第三十九話 避けられなかった結末
「そ、そんな馬鹿な……何故君が……。こんなの嘘だ…………私がミライを……」
濃厚な血の匂いと共に血溜まりが広がり、勢力を増していく赤は留まることなく流れ行く。
狭い部屋だからこそすぐにその匂いは充満し、迫り来る死を予感させる。
からん、とレイピアを取り落としたレコンは後退り、背中を壁に打ち付けた後でさえ逃れるように足の動きを止めなかった。
能面の男は微動だにせず、仮面の裏に潜んでいる表情は読めない。
俺はミライに抱き締められながら、そんな光景を見ていた。
「ぐっ……み、ミコト、大丈夫?」
痛みに顔を顰めながら、ミライは無理やり笑顔を作って俺を心配していた。
彼女はわき腹から服に染みこませるほど出血していた。
レイピアは貫通させることに特化した武器だ。傷口はそう大きくはないだろうが、血管を多く傷つけられたのかもしれない。
ぽたぽたと今も服に染み切れなかった血が床に流れ落ちている。
「助けに……来てくれたんだ」
「そう、だよ。お母さんが来たからもう安心だからね」
貫かれた傷が痛むだろうに、彼女は気丈に微笑んでいた。
暗闇の中でもそんな表情が俺にはちゃんと見えて、心の底から安堵を覚える。
彼女から伝わるぬくもりが、彼女の言葉が、彼女の存在が俺を救ってくれる。
「う、うわああああああああああああああああああ!!!!!!」
愛する女を傷つけた反動か、レコンが壁際で狂ったように叫んだ。
床にずり落ちて体を小さく縮め、彼は両手で頭を抱え込む。そして自分が犯した罪を後悔するように慟哭した。
腕の中で俺を抱きながらミライがその声に振り向いた。
今まで見たこともない厳しい表情でレコンのことをキッと睨みつける。
その視線に怯んだ哀れな男には、先ほどの尊大で高みから見下ろす貴族の姿などどこにもない。
「許さない……!ミコトを傷つけようとした貴方を私は!!」
「み、ミライ……私は、私は……」
言い訳を口に走らせようとした男に、ミライはそれさえ許さず怒りに身を任せ魔術を打ち放った。
風の魔術はすぐさま命に従い、主の逆鱗に触れた愚か者に牙を剥く。
激震。
建物全体が揺れたかのような振動がこの部屋を揺らし、ミライが全力で放った魔術がいかに強力かを物語る。
ともすれば人間など一撃で粉砕するほどの魔術であったが、レコンの身は無事だった。
能面の男が彼の前に立ちはだかり、身を挺して守ったからである。
ルクレスの前には幾重もの透明な壁が変幻していた。
「多層魔術障壁!?貴方、一体……!!」
「ヒヒヒッ。怖い怖い。ワタクシは何もしませんよ。そんなことよりも……」
能面の男はミライ、いや、ミライの腕の中にいる俺のことを指し示すととても愉快げにこう言った。
「その子、死に掛けていますがよろしいんですかな?」
「!?」
ばっとミライが俺の方に振り向き、抱き締めていた体を離して俺の状態を確かめる。
彼女の服を濡らしていたのは彼女自身の血だけではなかった。
俺の左胸から吹き出している血もそれを手伝っていた。
「いやあああああ!!?ミコトっ!ミコトどうしてっっ!?」
栓の役割をしていた彼女の体が離れることによって、だくだくとミライの傷以上に血が吹き上げていく。
あぁ、俺が刃に貫かれたことは気付いていた。
意外に冷静でいられるのも、別に達観しているわけじゃない。
前世で俺は切り殺されたんだから、ただ知っていただけ。
ごめんな、俺なんかかばう必要なんてなかったんだ。
そう、間に合わなかったんだから。
「ミコト、今、今、回復するからねっ!絶対に助けるからね!!」
あぁ……回復魔術……か。そうだな。回復、しなきゃな。
「われ……いやす。ぐっ……みど、り……の……かぜ」
げほっげほっ、と嫌な音の咳が漏れる。口元に手をもって行く余裕もないのでわからないが、たぶん吐血したのだろう。
痛みはあまり感じないが、非常に苦しい。
わずらわしいな……詠唱がうまくできない。
せっかく覚えたての回復魔術をミライに見せられないじゃないか。
「ミコト!?ダメッ!!そんな体で魔術を唱えたら死んじゃう!治療なら私がするから!!」
そうは言ってもこれは俺の見せ場だ。
誰にも譲れない。いや、魔術の師匠である彼女だからこそ譲れない。
弟子の成長を見守っていて欲しい。こんな傷なんてすぐに癒せる。
「せいめい……の……いぶきは、だいちをめぐり……」
「ミコト!?お願い、私の話を聞いて!!」
回復魔術はその特性からなかなか披露する機会がなかった。
まさかわざと怪我をしてもらうわけにもいかず、かといって自傷するのもミライに怒られるだけだ。
だからとっておきの場面を待っていたんだ。
「あまねく……げほっげほっ。……いのちに、やすらぎ……を」
これで詠唱の部分は全て終えた。後は魔術の名前を唱えるだけだ。
たどたどしくて、あまりに粗末な詠唱だったがちゃんと成功するだろうか。
まさかの大一番で失敗するわけにもいかない。
大丈夫、この魔術は絶対に成功する。傷は絶対に治す。俺の未来を守りぬくために。
そして、俺は震える右手をどうにか持ち上げて魔術を唱え終わる。
「ヒール……」
「どう……して。どうして……わたしの……傷を、治すの……?自分に、するんじゃなかった……の?」
癒しの魔術はここに完成した。
薄ぼんやりと俺の手は輝き、緑色の癒しの光はミライの傷を瞬く間に治していく。
フィーリングブーストの効果はここでも発揮されるらしい。
普通の回復魔術ならばここまでの効果は見込めないだろう。
傷の幹部から離れないように、持てる限りの力を使って維持する。
自身の傷跡が更に開くなるような結果になろうとも、関係ない。
右腕が力を失くし始めたら、唇を噛み切って耐えよう。
それでも耐え切れなければ、残りの左手で支えよう。それでも我慢しきれなければ、残りの命全てを使ってでも成し遂げよう。
これが俺に出来る、最初で最期の親孝行なのだから。
「やめて……!もうやめてぇ!お願いだから、ミコト、お願い……」
ぽたり、ぽたりと彼女の瞳から涙が零れる。
そんな顔はして欲しくないのに。ただ俺は喜んで欲しいだけなのに。
泣かないで。
そんな一言を言う力さえもう残っていない。
自分からその涙を拭うことも、抱き締めようとすることも出来ない。
体はすでに言うことを効かなくなっていて、今が温かいのか寒いのかもわからない。
一度は経験したことだ。怖くないと言えば嘘だが、今はそれより頑張ることがある。
でもそれも、難しいなぁ……。
俺はミライに、ただ、笑顔をあげたい……だけ、だったのに。悔しいな。
それでも。
それでも最期に回復魔術だけはちゃんと使えることが出来た。
仄かな光がその役目を終えて掻き消える。
彼女の傷を見れば、服の穴から見える肌には傷跡の一つさえ見つからない。
やった……俺はミライを助けることが出来たんだ。よかった……よか、った……。
それから俺が事切れるのは、数秒後のことだった。
「ミ……コト?ねぇ、返事して?みこと?ねぇ、目をあけて、みこと……」