第四十三話 闇夜に舞う
ぶ厚い雲に覆われたリヒテン、二千メートル上空――。
地上よりもより暗く、闇が領域を伸ばすその場所にルクレスは浮かんでいた。
天候の悪化で黒色の雲だったものがどす黒く、まるで憎しみに染まっているかのような色合いに変化し、風は勢いを増して吹き荒び始めていた。
上空でその影響をもろに受けて彼のローブが忙しなくはためく。
そのことを気にする体もなく、ルクレスはただの一点だけを見つめていた。
「……動きがないですねぇ。仕方ない、挨拶代わりにこれでもどうぞ」
彼は懐から何かを取り出すと地上に向けてそれをぽいっと気軽に投げ捨てた。
それは小さな球のようなもので、不思議と風の影響も受けずに自由落下を始めていった。
やがて上空からではその姿を捉えきれない程に小さな豆粒となり、目的の家の屋根に辿り着く。
その瞬間、閃光と爆音が暗くなった世界に突如として現れた。
彼が投げた物は魔道具の一種で、内包していた魔術を発動する爆弾のようなものだった。
小さいながらも威力は確かなもので、爆撃された家は屋根のみならず建物自体を半壊させていた。
地上に近い一階、二階部分は無事のようであったが、最上階である三階は木っ端微塵。
あれでは人がいたならば死体さえ残らず、ただの肉片となっていてもおかしくない。
「そんなにうまくは勿論いかないですよねぇ……」
言葉なくいつのまにか彼の目の前に現れたのは、光の羽を背に展開した金色の髪を持つ少年だった。
緑色の淡い燐光を四枚羽が纏い、上の羽は大きく下の羽は対照的に小さい。
その姿と可憐な容姿はまさしく妖精のようであり、色の無い表情は神秘性さえ醸し出している。
それは見た目、という点だけを見ればだが。
どろどろと煮え立つ少年の心を見通せる者がいるならば、間違っても妖精などとは言わないだろう。
「奴はどうした」
「レコン様のことですかな。ワタクシの使い魔に運んでもらいましたよ」
「…………」
「ワタクシは貴方の足止め役、といった所ですかな。どうぞお付き合いください。
それにしても美しい。まさしく伝承に登場する精霊そのものの姿。……だからこそワタクシは汚したい。ヒヒヒッ!」
ルクレスが腕を上げ合図を出すと、少年がいる背中側からぬうっと小型の悪魔がその姿を現した。
その悪魔の名はシャドウデーモン。
隠密、暗殺を得意とし、闇の中ならばどんな生物が目を凝らそうと姿形さえ捕らえきれないという生粋の暗殺者である。
上空に上がった際にルクレスは事前に召喚し、闇の中に忍ばせておいたのだった。
ぴくりとも反応をしない少年に小悪魔はサディストめいた笑みを洩らし、その手に持っていた大鎌で思い切り背中を切り裂いた。
絶命には至らないだろうが、致命傷にはなるであろう一撃。
血飛沫をその顔を浴びて喜びに声を上げようとしていた小悪魔だったが、顔にかかるぬめりとしたいつもの感触が訪れない。
むしろ当たった手答えさえなかったのだった。
小悪魔がもう一度少年に視線を戻そうとする前に、軽い衝撃と共に小悪魔の視線は塞がれた。
少年が振り向きもせずに片手で小悪魔の頭を掴んだからだった。
ギィギィと耳障りな声を上げてこれに抵抗を示す小悪魔だったが、いくら力を込めようとその細い手は微動だにもしない。
得意の大鎌もこれだけ接近されていると振るうことも出来ず、自前の力だけで暴れることしかできなかった。
それが無駄な抵抗だと知るのは、小悪魔の命が尽きた時だけだった。
前振りも何もなく、闇に溶けるその体に舐めるようにかまいたちが全身を這う。
覆い尽くされた小悪魔の体は瞬く間に見えなくなり、風の刃の向こう側に消えていった。
高速で何百もの大小なる風の刃が体を走り、悲鳴を上げる間もなく切り刻まれていく。
腕が切り飛ばされ、飛ばされた先でも刃が待ち受け細切れにされる。他の部分もそれの繰り返しだった。
きっかり三秒が経った後、少年が掴んでいた場所に残されたものは何もない。
肉片さえ残されず、小悪魔は消滅してしまったのだった。
(確かに鎌は当たったはずなのにHP、MPの減少も起きていない。すり抜けたように見えましたね……スキル?)
その様子を逐一見ていたのはルクレスである。
覗き見る者で少年のステータスをチェックし、回避困難の一撃をどうやって凌ぐのか……。
まずは小手調べといった所だったのだが召喚した悪魔は瞬殺されてしまった。
確かにわかったことはある。
試金石としての役割は果たしたともいえる。
だがあまりに不確定で頼りない情報であり、それを元に立ち回りを考えることは出来ない。
とりあえず、物理攻撃に関してはスキルで無効化される可能性があると考えてもいいだろう。
接近戦についてもあの風の攻撃は危険極まりない。
あの攻撃もMPを消費していないことからスキルによるものと考えるのが妥当。
元より接近戦が得意というわけでもないので近寄るつもりはないが。
「まさか切り傷の一つも負わないとは感服致しましたよ、ワタクシは」
「………………」
「おや?足元など見てどうしましたか?我が家を破壊されて怒っているのですかな?」
少年は小悪魔に切りかかられたことなど瑣末事だったかの如く静かに掴んでいた手を元に戻すと、ルクレスが言ったように地上に視線を馳せていた。
じっと見つめる瞳には何の感情も沸き起こってはいない。
少年が彼女と過ごしたあの部屋は完膚なきまでに破壊されているというのに。
「あぁ、今更そんなもので感情が揺さぶられてはいない……。
今は憎いだけ。お前を殺したい。痛みに喘ぎながら苦悶の声を響かせたい」
少年が発した声にも感情は乗せられてはいなかった。
平坦すぎて寒々しいだけで、逆にそれが少年の内面を語っているように思える。
「でも、それでも少しだけ胸がざわついた。ちょっと力を使うから死ぬな。まだまだいたぶりたいんだから……」
そう言ったが早く、少年は両の手を重ねて突き出し魔術の詠唱を始めた。
これに驚いたのはルクレスである。魔術を使うのはおかしくないが、少年が唱えているのは下級の風の魔術、ウィンド。
INTの補正によって魔術というものは威力が変わるのだが、それでもただの下級魔術が自分の多層魔術障壁を突破できるとは思えない。
だがあのスキル郡を見ていると油断できないのも確かである。
故にルクレスは魔力を込めて障壁の強度を増して更に鉄壁にし、いつでも回避できるように飛行制御に力を注いだ。
妨害するのも下級魔術は詠唱が短くて難しい。ここは防御に徹する。
動揺を即座に消して相手が使う魔術を看破、攻撃が来る前に頭の中でそう結論付けることが出来たのはさすがといえるだろう。
そうして風の魔弾は放たれた。
「くっ!!」
気付いた時には障壁に少年の魔術がぶち当たっていた。
せめぎ合いながらも尚も勢いを失わない魔弾を目の前にして、ルクレスは必死に障壁に魔力を注ぎ込む。
いつ来たのかもわからない攻撃はルクレスの多層魔術障壁の第一層、二層を容易く打ち破っていた。
十層にも至る彼の鉄壁の防御は実の所、第一層や第二層を破壊されることは多々ある。
何故なら一層と二層は緩衝材としての役割を果たすための機構であり、本命の障壁はそれ以降であるからだ。
それでも下級魔術程度であれば絶対に破れないし、中級であろうと下位のものであれば耐えるだろう。
だからこうも易々と突破されるなど夢にも思わない。
それに加えて風の魔術は未だに健在なのだから、規格外にも程がある。
しかし耐えられないわけではない。
「ヒ、ヒヒッ。これしきでワタクシの不滅の盾を破れるとお思いで?見事、凌いで見せましょう…………!?」
強がりのその一言も目の前で行われている光景を目にすると、言葉を失ってしまった。
少年が更なる魔術を唱えていたからだ。
当たり前といえば当たり前の話である。
待っている謂れもなく、また下級の魔術であるから次弾の装填も早い。
一つ目をようやく凌いだと思えば、次の魔弾が襲いかかる。
今度は第三層がひび割れて決壊寸前までに追い込まれた。
音速の魔弾が轟音を響かせて次々に迫り来る。
少年は背中の羽で姿勢制御を行い、反動を抑えながら魔術を打ち続けた。
銃弾の嵐が絶え間なくルクレスに襲い掛かり、逃げることさえ出来ずに障壁に魔力を注ぎ込むしかない。
被弾覚悟で回避することは不可能ではないだろうが、あれほど連続して魔術を打たれると次の一手か二手で詰んでしまうだろう。
彼にとって明らかにまずい事態だった。
ルクレスも一角の魔術師であるからMPの量も相当に多い。
だがあの少年のように類を見ないほどのMP量はしていない。
消耗戦であれは圧倒的な不利。まさかこんな始めから絶対的な危機に陥るとは……。
だが彼の絶望はまだ始まったばかりである。
「ぐ、ぐぐぐ……なんと強大な魔力。ワタクシがこうも防御に徹しないといけないとは。これで少しの力だというのですか」
「何を勘違いしている。俺はまだ力を見せてもいない。これはただの小手調べ」
障壁と魔弾のせめぎ合いは未だに続き衝突する音がけたたましい叫び声を上げているというのに、少年の声はいやに近くに聞こえてくる。
囁き声にそれは近く、しかし、少年はあの場所から微動だにしていない。
おそらく何かの魔術の一端か。
解析する余裕もなく、ルクレスはその言葉の内容に理解しがたいものを感じた。
いや理解したくなかった。
小手調べ。最初にルクレスがしたように意趣返しをしていたということ。
つまり本命はまだ訪れてもいないということ。
「自分の力に驕った罰。その身に受けろ」
そうして少年は力の一端を解放する。魔法という超常の力を。
母の歌にも似た、今となっては誰にも理解することが出来ない悲しき調べを口にして。
『その身、黒き風にて食い潰される。心さえ、魂さえ残すことは許さない。
絶望の海に沈んで消えよ "凶ツ風"』




