分から覗く奴と目が合う。
暗い仮面の中にあるその瞳はなおも暗く、深遠を覗き込んだかのような錯覚が俺を襲う。
「楽しい会話もするのも一興ですが、今は興味を満たすことを優先いたしましょう……貴方はどこまで知っているのですか?」
「……どこまでとはどういうことだ?」
「魔法のことですよ。貴方は彼女の全てを継承したはずです。知らないとは言わせませんよ」
継承の魔法は確かに奇跡の力をもたらし、彼女の生きてきた全てを教えてくれた。
当然のことながら知識といったものも俺は覚えている。
そのはずなのに……。愕然とした表情を隠すことも忘れて俺はルクレスに答えた。
「知らない……」
「とぼけるおつもりですか。魔法を秘匿したい気持ちはわかりますがねぇ」
「本当に覚えていない……何故」
とぼけているつもりはなかった。
本当に俺は彼女の記憶の全てを思い出せなくなっていた。
きっと大切なことがあったはずなのに。ミライがあの時泣いていた理由も、彼女がこの街にきた理由も大事なことだったはずなのに。
その時俺が感じた狂おしい感情は残っているのに、どうしてだか肝心の理由が思い出せない。
いくら記憶の中を探した所で何も思い出せる事はなかった。
動揺した俺の姿を見ていくらか信じることにしたのか、ルクレスはふぅむと息をつきながら俺から離れていった。
「精霊化が解けた際の後遺症?もしくはあまりのことに現実逃避をして自ら記憶を封じたか……」
「嘘だ……こんなことって、こんなことってない」
ルクレスはなにやらぶつぶつと呟きながら机の上を漁っているようであったが、そんな様子に俺は気付くことなくショックから立ち直れないでいた。
俺の心の支えはもはやミライしかなかった。
彼女の記憶が俺の中にあるから、傍にいるかのように思えていたのに。
自分自身の記憶は確かにある。俺が経験したことは思い出せる。
だがそれだけでは足りない。
すでに出来上がっていたパズルからピースがいくつも抜け落ちて、本当の自分が見えなくなっていた。
「どちらにしてもやることは変わりませんねぇ。ミコトさん。……ミコトさん?」
「ミライが、ミライがいない……。俺の中から消えていって……」
「やれやれ。貴方までレコン様みたいにならなくてもいいではないですか。しっかりしてください?」
「ッ!!」
俺を我に戻したのは頬に走った鮮烈な痛みだった。
じんじんと頬が熱くなり、初めてルクレスに叩かれたことに気付く。
「おっと、つい顔を殴ってしまいました。今すぐに回復魔術を唱えてあげますからね」
レコン様のお気に入りの顔に傷でもついてたら大事ですからね、と言葉を付け加えながら魔術の光をその手に宿す。
緑色の暖かな光であるはずなのに、こうも唱える相手が違うだけでその印象ががらりと変わる。
いつか彼女に癒してもらった時の事を思い出し、強く歯噛みする。
そうだ、例え彼女の存在がごっそりと俺の中から消えていったとしても、憎しみの炎は消えてなんかいない。
生きる希望がなくなったのなら、復讐という名の絶望にその身さえ費やせ。
俺は助けを待つばかりのあいつらとは違う。
この心に宿った黒い炎は絶対に消えることなんてない。
「その表情そそりますねぇ。ワタクシはレコン様のような趣味はありませんが、実にいい。……ご希望があれば聞いてあげますよ?」
仮面の顎をさすりながらルクレスは机に並べられていた器具の一つ一つを俺に見せ始めた。
頭の部分が何かで薄汚れている金槌のようなもの。
大工に使われるような物よりも、より鋭利で刃が引きちぎる方向に特化したのこぎりのようなもの。
挟めば人の胴体でさえ切断できる大鋏。
形からでは用途さえ不明なものさえあり、ルクレスは嬉々として披露した。
「魔術は素晴らしいものでしてねぇ。致命傷でなければ大抵のものは治癒できるのですよ。拷問には最適ですねぇ」
ルクレスは拷問器具の刃の部分を擦りながらそう言った。
俺は彼女との思い出を汚されたような気がした。
魔術とはそんなものではなかったはずだ。ミライはこんなことの為に教えてくれていたのではなかったはずだ。
少なくとも彼女は魔術を人を助ける為に使っていた。心さえ癒す魔法の手だった。
「魔術とは素晴らしいものでしょう。回復できるのなら延々と楽しむことだってできるのですよ。
だからワタクシの魔術を更に完成させるべく、魔法に関する知識を思い出しなさい」
「耳が腐ってるのか、知らないって言ったはずだ」
「それは残念。ですが時間はたくさんあるのです。いつか思い出すこともしれませんし、ワタクシはそれをお手伝いしましょう。
なに、回復だって出来ますし人体には結構詳しいのですよ。どこをどうしたら叫び声をあげるとか、ねぇ?」
そう言いながらルクレスは首を傾ける。
その仕草は壊れかけのマリオネットのようであり、より一層不気味さを際立てた。
ゆっくりと足を進めるルクレスを前にして、俺はこれからの長い時間が苦痛で彩られたものであることを覚悟するしかなかった。