第四十五話 たった一つ望むもの
魔物の群れが闊歩し、隊列を成して空を制圧する。
埋め尽くさんばかりの勢いで増殖した魔の軍勢は、隙間さえ見当たらない完璧な陣形を成して蟻の子一匹通さない。
ある者は長大な死神の鎌を肩に掛け、ぼろ布を纏う骸骨。
ある者は黒肌の強靭な肉体を身に宿す、双角の赤目。
ある者は三メートルを越える長槍を携える、石肌の彫刻。
その全てが全て、司令塔であるルクレスの命を忠実にこなす魔物たちである。
だが魔物たちの体は雷に怯える子供のように密かに震えていた。
一振りの斬撃で自分の体の数倍は大きい魔物を、いとも簡単に両断する子供がそこにいたからだ。
その斬撃に防御など意味を持たない。
剣の軌跡が空をなぞれば命が散る。
流れるように長剣を軽々と操り、断末魔の叫びを音楽として舞い踊る少年は疲れ知らずに鮮血を撒き散らす。
無粋な観客が手を出そうとしても、風の加護に守られた少年に触れられる者など存在しない。
追い縋る者がいれば、四枚羽を駆動させ瞬く間に姿を消す。
見失った者が次の瞬間に待ち受けるものは死だ。
圧倒的なまでの破壊力、認識さえ許さないスピード、偶然の攻撃をも拒絶する絶対の盾。
何も出来ぬまま骸となる者が刻々と増えるばかりであった。
無言で召喚と攻撃の魔術を繰り返すルクレスだったが、彼の心には大きな焦燥感が生まれていた。
ここまで、ここまで力の差が歴然としているとは思ってもいなかった。
彼は魔術もそれなりに習得していたが、召喚士としても腕を磨き最高クラスの力を持っている。
中位の魔物でも即時に召喚することが出来る為、詠唱を必要とする魔術師に対し優位に立ちやすく負け知らずだった。
戦士が相手ならば物量で押せばいい。魔術に抵抗を持たない者はもっと簡単だ。
しかしこの少年相手ではそんな定石は通じない。中位の魔物など少年の前に立てば一秒と持たない。
かといって対抗できるような強大な力を持つ魔物を召喚するには時間がいる。
だがそれでも、果たして五分にでも持ち込められるかどうか……。
未知数の力を持つ正真正銘の化け物だ。
未だその底は見えてこない。
今となって頼りになるのは、この十の指に嵌められたそれぞれの古代級の指輪ぐらいだ。
その内の一つ、魔力の泉と呼ばれる指輪は装着者のMPの自然回復能力を高める物なのだが、どうも効果が薄くなっている。
おそらくあのエレメンタルアブソーブというスキルのせいだろう。
周囲にいる者たちから魔力を吸収でもしているのだと思われる。
最悪、空気中に漂う魔力を吸い取っている可能性もある……そうなれば実質少年の魔力は無尽蔵といえる。
もう一つの指輪、群集の悪魔のおかげで戦線をどうにか維持できてはいるが……。
不利な状況を悟りつつ、懐に忍ばせておいたMPを回復させるマジックポーションの蓋を開けて頭の上から浴びた。
飲み干した方が効果は高いが、そんな暇はない。
足止め程度には魔物たちは役立っているようだがジリ貧だった。
効果的な攻撃方法がないのだから敗北は必至、最善は逃げることだろう。
背を見せた瞬間に殺されるイメージしか湧かないが。
「まだ高みの見物をしているつもりか」
たくさんの血を流したはずの少年は綺麗な姿のままでそう言った。
返り血を風の加護を使って逸らしていたのだろう。凄惨な殺戮を演じたはずの静謐なその姿はいっそ恐ろしい。
周りを魔物で囲まれているというのに物怖じさえしない。瑣末なことなのだと思っているのか。
事実、掠り傷さえ負っていないのだからそれは確かに真実なのだろう。
「これがワタクシの戦い方ですからね」
ルクレスの召喚士としての立ち回りはけして間違ってはいない。
人が仲間と信頼を通して共闘するのに対し、召喚士は魔物と魔力のラインを通すことで緻密なコンビネーションを発揮する。
召喚した魔物を剣と盾にし、術者はその合間を縫って攻撃をするのだ。
「そうか……ならば」
少年は一度目を瞑ると、風の刃に空いていた手の方を当てる。
一見隙だらけのように思えるが、飛び込もうなどと言う無謀な魔物はいなかった。
いたずらに戦力を損耗させるわけにもいかず、後手になるとわかっていながらルクレスも手出しが出来ない。
口惜しさに仮面の裏で表情を歪ませるルクレスの視線の先で、少年の魔法が変貌する。
断てぬものなど存在しない風の剣から、弓引けば貫くことが必然の魔弓へと。
その武器は長弓と一言で言えるほどに大きく、地上ならば縦に構えることさえ少年には難しいだろう。
意匠も何もない風が弓の形をしているだけといった感じの武器だったが、弦に殊更魔力が注ぎ込まれているのか光り輝いていた。
「直接狙いにくるということですか……!」
あの剣の恐ろしさを知っているからこそ、その威力は容易に推し量れる。
ルクレスの障壁を一撃の元に粉砕してもおかしくはない。
取り囲んでいた魔物に即座に攻撃の命令を下すと、彼の護衛に残していた側近を盾として前方に配置する。
術者本人であるルクレスは突撃する魔物たちへと防御の強化魔術を掛け、一縷の望みを託した。
遠方からでは多少強化の効率が落ちるが致し方あるまい。
弓という遠距離武器である以上、懐に飛び込めば特性を殺したも同然。
風の障壁があって近づけないだろうが、その障壁ごと取り囲めばいいだけの話だ。
四方八方から少年に襲い掛かる魔物たちを尻目に、ルクレスは高位の悪魔を召喚するための詠唱を始めた。
おそらく稼げる時間は少ないだろう。
間に合うかどうかはわからないが、ここで勝負をかけなければ話にならない。
残った魔物には自分を死守することを厳命し、後は祈りながら唱えるだけだ。
案の定、少年に突貫した者たちは風の加護に遮られ攻撃することもままならないようだったが、取り囲むことには成功したようだ。
魔物たちは団子状に群がり、小柄な少年の姿はその中に埋もれてしまっていた。
あれではあの弓も威力が抑えられて満足に使えないだろう。
魔物にも強化魔術を掛けているから一撃ならば耐えられるかもしれない。
(危険ではありますが、今の内に……)
そうルクレスが思っていた矢先に空気が爆発するような音が空に轟いた。
発生源は少年がいた場所だった。
少年を封じ込めていたはずの魔物たちが一斉に散り散りとなって吹き飛ばされてゆく。
あの壁はそういう使い方もできるのか、とルクレスは舌打ちをしたい気分だったが、詠唱はまだ終えていなかった。
今更止めるわけにも行かず、魔力のラインが繋がっている魔物たちに再び拘束するように命令を下す。
その間、少年は弓を魔物たちに向けるわけでもなく、上空の方面に狙いを定めていた。
輝く弦を引き絞れば発光が強まり、ぽうっと矢がいつのまにか装填される。
弦に負けず劣らずの光を放つその矢を指の間に挟み、限界まで引いた所で放たれた。
鈴が鳴るような耳心地いい音を響かせながら、誰もいない空間に矢は飛んでいく。
一方で魔物たちは懲りもせずに再び取り囲もうとしていた。
光の矢が降り注いだのは少年の元に後少しで辿り着く、そんな時だった。
「ギャァァァアアアアアアアア!!」
汚らしい断末魔の叫び声が斉唱でもするように重なった。
光の矢が幾重に分かれて空から降り注いだのだった。強化魔術など物ともせずに魔物たちの急所を的確に貫く。
それだけならまだしも、突如として魔物たちの体が内側から爆発でもしたかのように次々と四散していく。
あの矢が体内に潜り込んで爆発したとでもいうのだろうか。
魔物たちが絶命したのは見ただけでもわかる。たったの一射で包囲網は脆くも崩れ去った。
黙々と少年は第二射をまたも上に放つ。矢が分かたれて降り注げば、ごっそりと骸が量産されていく。
どれだけ堅牢に守りを固めようと、その上からでも光の矢は貫き通す。
ルクレスの命令を無視して逃げ惑う魔物がいたとしても、逃さないと言わんばかりに追尾して射殺した。
皆殺しの光の雨。
抗う術はなく死を享受するしか魔物たちに残された道はない。
目の前でそんな光景を目の当たりするルクレスだったが、もはや捨て身で詠唱を続けるしかない。
願わくばあの矢がこの身を貫かないことを祈りながら……。
結果として、ルクレスの切り札ともいえる召喚術は妨害されることなく成功させることができた。
代償に自分以外の全ての魔物を失うことになってしまったが。
しかしそれも全て少年の思惑だった。
手が残されてるうちに殺してしまえば、もしかしたらどうにかなったかもしれない、と最期に悔やみながら思うかもしれない。
そんなのものは許されない。
絶望とは心の虚無であり、後悔などという感情が生まれれば成しえていないということだ。
虚ろに無様に死んでゆけ。
少年の心の全てを占めるのは、たったそれだけのことだった。